第35話 塔の中の料理人
幽閉の塔での日々が始まった。
宰相はすぐにはわたくしの前に現れなかった。
じわじわと孤独と不安で追い詰める。
そうしてわたくしが心を折り、自ら「神の舌の力を差し出します」と縋ってくるのを——待っているのだ。
(……甘いですわ、宰相閣下)
わたくしは冷たい床に座り、静かに思考を巡らせていた。
絶望に飲まれている暇はない。
この状況をどうやってひっくり返すか。
手がかりはどこにあるか。
塔の見張りは二人の若い兵士だった。
食事だけは一日二度運ばれてくる。
——その食事を見て、わたくしはふと気づいた。
(……この子たち、ずいぶんひどいものを食べているのね)
見張りの兵士が自分たちの食事として齧っていたのは、硬く乾いた粗末なパンと、塩辛いだけの干し肉だった。
《美食家の舌》が即座に見抜く。
質の悪い安い食材。ろくに手もかけられていない。
——宮廷の末端の兵士にまで、食の貧困が及んでいる。
そのとき、わたくしの中でひとつの考えが閃いた。
◇
「……あの。少しお願いがあるのですが」
わたくしは鉄格子越しに、見張りの兵士に声をかけた。
若い兵士は警戒した目でこちらを見た。
「囚人が何の用だ」
「そのパン、よろしければわたくしに少しいただけませんか?
それともし、塩とその辺に生えている香草を分けていただければ——
あなた方の食事を見違えるほど美味しくしてお返しします」
兵士たちが顔を見合わせた。
怪しむような、けれどどこか興味を引かれたような顔。
「……何を馬鹿な。そんなこと」
「騙されたと思って試してみてください。減るものではありませんし。
——退屈な見張りの暇つぶしにもなりましょう?」
しばらく迷った末。
好奇心が勝ったのか、若い兵士はしぶしぶ固いパンとわずかな塩を鉄格子の隙間から差し入れた。
わたくしはそれを受け取ると、限られた道具で工夫を凝らした。
硬いパンは水で湿らせ、塩とすりつぶした香草を揉み込む。
塔の窓から差すわずかな陽だまりで少し寝かせる。
乾いた干し肉は細かく裂いてパンと合わせる。
たったそれだけ。
けれど《美食家の舌》の導きがあれば、粗末な食材も生まれ変わる。
「——どうぞ。召し上がってみてください」
差し出されたそれを口にした兵士の目が——かっと見開かれた。
「……っ、う、うまい!?
なんだこれ、さっきまでのあのパサパサのパンと同じものとは思えない……!」
もう一人の兵士も慌てて口にする。
そして同じように目を丸くした。
「ほ、本当だ……!
こんなにうまいもの、宮廷に来てから、いや生まれて初めて食ったかもしれねえ……!」
◇
それが始まりだった。
翌日から、見張りの兵士たちのわたくしを見る目が明らかに変わった。
囚人を見る冷たい目から、何か特別なものを見るような目へ。
わたくしは彼らの食事を毎日美味しくしてあげた。
見返りなど求めずに。
ただ目の前の人に、あたたかい食事を。
——それは辺境でずっとやってきたこと。
料理を通じて、人の心をほどいていく。
兵士たちは少しずつ心を開き、ぽつぽつと話をするようになった。
彼らもまた薄給で、まともな食事も与えられず、宮廷の上層部にこき使われる末端の人間だった。
「……あんた、本当に謀反人なのか?
とてもそうは見えねえ」
ある日、若い兵士がぽつりと言った。
「あんたみたいな人をこんなところに閉じ込めて。
宰相様はいったい何を考えてるんだか……」
わたくしは微笑んだ。
糸口は掴めた。
固く閉ざされた塔の中。
けれど料理というわたくしの“武器”は、こんな場所でも確かに人の心に届く。
(……人はあたたかいものを食べれば優しくなれる。
そして——本当のことを話したくなる)
塔の中に味方を作る。
そこから外と繋がる糸を手繰り寄せる。
——反撃の第一歩。
◇
一方、その頃。
王宮の地下牢に、アルヴィスは繋がれていた。
冷たい鎖。
光の差さぬ石の檻。
けれど彼の目から戦意が消えることはなかった。
むしろ、その双眸は研ぎ澄まされた刃のように静かに燃えていた。
(……セラ。必ず迎えに行く)
彼はただ囚われているわけではなかった。
看守の交代の刻。巡回の間隔。牢の構造。
脱出と反撃のためのあらゆる隙を——
氷の死神と呼ばれたその冷徹な頭脳で、冷静に計算し続けていた。
そして彼にも確信があった。
あの妻が、こんな卑劣な罠に易々と屈するはずがない、と。
(あいつは必ず何かを仕掛ける。
——おれはそれに応えるだけだ)
引き離された塔と地下牢。
けれど二人の心は同じ一点を——
この理不尽を覆す、その一点を見据えていた。
わたくしの静かな戦いは、もう始まっていた。
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