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追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第5章 味の還る国

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第44話 味のない、スープ

「まず、確かめさせてください」


わたくしはリーセに頼んだ。

「ノルドで起きていることを、この舌で。あなたが普段口にしているものを、何かお持ちではありませんか」


リーセは戸惑いながら、旅の荷からひとつの包みを取り出した。

硬く乾いた、保存用のスープの素。ノルドの民が雪の季節に常食するものだという。


「これを湯で溶けば、スープになります。けれど……もう、誰が作っても何も感じないのです」


わたくしはそれを湯に溶き、ひと匙すすった。


——そして、息を呑んだ。


何もしない。塩気はある。具材の形もある。なのに味がまるで届いてこない。

霧をすすっているような、奇妙な虚無。

《美食家の舌》が食材の真価を探ろうとして、空を切る。


もう一度、今度はゆっくりと、舌の上で転がしてみる。やはり同じだった。


本来なら、干した魚の旨味、野菜の甘み、香草のかすかな苦み——そういった無数の“声”が、ひと口の中で響き合うはず。それがない。

まるで、よくできた精巧な造花のよう。形は完璧なのに、香りも、命も、宿っていない。


「……これは」


一瞬、呼吸を忘れた。

料理が下手なのでも、食材が悪いのでもない。

素材そのものから“味”という存在が、根こそぎ抜き取られている。


こんなものは前世でも今世でも、出会ったことがなかった。

前世で、どれほど鮮度の落ちた食材を見てきても、味が「ゼロになる」ことなど、決してなかったのに。


「分かっていただけましたか」


リーセの声が震えた。

「これがノルドの毎日です。何を食べてもこう。お腹は膨れても、心はちっとも満たされない。人はこんなにも味のないものばかり食べていると、生きる気力まで失っていくのですね」


わたくしは、彼女の包みに残った乾物を、もうひとつ手に取った。匂いを嗅ぐ。


——かすかに、ある。乾物特有の、香ばしい匂い。


「リーセさん。匂いは、するんですね」


「え……? は、はい。言われてみれば、匂いは、まだ」


「では、舌触りは? 噛んだときの、歯ごたえは?」


「それも変わりません。硬さも、食感も、昔のままです」


なるほど、とわたくしは思った。


失われているのは、五感のすべてではない。匂いも、食感も、見た目も、無事。

ただ“味”だけが——舌が感じ取るはずの、その一点だけが、ぽっかりと抜け落ちている。


これは、自然に起こる劣化や腐敗とは、まるで仕組みが違う。

誰かが、あるいは何かが、味という要素だけを、狙って抜き取っているかのよう。


その異様さに、思わず喉が鳴った。



その夜。わたくしは厨房でひとり、リーセのスープの素と向き合った。


何度も溶かしては舐めた。温度を変え、《美食家の舌》を限界まで研ぎ澄ます。

失われた味の、わずかな痕跡でも掴めないか。原因の尻尾でもいい。


「根を詰めているな」


アルヴィスが、湯気の立つ椀を手に入ってきた。わたくしが仕込んだ味噌の汁物だった。


「飲め。お前の顔色のほうが、よほど心配だ」


差し出された椀をひと口すする。


ふわりと広がる味噌の香り。出汁の旨味。野菜の甘み。

——ああ、味がある。当たり前のことが、こんなにもありがたい。


じんと体の芯まであたたかくなった。


ついさっきまで、味のない虚無を舐め続けていたせいか、その一杯の旨味が、泣きたくなるほど、愛おしく感じられた。

これだ。これを、ノルドの人々は、奪われている。


その瞬間、わたくしの中でひとつの確信が形になった。


「……アルヴィス様。やっぱり、おかしいんです」


「おかしい?」


「この味噌汁には、ちゃんと味がある。ヴァルドの食材には味がある。なのにノルドの食材からだけ、味が消えている」


椀を置く手が、かすかに震えた。


「病なら人に起きるはずです。毒なら口にした者が体を壊すはず。でもこれは違う。食べ物そのものから、味だけが消えている。まるで世界の一部分だけ、“味”という理が壊れてしまったみたいに」


世界の、理。

——書庫のあの一文が、また甦る。

『失われし、世界の理が、動き出すであろう』。

そして宰相の言葉。“あのお方”が目覚めれば。


「これはただのノルドの問題じゃありません。もし“味が失われる”異変が、これから世界中に広がっていくのだとしたら——」


味を感じられない世界。食べる喜びのない世界。

それはわたくしにとって、いいえ、すべての人にとって、緩やかな死に等しい。



「行こうと思います。ノルドへ」


わたくしはまっすぐにアルヴィスを見た。


「この目で現地を見なければ、原因は掴めません。それに……リーセさんの弟さんが痩せ細っていく姿を、放ってはおけない。味を取り戻す手立てがひとつでもあるなら、料理人として見つけたいんです」


アルヴィスはしばらくわたくしを見つめ、ふっと口の端を上げた。


「止めても、無駄なのだろう?」


「……はい」


「ならば、おれも行く」


迷いのない即答だった。

「お前を一人で雪山へなど、やれるか。それに——“あのお方”とやらが本当にこの異変の裏にいるなら、お前を狙う者が、また現れる。おれは、お前の盾だ」


その頼もしさに、胸が熱くなる。

どんな未知の異変が待っていようと、この人が隣にいてくれる。それだけで足がすくまない。


「ありがとうございます。心強いです」


窓の外には、もう冬の気配。

これから向かうのは、一年の大半を雪に閉ざされた北の果て。

その先に待つのは、“味の失われた世界”という得体の知れない謎。


けれど、わたくしの手には《美食家の舌》がある。隣にはアルヴィスがいる。


(待っていてください、ノルドの皆さん。あなたたちの食卓に、もう一度“おいしい”を取り戻してみせます)


新たな旅の支度が、静かに始まった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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