第46話 雪国ノルド
旅立ちから十日。わたくしたちはついにノルドへ辿り着いた。
それは想像をはるかに超える雪の世界だった。見渡すかぎりの白。
空も大地もすべてが雪と氷に覆われている。
深い谷あいに、身を寄せ合うように石と木で組まれた家々が並ぶ。
それがノルドの中心の集落だった。
けれど、その集落は——死にかけていた。
人の姿はまばらだった。
たまに見かける村人も、皆痩せこけ、うつろな目をして力なく歩いている。
家々の煙突から立つ煙は細く、頼りない。
本来なら厳しい冬を越すために火を囲み、寄り添い合っているはずの季節。
なのに集落全体に、生気がなかった。
「ひどい……」
馬車を降りたわたくしは、思わず呟いた。
辺境ヴァルドも、かつては飢えていた。けれどそれとは質が違う。
ヴァルドの飢えには、まだ「腹を満たしたい」という生への渇望があった。
けれどノルドの民の目には、その渇望すらない。
食べることへの希望そのものを失った者たちの、虚ろな目。それが何より恐ろしかった。
道の脇に、薪を抱えた女がうずくまっていた。その傍らで、幼い子がぐずっている。
「おなかすいた」ではない。「もう食べたくない」と、首を振っているのだ。
何を食べても味がしないなら、空腹を満たす意味すら、見いだせなくなる。
食欲とは、味への期待が支えていたのだと——わたくしは初めて、思い知った。
◇
リーセは、わたくしたちを集落のいちばん奥、族長の館へと案内した。
質素だが温かみのある館。出迎えたのは、リーセの父である族長だった。
白い髭をたくわえた、いかにも頑健そうな男。
けれどその顔にも、隠しきれない疲れと憔悴が滲んでいた。
「よくぞ、こんな辺境まで。……娘が、無理を申したでしょう」
族長は深く頭を下げた。
「正直に言えば、わしは半信半疑だった。よその土地の貴婦人に、何ができるのかと。だが——もう、藁にもすがる思いなのです。どうか、わしらの話を、聞いてやってくだされ」
「もちろんです。そのために、参りました」
わたくしが頷くと、族長は、館の奥へと目をやった。その視線の先に、小さな寝台があった。
「……あれが、わしの孫。リーセの弟の、ニルスです」
◇
寝台に横たわっていたのは、まだ十にも満たない、幼い少年だった。
痩せ細った体。こけた頬。雪のように青白い肌。
かろうじて開いた目に、生気はほとんどない。
「姉、さま……」
か細い声。それだけで、ぜいぜいと息が上がる。
わたくしは思わず寝台に駆け寄り、その小さな手を握った。
冷たい。氷のように冷たい手だった。
「ニルスくん。わたくしはセラ。あなたを助けに来たわ」
少年はうっすらとわたくしを見た。そして消え入りそうな声で言った。
「……おねえちゃん。ぼく、ずっと、おいしいものが食べたいんだ。あったかくて、おいしいもの。でも、なにを食べても、あじがしないの。ぼく、わすれちゃった。おいしいって、どんなきもちだったか……」
その言葉に、わたくしの胸は、引き裂かれるように痛んだ。
おいしいって、どんな気持ちだったか、忘れた。
——たった十年も生きていない子が、そんな悲しいことを言う。
食べる喜びは、人が生きる根っこの喜びのひとつ。
それを奪われた子どもの姿は、わたくしの料理人としての魂を、激しく揺さぶった。
◇
寝室を辞したあと、わたくしは族長に、いくつか尋ねた。
原因を探るには、まず、異変の「形」を知らねばならない。
「族長様。味が失われはじめたのは、いつ頃のことですか。そして、どこから」
族長は、しばらく記憶をたどるように、目を閉じた。
「……ちょうど、半年前。秋の終わりだったか。最初におかしいと言い出したのは、谷の、いちばん奥の村の者たちでした。北の、氷の山に近い村です。それがひと月、またひと月と経つうちに、こちらへ、こちらへと、降りてくるように、広がってきた」
北の、氷の山。わたくしは、その言葉を胸に刻んだ。
波紋の中心。震源はおそらく、そこにある。
「その氷の山には、何か。言い伝えや、近づいてはいけない場所など、ありませんか」
族長の顔が、わずかに、こわばった。
「……あの山には、古い言い伝えが。ノルドでは、“眠りの山”と呼ばれております。はるか昔、世界がまだ若かった頃。そこに、人ならざるものが、眠りについた、と。決して、その眠りを妨げてはならぬ——そう、代々、戒められてきました」
人ならざるもの。眠り。
——思わず、息を呑んだ。
書庫の記録。宰相の言葉。“あのお方”が、目覚めれば。
すべてが、その一点を、指し示しているような気がした。
◇
館を出て、わたくしは雪空を見上げた。こぼれそうになる涙を、ぐっと堪える。
「セラ」
隣に立つアルヴィスが、静かにわたくしの肩に手を置いた。
「気負いすぎるな。お前が、こういう時に退く女でないことは知っている。だが——お前は一人ではない。おれも、リーセもいる」
その言葉に、強張っていた肩から、少し力が抜けた。
「……はい。ありがとうございます」
わたくしは涙を拭い、顔を上げた。悲しんでいる場合ではない。
あの子に、もう一度「おいしい」を取り戻す。そのために、ここへ来たのだ。
「決めました。必ず原因を突き止めます。端してニルスくんに、ノルドの皆さんに、もう一度あたたかくておいしいものを食べさせてあげる。あの子が忘れてしまった“おいしい”という気持ちを、思い出させてあげるんです」
「ああ。おれも力を貸す」
決意を新たに、わたくしは集落を見渡した。
調査を始めなければ。この異変は、いつ、どこから始まったのか。
味が消える、その境界はどこにあるのか。
手がかりは必ず、この雪の中に隠れているはず。
(待っていて、ニルスくん。おねえちゃんが、必ず取り戻してあげるから)
味の失われた白い世界。その謎へと、わたくしの戦いが、いま本格的に動き出した。
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