第44話 味のない、スープ
「まず、確かめさせてください」
わたくしはリーセに頼んだ。
「ノルドで起きていることを、この舌で。あなたが普段口にしているものを、何かお持ちではありませんか」
リーセは戸惑いながら、旅の荷からひとつの包みを取り出した。
硬く乾いた、保存用のスープの素。ノルドの民が雪の季節に常食するものだという。
「これを湯で溶けば、スープになります。けれど……もう、誰が作っても何も感じないのです」
わたくしはそれを湯に溶き、ひと匙すすった。
——そして、息を呑んだ。
何もしない。塩気はある。具材の形もある。なのに味がまるで届いてこない。
霧をすすっているような、奇妙な虚無。
《美食家の舌》が食材の真価を探ろうとして、空を切る。
もう一度、今度はゆっくりと、舌の上で転がしてみる。やはり同じだった。
本来なら、干した魚の旨味、野菜の甘み、香草のかすかな苦み——そういった無数の“声”が、ひと口の中で響き合うはず。それがない。
まるで、よくできた精巧な造花のよう。形は完璧なのに、香りも、命も、宿っていない。
「……これは」
一瞬、呼吸を忘れた。
料理が下手なのでも、食材が悪いのでもない。
素材そのものから“味”という存在が、根こそぎ抜き取られている。
こんなものは前世でも今世でも、出会ったことがなかった。
前世で、どれほど鮮度の落ちた食材を見てきても、味が「ゼロになる」ことなど、決してなかったのに。
「分かっていただけましたか」
リーセの声が震えた。
「これがノルドの毎日です。何を食べてもこう。お腹は膨れても、心はちっとも満たされない。人はこんなにも味のないものばかり食べていると、生きる気力まで失っていくのですね」
わたくしは、彼女の包みに残った乾物を、もうひとつ手に取った。匂いを嗅ぐ。
——かすかに、ある。乾物特有の、香ばしい匂い。
「リーセさん。匂いは、するんですね」
「え……? は、はい。言われてみれば、匂いは、まだ」
「では、舌触りは? 噛んだときの、歯ごたえは?」
「それも変わりません。硬さも、食感も、昔のままです」
なるほど、とわたくしは思った。
失われているのは、五感のすべてではない。匂いも、食感も、見た目も、無事。
ただ“味”だけが——舌が感じ取るはずの、その一点だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
これは、自然に起こる劣化や腐敗とは、まるで仕組みが違う。
誰かが、あるいは何かが、味という要素だけを、狙って抜き取っているかのよう。
その異様さに、思わず喉が鳴った。
◇
その夜。わたくしは厨房でひとり、リーセのスープの素と向き合った。
何度も溶かしては舐めた。温度を変え、《美食家の舌》を限界まで研ぎ澄ます。
失われた味の、わずかな痕跡でも掴めないか。原因の尻尾でもいい。
「根を詰めているな」
アルヴィスが、湯気の立つ椀を手に入ってきた。わたくしが仕込んだ味噌の汁物だった。
「飲め。お前の顔色のほうが、よほど心配だ」
差し出された椀をひと口すする。
ふわりと広がる味噌の香り。出汁の旨味。野菜の甘み。
——ああ、味がある。当たり前のことが、こんなにもありがたい。
じんと体の芯まであたたかくなった。
ついさっきまで、味のない虚無を舐め続けていたせいか、その一杯の旨味が、泣きたくなるほど、愛おしく感じられた。
これだ。これを、ノルドの人々は、奪われている。
その瞬間、わたくしの中でひとつの確信が形になった。
「……アルヴィス様。やっぱり、おかしいんです」
「おかしい?」
「この味噌汁には、ちゃんと味がある。ヴァルドの食材には味がある。なのにノルドの食材からだけ、味が消えている」
椀を置く手が、かすかに震えた。
「病なら人に起きるはずです。毒なら口にした者が体を壊すはず。でもこれは違う。食べ物そのものから、味だけが消えている。まるで世界の一部分だけ、“味”という理が壊れてしまったみたいに」
世界の、理。
——書庫のあの一文が、また甦る。
『失われし、世界の理が、動き出すであろう』。
そして宰相の言葉。“あのお方”が目覚めれば。
「これはただのノルドの問題じゃありません。もし“味が失われる”異変が、これから世界中に広がっていくのだとしたら——」
味を感じられない世界。食べる喜びのない世界。
それはわたくしにとって、いいえ、すべての人にとって、緩やかな死に等しい。
◇
「行こうと思います。ノルドへ」
わたくしはまっすぐにアルヴィスを見た。
「この目で現地を見なければ、原因は掴めません。それに……リーセさんの弟さんが痩せ細っていく姿を、放ってはおけない。味を取り戻す手立てがひとつでもあるなら、料理人として見つけたいんです」
アルヴィスはしばらくわたくしを見つめ、ふっと口の端を上げた。
「止めても、無駄なのだろう?」
「……はい」
「ならば、おれも行く」
迷いのない即答だった。
「お前を一人で雪山へなど、やれるか。それに——“あのお方”とやらが本当にこの異変の裏にいるなら、お前を狙う者が、また現れる。おれは、お前の盾だ」
その頼もしさに、胸が熱くなる。
どんな未知の異変が待っていようと、この人が隣にいてくれる。それだけで足がすくまない。
「ありがとうございます。心強いです」
窓の外には、もう冬の気配。
これから向かうのは、一年の大半を雪に閉ざされた北の果て。
その先に待つのは、“味の失われた世界”という得体の知れない謎。
けれど、わたくしの手には《美食家の舌》がある。隣にはアルヴィスがいる。
(待っていてください、ノルドの皆さん。あなたたちの食卓に、もう一度“おいしい”を取り戻してみせます)
新たな旅の支度が、静かに始まった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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