第2話 氷の死神は、無表情で陥落する
「……質問に答えろ」
アルヴィスの声は、低いままだった。
「誰の許しを得て、厨房に立っていると聞いている」
空気が、ぴりぴりと張りつめる。使用人たちは壁際で身を縮め、家令は今にも倒れそうな顔をしていた。剣の柄に置かれた彼の手は、たしかに本物の死神を思わせた。戦場で数えきれない命を刈り取ってきた手。
それでも、わたくしは鍋から目を離さなかった。離せなかった、というのが正しい。だって——視えるのだ。この出汁が、いままさに、雑味の出る一歩手前の、一番澄んだ瞬間にあることが。
「申し訳ありません。ですが、もう少しだけお待ちを」
わたくしは塩漬け肉を鍋から引き上げ、火を弱めた。
「ここで火を止めないと、せっかくの出汁が濁ってしまうんです。——ほんの、一分だけ」
「……」
アルヴィスは、答えなかった。けれど、剣に置かれた手が、わずかに緩んだ。それで十分だった。
わたくしは手を動かした。澄んだ出汁に、薄く切ったしなびた根菜を沈める。火が通れば、これは驚くほど甘くなる。包丁がまな板を打つ、とん、とん、という規則正しい音。鍋の中で、根菜がくつくつと踊りはじめる。塩で味を決め、最後に、保存庫の隅で見つけた乾いた香草をひとつまみ。指先で揉んでから振り入れると、青い、爽やかな香りがふわりと立つ。それだけ。本当に、それだけの料理。
けれど、湯気とともに立ちのぼった香りに、厨房の空気が変わった。
それは、この館がもう何年も忘れていた匂いだった。あたたかくて、やさしくて、思わず生唾を呑むような——「ちゃんとした食事」の匂い。さっきまで死神に怯えて凍りついていた使用人たちの鼻が、ひくり、と動く。
ぐぅ、と。
どこかで、誰かのお腹が鳴った。痩せた使用人の少女が、真っ赤になってうつむく。それを見て——わたくしは、笑ってしまった。空腹は、何より正直だ。前世でも、どんな気取った美食家より、腹を空かせた客の「ぐう」という音こそが、料理人にとって一番の賛辞だった。
「できました」
木の椀によそって、わたくしはまっすぐアルヴィスの前に立った。湯気の立つ椀を、両手で差し出す。
「どうぞ。ヴァルドで採れたものだけで作りました。——あなたの、領地の恵みです」
彼の氷の瞳が、椀を見下ろし、それからわたくしを見た。何を考えているのか、まるで読めない。毒を疑っているのかもしれない。世間知らずの令嬢の遊びだと、見下しているのかもしれない。
長い、沈黙。
やがてアルヴィスは、椀を受け取った。大きな手が、無造作に木匙を掴む。そして、ためらう様子もなく——ひと口、口に運んだ。
その瞬間を、わたくしはずっと見ていた。
まず、湯気が彼の頬を撫でた。出汁の香りが、鼻から抜けていく。澄んだひと匙が、唇に触れる。
彼の喉が、こくりと動く。
止まる。
時間が、止まったみたいだった。
“氷の死神”の、何の感情も浮かんでいなかった顔。その奥で、何かが、ほんのわずかに——揺れた。固く凍りついていたものに、細い亀裂が走るみたいに。見開かれかけた瞳。動きを止めた手。眉が、戸惑うように、かすかに寄せられる。まるで、自分の身に何が起きたのか理解できない、というように。
彼は、もう一度、匙を口に運んだ。今度は、さっきより少しだけ、早く。根菜を噛むと、とろりと甘い汁が滲み出た。塩漬け肉の旨味が溶けた、滋味深い出汁。冷えきった体の芯に、じんわりと熱が落ちていく。
そして、三口目。
「……なんだ、これは」
掠れた声だった。彼自身、自分が何を言っているのか、わかっていないような。
「あたたかい」
それは、料理の温度の話ではないように、聞こえた。
わたくしの胸の奥が、きゅう、と鳴った。前世で何百回と聞いた言葉。「美味しい」と笑ってくれた、あの客たちの顔。それと同じものが、いま、この凍えた人の顔に、ゆっくりと滲もうとしている。
アルヴィスは、椀の底が見えるまで食べた。一滴も残さず。武人らしい食べ方の奥に、隠しきれない何かがあった。ずっと、まともな食事を——あたたかい食事を、していなかった人の。
椀を置き、彼はしばらく沈黙してから、ぽつりと言った。
「……名前は」
「セレスティアと申します。セラ、とお呼びください」
「セラ」
低い声が、わたくしの名前をなぞる。それから彼は、ほんの少しだけ目を伏せて——
「もう一杯、頼めるか」
(……あら)
わたくしは、思わず吹き出しそうになるのを、こらえた。氷の死神。笑わない冷徹な領主。誰もが恐れる、戦場の支配者。
その人が、空になった椀を、子どものように差し出している。
「——ええ。いくらでも」
わたくしは椀を受け取った。胸の中で、静かに、けれど確かに、何かが決まった音がした。
この人の凍った心を、わたくしの料理で、溶かしてみせる。
それが、今世のわたくしの——最初の野望だった。
◇
その夜。
館の主寝室で、アルヴィスは珍しく寝つけずにいた。
腹の底が、まだ、あたたかい。長く忘れていた感覚だった。戦が終わり、領地に戻り、ただ飢えと罪悪感の中で生きてきた数年間。何を食べても、砂を噛むようだった。生きるために、口に押し込むだけの食事。
それが、たった一杯の汁物で。
「……何者だ、あれは」
誰に言うともなく、彼は呟いた。窓の外、厨房の小さな灯りが、まだ揺れている。あの令嬢が、片付けでもしているのだろう。
王都が厄介払いに寄越した、ハズレスキル持ちの令嬢。そう聞いていた。憐れんで、放っておくつもりだった。
なのに——いまはもう、明日の朝が、少しだけ、待ち遠しい。
数年ぶりに芽生えたその感情の名前を、この無骨な男は、まだ知らなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




