第3話 空っぽの食料庫と、最初の一歩
翌朝、わたくしは夜明けとともに目を覚ました。
前世からの癖だ。仕込みは、朝が勝負。窓の外はまだ薄暗く、辺境の朝は刺すように冷たい。それでも、布団の中でぐずぐずしている気にはなれなかった。やりたいことが、ありすぎて。
身支度を整え、厨房へ向かう。すると、すでに先客がいた。
「……アルヴィス様?」
無骨な軍服姿の辺境伯が、厨房の隅で、所在なさげに立っていた。わたくしと目が合うと、彼はわずかに視線を逸らした。
「朝食は、いつできる」
「……まあ」
笑いをこらえるのに苦労した。昨夜あれだけ恐ろしかった“氷の死神”が、まるで餌を待つ大型犬のように、厨房の前で待ち構えていたのだ。
「すぐにお作りします。ですがその前に——アルヴィス様。ひとつ、お願いがあります」
わたくしは居住まいを正した。ここからが、本題だった。
「この館の、食料庫を全部、見せていただけますか。それと、この領地に、いま何があって、何が足りないのか。——全部、知りたいんです」
◇
食料庫の現実は、想像以上だった。
がらんとした石の倉。粗悪な塩漬け肉が少し。芽の出た根菜。湿気でだめになりかけた穀物。それで、館の全員がひと冬を越さねばならない。
家令のセバスが、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……お恥ずかしい限りです。ここ数年、不作と重税が続き、領地全体がこの有様で。旦那様も、ご自身の食を削って、領民に回しておられるのですが……」
わたくしは、ちらりとアルヴィスを見た。彼は何も言わず、ただ静かに食料庫の隅を見つめていた。その横顔に、昨夜の汁物を「あたたかい」と呟いた理由が、滲んでいる気がした。
この人は、ずっと飢えていたのだ。腹だけじゃない。きっと、もっと深いところで。
(だったら、なおさら)
わたくしは袖をまくった。《美食家の舌》が、教えてくれる。この貧しい倉の中に眠る、無数の可能性を。
倉を見回すと、視界の隅に、淡い光のようなものがいくつも灯る。芽の出た根菜には「低温でじっくり火を入れれば、砂糖のように甘くなる」。湿気てしまった穀物には「煎ってから挽けば、香ばしい粉になる」。誰もが捨てると決めた粗悪な塩漬け肉でさえ「骨ごと煮出せば、何時間も体を温める出汁になる」と。
普通の人には、ただのゴミにしか見えない。けれどわたくしの目には、それぞれが「一番おいしくなれる未来」を抱えて、静かに出番を待っているように映るのだ。
「セバス。この領地は、海は近いですか」
「は、はい。馬で半日ほど南に。漁村がございますが、獲れた魚も売り先がなく、傷ませてばかりで……」
「完璧です」
わたくしは思わず声を弾ませた。傷む前の魚。塩。それだけあれば、できることが山ほどある。
「魚醤を作りましょう。それから、塩と保存の技術があれば、冬を越せる保存食が作れます。この芽の出た根菜も、捨てるなんてとんでもない。正しく扱えば、甘い甘いごちそうになります」
セバスが、ぽかんと口を開けた。「奥方様……それは、本当に……?」
「ええ。この土地は、飢えているんじゃありません。——ただ、“食べ方”を知らないだけ」
それは、前世のわたくしが、何度も口にしてきた言葉だった。どんなに貧しい材料でも、知識さえあれば、人は豊かに食べられる。ないのは食材じゃない。知恵だ。
「まずは今ある物で、館の皆に、あたたかい朝食を。話は、それからです。——人は、お腹が満ちて、はじめて前を向けますから」
◇
その日、館の使用人たちは、何年ぶりかの、湯気の立つ朝食を囲んだ。
芽の出た根菜は、じっくり火を入れれば驚くほど甘くなる。とろけるほど柔らかく煮えたそれを口に運べば、まるで蜜のような甘みが舌の上に広がる。粗末な塩漬け肉も、丁寧に骨ごと出汁を取れば、滋味深いスープに生まれ変わった。湯気の向こうで、根菜の橙色がやさしく光っていた。たったそれだけ。魔法でも奇跡でもない。けれど、痩せた頬の使用人たちは、ひと口食べるたびに、目を潤ませた。
「美味し……っ、美味しいです、奥方様……!」
少女が、ぼろぼろと泣きながら食べている。匙を持つ手が、震えていた。きっと彼女も、ずっと我慢してきたのだろう。空腹も、不安も、明日への怯えも。それが、たった一杯のあたたかいスープで、堰を切ったようにあふれ出している。それを見て、ほかの者たちも、つられて洟をすすった。すすり泣きと、匙が椀を叩く音だけが、朝の厨房に響く。
わたくしの胸が、あたたかくなる。ああ、これだ。この光景が見たくて、わたくしは前世も今世も、厨房に立っているのだ。
ふと顔を上げると、アルヴィスが、こちらを見ていた。
彼は、泣いている使用人たちを、そして、その輪の中心にいるわたくしを、じっと見つめていた。氷の瞳が、ほんの少しだけ、やわらいでいる。
目が合うと、彼は静かに口を開いた。
「セラ」
「はい」
「この領地を——お前の好きにしていい」
わたくしは、息を呑んだ。
「必要なものがあれば、何でも言え。人手も、金も、できる限り回す。だから」
そこで、彼は一度言葉を切った。そして、わずかに——本当にわずかに、視線を落として、続けた。
「だから、この土地に、お前の作る“あたたかいもの”を、増やしてくれないか」
それは、命令ではなかった。冷徹な領主が、はじめて誰かに差し出した、不器用な願いだった。
わたくしは、にっこりと笑って、深く頷いた。
「——お任せください、旦那様」
◇
その日の午後、わたくしは早速、ひとつの仕込みに取りかかった。
燻製肉だ。粗末な塩漬け肉を、香草と、ゆっくりとくゆらせた煙で、時間をかけて仕上げていく。これは、保存がきく。日持ちする食材は、これから領地を立て直すうえで、必ず武器になる。冬を越すためにも、いずれ“売り物”にするためにも。
半日かけて、最初の一塊が仕上がった。薄く削いで、味見役に、館の使用人たちへ。
ひと口かじった瞬間、少女の目が、まんまるになった。
「……っ、う、美味すぎますっ、奥方様!? なんですか、これ……! 噛むたびに、燻した香りが、ふわっと……お肉なのに、こんな、芳醇な……!」
「ほんとだ、止まらねえ……! こんな上等なもん、生まれて初めて食った……!」
使用人たちが、われ先にと手を伸ばし、瞬く間に一皿が空になる。涙ぐむ者までいる始末だった。
その光景に、わたくしは、ふふ、と笑った。上々の出来だ。これは、いける。
「気に入ってもらえてよかった。——これは、大事な“切り札”になりますからね。たくさん作って、とっておきましょう」
そう。まだ見ぬ、誰かのために。この最高の一品を世に出す、その時のために。
◇
胸の中で、設計図が、次々と描かれていく。漁村。魚醤。保存食。畑の立て直し。流通。市場。やがては、領地そのものを変える、大きな絵が。
捨てられたはずの令嬢の、辺境ごはん再建記。
その、本当の始まりだった。
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