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追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第1章 氷の辺境に嫁いで

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第1話 婚約破棄おめでとうございます

「セレスティア・ルクレツィア。お前との婚約を、ここに破棄する」


 王太子オルランドの声が、広間の高い天井に冷たく響いた。着飾った貴族たちのざわめきが、波のように引いていく。誰もがこちらを見ていた。憐れみと、好奇と、ほんの少しの嘲りを乗せて。


 わたくしは、ドレスの裾を握る手にそっと力を込めた。


「お前の取り柄は、ただ“味にうるさい”ことだけだ。社交もできず、政務の役にも立たず、晩餐の席ではいつも料理に文句ばかり。公爵家の令嬢として、これほど価値のない女もいない」


 オルランドの隣で、男爵令嬢のミレーユが扇の陰でくすりと笑った。彼女のふっくらと幸せそうな頬を見て——わたくしはなぜか、まったく別のことを考えていた。


(……この子、最近よく食べているのね。たぶん、王太子付きの料理人が代わった。前の人の出汁は、雑味が多すぎたもの)


 不思議だった。人生最大の屈辱を受けているはずなのに、頭の片隅はずっと、今夜供された冷めたコンソメのことを考えている。


 あれはだめだ。香味野菜を、炒める前に焦がしている。アクの取り方も雑。本当なら、もっと澄んだ、琥珀色の——。


「聞いているのか、セレスティア!」


「……はい。たしかに、わたくしには取り柄がございません」


 わたくしは顔を上げ、できるだけ静かに微笑んだ。反論はしなかった。だって、彼の言う通りだったから。

 わたくしが授かった神授スキルは《美食家の(グルマン)

 ——食べ物の“本当の味”がわかるだけの、歴代でも最低と笑われたハズレスキル。剣や魔法こそが力と崇められるこの国では、ただの“味にうるさい舌”など、病か、贅沢のなれの果てとしか思われない。事実、過去にこのスキルを授かった者は皆、ただの偏食家として、生涯を終えたという。

——けれど、誰も知らなかった。この舌は、料理の知識と掛け合わせて、初めて真価を発揮する。剣も魔法も、人を惹きつける言葉も、わたくしは何ひとつ持っていない。


 ただ、味だけが、わかる。


「では、話が早い。お前は今日付けで、北の辺境ヴァルドへ嫁げ。辺境伯アルヴィス——“氷の死神”の妻として、せいぜい役に立つことだ」


 広間が、どっと沸いた。氷の死神。誰もが知っている、笑わぬ冷徹な軍人の名。あんな男のもとへ嫁ぐくらいなら死を選ぶ、と令嬢たちが囁き合っている。


 けれど、わたくしの胸に湧いたのは、絶望ではなかった。


(辺境……北。寒い土地。発酵に向く。燻製も。海が近ければ、塩も、魚醤も……)


 自分でも、なぜそんなことを考えるのかわからなかった。ただ、胸の奥で、ずっと眠っていた“誰か”が、静かに目を覚ましかけている気がした。


「謹んで、お受けいたします」


 深く礼をして、わたくしは広間を後にした。背中に刺さる視線も、扇の陰の笑い声も、もうどうでもよかった。一つだけ、心の中で呟く。


(あなたたちの食卓が、これからどうなろうと——わたくしの知ったことではないわ)



 辺境へ向かう馬車は、三日のあいだ、ひたすら北を目指した。


 舗装は途中で途切れ、景色から緑が消えていく。痩せた土。細い家畜。沿道の村人たちは皆、頬がこけていた。御者は「このあたりは、もう何年も不作続きでして」と気の毒そうに言った。


 その三日目の夜、空腹に耐えかねたわたくしは、持たされていた携行食に、はじめて手をつけた。


 干し肉の塊。それを、ひと口かじって——わたくしは、息を呑んだ。


 ひどい味だった。塩を振っただけで、雑な乾かし方をしたせいで、獣くさい臭みが舌にこびりつく。脂は酸化して、えぐみすら感じる。粗末、という言葉ですら生ぬるい。これは、人に食べさせていいものではない。


 その瞬間、《美食家の舌》が、過剰に反応した。


 あまりの不味さに、スキルが警鐘を鳴らすように、頭の奥で熱を持つ。雑味、臭み、酸化——その一つひとつを、舌が異常なまでに克明に分解していく。まるで、本来の力を、初めて全開にしたかのように。


 視界が、白く弾けた。


 ——油の、匂いがした。


 狭い厨房。湯気。鍋の底で、飴色に煮詰まっていく玉ねぎ。「美味しい」と笑ってくれた、客の顔。閉店後の、誰もいない店内で、ひとり帳簿をつける自分の手。倒れる直前の、ひどい頭痛。


(ああ——)


 思い出した。


 わたくしは、前世で料理人だった。小さな食堂を切り盛りして、過労で倒れて、そのまま——死んだのだ。


 手の中の、ひどい干し肉を見つめながら、涙が一筋こぼれた。悲しかったのではない。むしろ、その逆だった。


 この、どうしようもなく不味い一切れが、引き金だった。長く眠っていた前世の記憶を、わたくしの舌が——プロの舌が、叩き起こしたのだ。


 ばらばらだったものが、一本の線でつながっていく。なぜわたくしが味にこだわるのか。なぜ晩餐のたびに、料理の粗が許せなかったのか。なぜ《美食家の舌》なんてスキルが、わたくしのもとに来たのか。


 ハズレなんかじゃない。


 このスキルは、語り掛けてくる。目の前の食材が「本当はどんな味になれるのか」、その一番おいしい姿を。前世のわたくしが、二十年かけて舌に刻んだ知識と、この力を、掛け合わせたら——。


(わたくしは、たぶん、この世界の誰よりおいしいものを作れる)


 馬車の窓の外、雲が切れて、北の星が冷たく光っていた。


 今世こそ、と思った。誰かのためにすり減って倒れるのではなく。今度は、自分が「美味しい」と思えるものを作って、自分の幸せを、ちゃんと優先して生きるのだと。



 辺境伯領ヴァルドの屋敷は、想像していたよりも、ずっと寒々しかった。


 石造りの古い館。手入れの行き届かない庭。出迎えた使用人は、たった三人。皆、痩せて、目に力がなかった。


「ようこそおいでくださいました、奥方様……」


 老齢の家令が、深く頭を下げた。その声に滲む疲れを、わたくしは聞き逃さなかった。


 案内された館の中は、暖炉の火さえ細い。そして——空気に混じる、かすかな匂い。古い油と、粗末な保存食と、長く飢えてきた家の匂い。


 胸が、ぎゅっと痛んだ。けれど不思議と、足は止まらなかった。


(厨房は、どこかしら)


 気づけば、わたくしはそう尋ねていた。家令が戸惑いながら案内したのは、館の奥の、薄暗い厨房だった。


 そこは、ひどい有様だった。乏しい食材。錆びた鍋。隅で芽を出しかけた、しなびた根菜。普通の令嬢なら、顔をしかめて立ち去る場所。


 けれど、わたくしの目には——違うものが視えていた。


 しなびた根菜が、教えてくれる。「正しく火を入れれば、驚くほど甘くなる」と。硬い屑肉は、「時間をかけて煮れば、ほろりと崩れる」と。塩漬けの粗末な保存食さえ、使いようによっては、深い旨味の出汁になると。


 何もない、と誰もが思っていたこの場所は——わたくしにとって、宝の山だった。


「奥方様……?」


 戸惑う家令を振り返り、わたくしは、前世以来はじめて、心から笑った。


「厨房を、貸していただけますか」


 エプロンの紐を、きゅっと結ぶ。


「——わたくし、少し、腕に覚えがあるんです」


 家令が目を丸くするのをよそに、わたくしは錆びた包丁を手に取った。まずは、あのしなびた根菜から。皮を薄く剥けば、中はまだ瑞々しい。鍋に水を張り、わずかな塩漬け肉を削いで放り込む。火を入れれば、きっと澄んだ出汁が——。


 ことことと、鍋が音を立てはじめる。古い厨房に、ずっと忘れられていた匂いが、ゆっくりと立ちのぼっていく。あたたかい、食べ物の匂い。痩せた使用人たちが、知らず知らず厨房を覗き込み、ごくりと喉を鳴らした。


 その時だった。


 ぞくり、と背筋が冷えた。


「——誰の許しを得て、私の厨房に立っている」


 低く、凍えるような声。振り返ると、戸口に長身の男が立っていた。軍服。剣の柄に置かれた手。そして、何の感情も浮かんでいない、氷のような瞳が、まっすぐにわたくしを見下ろしている。


 ひゅっ、と使用人たちが息を呑んだ。誰かが震える声で囁く。「だ、旦那様……」


 ——“氷の死神”、辺境伯アルヴィス。わたくしの、夫になる人。


 噂のとおり、笑わない人だった。冷たくて、近寄りがたくて、まるで真冬の刃のよう。普通の令嬢なら、きっとここで青ざめて謝るのでしょう。


 けれど、わたくしの頭をよぎったのは、まったく別のことだった。


 鍋は、まだ火にかかっている。出汁が、いままさに、一番おいしくなる瞬間を迎えようとしている。ここで止めるわけにはいかない。


 わたくしは、氷の瞳をまっすぐ見返して、にっこりと笑った。


「はじめまして、旦那様。——お腹、空いていらっしゃいますよね?」

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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