第45話 北へ
ノルドへの旅立ちは慌ただしかった。
留守を預かるのは家令のセバスと、すっかり領地に馴染んだマルクたち。
ヴァルドの食を彼らになら安心して任せられる。一年前には考えられなかったことだ。
わたくしが育てた人と知識は、もうわたくしがいなくても、この土地を回していける。
「奥方様。どうか、ご無事で」
見送りに集まった村人たちの顔は心配げだった。けれどその目には信頼もあった。
きっと奥方様なら、と。その信頼が背中を押してくれる。
馬車にはわたくしとアルヴィス。御者を兼ねた護衛が数人。そして道案内のリーセ。
ヴァルドの保存食をたっぷり積み込んだ。
何ヶ月でも保つ、軽くて滋養のある品々。これは味を失った土地で、何よりの武器になる。
「行ってきます」
わたくしはヴァルドの大地にそう告げた。
必ず答えを持って帰ってくる。そしてまた、ここで料理を作る。
そう誓って、馬車は北へと走り出した。
◇
旅は日を追うごとに寒くなっていった。
緑が減り、木々が痩せ、やがてあたり一面が白に変わる。
空気は刺すように冷たく、吐く息はたちまち凍りつく。
ヴァルドの冬も厳しいが、ノルドへ近づくほどに寒さは別格になっていった。
その寒さの中で、わたくしは奇妙なことに気づきはじめた。
道中の宿場で口にする食事。それが北へ進むほど、少しずつ味が薄くなっていくのだ。
最初は気のせいかと思った。寒さで舌が鈍っているのかと。
けれど違った。《美食家の舌》ははっきりと捉えていた。
食材から滲み出る味の輪郭が、北へ行くほどぼやけ、霞んでいく。
まるでノルドという震源から、味の消える波紋が、じわじわと外へ広がっているかのように。
試しに、宿場ごとに、出された汁物を、注意深く確かめてみた。
ヴァルドを出て二日目の宿では、味は十分にあった。
四日目では、出汁の旨味が、わずかに薄い。
六日目の宿では、塩気こそ残っているものの、素材の味は、ほとんど感じ取れなくなっていた。
距離と、味の薄れ。その二つは、はっきりと比例していた。
「アルヴィス様。異変は、もう始まっています。ノルドだけじゃない。その周りの土地まで、少しずつ侵されはじめている」
わたくしの声に、アルヴィスの顔が引き締まった。
「広がっている、というのか」
「ええ。ゆっくりと。でも確実に。中心から、外へ。——この調子で広がり続ければ、いつか、ヴァルドにも届きます。いいえ、ヴァルドだけじゃない。世界中の食卓から、味が消える日が、来てしまう」
口にして、肌が粟立った。
それは決して、大げさな想像ではなかった。現に、波紋は、こうして広がり続けているのだから。
「急ぎましょう。原因を突き止めて、食い止めなければ。——手遅れに、なる前に」
◇
ノルドの国境に近い、小さな村を通りかかったときのことだった。
休息のため立ち寄ったその村は、奇妙に、静まり返っていた。
昼間だというのに、笑い声ひとつしない。
広場では、数人の村人が、黙々と食事をとしていた。湯気の立つ椀を手に。
けれど、その顔に、食事を楽しむ色は、まるでなかった。
ただ、生きるために。義務のように。口へ運び、飲み込む。
誰も、言葉を交わさない。誰も、笑わない。
あたたかいものを食べているはずなのに、その光景は、見ているだけで胸が塞がるほど、冷たく、寒々しかった。
一人の老人が、椀を置いて、ぽつりと呟いた。
「……昔は、この村の汁物は、うまかったんだがなあ。婆さんの作る、あれが、楽しみで。今は、何を食っても、おが屑を噛んでるみたいだ。腹は、膨れるんだがね。……生きてる気が、しねえんだよ」
その言葉に、わたくしは、言葉を失った。
これが、味を失うということ。
食べることは、ただ腹を満たすだけの、味気ない作業に成り果てる。
食卓から会話が消え、笑顔が消え、温もりが消える。
リーセの言ったとおりだった。村から、灯が、消えていく。
その光景を、しっかりと、目に焼きつけた。
これは、ノルドだけの悲劇ではない。食い止めなければ、いずれ、すべての食卓が、こうなる。
◇
リーセは道中、ぽつぽつとノルドのことを語ってくれた。
雪と氷に閉ざされた厳しい土地。けれど人々は誇り高く、助け合い、たくましく生きてきた。
乏しい食材を工夫してあたたかい料理を囲み、長い冬を笑って越えてきたのだという。
「ノルドの民にとって、食卓はただ腹を満たす場所ではありません」
リーセの声は誇りに満ちていた。
「凍えるような夜、家族で火を囲み、あたたかいものを分け合う。その時間こそが、わたしたちの生きる支えでした。それを奪われたのです。味のない食事は、ただ冷たく、孤独です。皆、口数が減り、笑わなくなりました。村から灯が消えていくようで……」
その言葉に、わたくしの胸は強く締めつけられた。
分かる。痛いほど分かる。食卓の温もりが、人をどれだけ支えるか。
わたくしは辺境でそれを何度も見てきた。あたたかい一皿が、凍った村に笑顔を取り戻していくのを。
だからこそ、許せなかった。
人から食べる喜びを奪うもの。食卓の灯を消していくもの。
それがどんな存在であろうと、わたくしは立ち向かう。料理を愛する者の意地にかけて。
「リーセさん。必ず取り戻しましょう。ノルドの食卓の、あの灯を」
リーセの青い瞳が潤んだ。そして深く頷いた。
馬車は白い世界を、ひたすら北へ。
その先で待つものが希望か、絶望か。まだ誰にも分からない。
けれどわたくしたちは進む。味の消えた世界の、その中心へと。
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