第43話 雪国からの使者
王都での戦いから、ふた月が過ぎた。
辺境ヴァルドには穏やかな日々が戻っていた。
いいえ——戻ったというより、以前よりずっと豊かに、あたたかくなっていた。
王都を救った辺境伯領という名声は、思わぬ追い風になった。
各地からヴァルドの保存食や魚醤を求める商人が、ひっきりなしに訪れる。
マルクをはじめ、宮廷を追われた料理人たちの何人かは、約束どおりヴァルドへ移り住み、領地の食をさらに豊かにしてくれていた。
その朝もわたくしは、いつものように厨房に立っていた。
「奥方様。本日の味噌の仕込み、いかがしましょう」
「ええ、見せてください。——ああ、いい色。しっかり発酵が進んでいますね」
前世の記憶を頼りに、ずっと試行錯誤してきた味噌づくり。
それがようやく、納得のいくものに仕上がりつつあった。
この琥珀色の塊が、どれだけの料理を化けさせてくれることか。考えるだけで胸が躍る。
「セラ」
厨房を覗き込んだのはアルヴィスだった。
「精が出るな。少し味見を、させてもらってもいいか」
「あら。旦那様が味見のおねだりだなんて、珍しい」
くすくす笑いながら、わたくしは仕込んだばかりの味噌を溶いた、あたたかい汁物を差し出した。
具は村で採れた根菜と、豆腐もどき。
ひと口すすったアルヴィスの厳めしい顔が、ふっとほどける。
「……うまい。体の芯から、あたたまる」
「ふふ。よかった。寒い朝には、これがいちばんです」
椀を傾けながら、アルヴィスが、ふと、声を落とした。
「……平穏なのは、いいことだ。だが、おれは、まだ、あの宰相のことが、引っかかっている。処刑を前に、忽然と消えた。そして、あの言葉——“あのお方が目覚めれば”、だったか」
わたくしの手が、ほんの少し、止まった。
王都での決着から、ふた月。あの不気味な言葉は、ずっと、胸の奥に、棘のように残っている。
何事もなく日々が過ぎていくほど、かえって、その静けさが、嵐の前のように、思えてくる。
「ええ。……気になりますね。でも、今は、手がかりも、ありません。できることをしながら、備えておくしか」
「ああ。そうだな」
アルヴィスは頷き、また椀を傾けた。
「……まあ、何が来ようと、お前が作る飯がうまければ、おれは、たいてい、何とかなる気がするがな」
「もう。そういう言い方」
軽口に、わたくしは笑った。けれど——その不穏な予感は、思いのほか早く、現実のものとなる。
出会った頃は表情ひとつ変えなかったこの人が、今ではわたくしの料理に、こんなにも素直な顔を見せてくれる。その変化が何より愛おしかった。
——けれど、この穏やかな朝は長くは続かなかった。
◇
その報せは昼過ぎにもたらされた。
「奥方様! 旦那様! 大変です。北から、お客人が」
セバスが珍しく慌てた様子で駆け込んってきた。アルヴィスの表情が引き締まる。
ノルド。ヴァルドのさらに北。
一年の大半を雪に閉ざされた、辺境の中の辺境。けれど独自の文化を持つ、誇り高い土地だと聞いていた。
「はい。それが……ノルドの使者だと。なんでも火急の用件だと仰って」
通された応接間で待っていたのは、一人の若い女性だった。
雪のように白い肌。深い青の瞳。厚い毛皮をまとった凛とした佇まい。
けれどその顔は、長旅のせいか——あるいは別の何かのせいか、ひどく青ざめ、やつれて見えた。
「お初にお目にかかります。わたくしはリーセ。ノルドの族長の娘にございます」
彼女は深く頭を下げた。
正式に顔を上げると、すがるような目でわたくしを——いいえ、わたくしの“噂”を見つめた。
「不躾をお許しください。こちらに“どんな食材の真価も見抜く”、奇跡のような舌を持つ奥方様がいらっしゃると聞きました。それが本当なら——どうか、わたくしたちのノルドを救っていただけませんか」
◇
リーセが語った話は、にわかには信じがたいものだった。
「……ノルドの食卓から、“味”が失われていくのです」
「味が、失われる?」
わたくしは眉をひそめた。リーセは苦しげに頷いた。
「はい。ある時から、突然。何を食べても味がしなくなった。最初はほんの数人でした。けれどそれが村から村へ広がって。今ではノルドのほとんどの民が、食べ物の味を感じられなくなっているのです」
ぞくり、と背筋が冷えた。
味がしなくなる。それは食べる喜びが奪われるということ。
人は味を感じられなければ食欲を失い、やがて衰弱していく。
あの毒に冒された国王の姿が、ふと脳裏をよぎった。
「医者にも薬師にも診せました。けれど誰にも原因が分からない。病でも毒でもない。ただ世界から——わたしたちの食べ物から、“味”というものだけが、すっぽりと抜け落ちていくのです」
リーセの青い瞳が潤んだ。
「わたしの幼い弟も……もう何ヶ月も、まともに食事をとれていません。日に日に痩せていく弟を見ているのが、つらくて」
その言葉に、わたくしの胸がぎゅっと締めつけられた。
味を感じられない。食べる喜びを奪われる。
料理を愛するわたくしにとって、それはこれ以上ないほどおぞましい話だった。
そして同時に。
(……“味”が、失われる?)
わたくしの中で、ひとつの不吉な予感が頭をもたげた。
食べ物の真価を視る、わたくしの《美食家の舌》。
その力に関わる“神の舌”の伝説。
そして 宰相が最後に残した、あの言葉。
——“あのお方”が目覚めれば。世界の真実に向き合うことになる。
まさか。このノルドの異変は——あの大きな“何か”の、始まりなのではないか。
「リーセさん」
わたくしはまっすぐに彼女を見た。
「詳しいお話を聞かせてください。そしてもし、わたくしの力でできることがあるのなら。必ず、お力になります」
穏やかな日々は終わった。
新たな謎が——“味の失われる世界”という得体の知れない異変が、わたくしを再び、大きな物語の渦へと誘おうとしていた。
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