第16話 バルトロス商会
執務室に駆け込むと、ハンスが、苦虫を噛み潰したような顔で待っていた。
「奥方様。……まずいことになりました」
彼が語ったのは、こうだ。わたくしたちが街の市場を断たれてから、別の街へ販路を広げる算段を進めていた。その矢先、バルトロス商会が、先回りして手を打ってきたのだという。
「奴ら、おれが新しく取引を始めようとした店に、片っ端から圧力をかけてやがる。『ヴァルドの品を扱うなら、うちの商品は二度と卸さない』とね。バルトロスと縁を切られちゃ、どんな店もやっていけねえ。……おかげで、新しい販路も、軒並み潰されちまいました」
それだけではなかった。
「それと、もうひとつ。——奴ら、ヴァルドの“偽物”を、市場に流しはじめてやがるんで」
「偽物?」
「ええ。『ヴァルド産魚醤』と銘打った、粗悪な紛い物でさ。安く叩き売って、客に掴ませる。当然、まずい。すると客は『なんだ、評判ほどじゃないな』と離れていく。——本物の評判を、地に落とす腹積もりでさあ」
ハンスは、懐から、小さな瓶を取り出した。「これが、その偽物でさ。市場で、こっそり手に入れてきやした」
わたくしは、瓶の蓋を開け、ひと舐めして——思わず、眉をひそめた。
ひどい代物だった。《美食家の舌》が、その正体を即座に暴く。発酵が、まるで足りていない。塩で無理やり腐敗を止めただけの、生臭い液体。旨味のうの字もない。それどころか、安く嵩を増すために、得体の知れない雑味まで混ぜ込まれている。これを「ヴァルド産」として食べさせられた人は、二度と、本物を試そうとは思わないだろう。
「……ひどい。これは、料理への冒涜です」
静かな怒りが、腹の底から込み上げてきた。わたくしと、村の人々が、心を込めて、手間を惜しまず作り上げた一品。その名を騙って、こんな粗悪品を売りさばくなんて。許せなかった。
わたくしは、奥歯を噛んだ。狡猾な手だ。正面から潰すだけでなく、こちらの最大の武器である“評判”そのものを、内側から腐らせにきている。さすがは、この地方一帯を牛耳る巨大商会。やり方を、よく心得ている。
◇
「相手は、強大です」
その夜、アルヴィスとハンス、そしてセバスを交え、わたくしたちは対策を練った。
「正面からぶつかっても、勝ち目は薄い。資金力も、販路の数も、向こうが圧倒的に上。同じ土俵で殴り合えば、必ず、すり潰されます」
「では、どうする」
アルヴィスが、静かに問う。わたくしは、地図の上に広げられた、領地と街道の繋がりを、じっと見つめた。
巨人と、同じやり方で戦ってはいけない。前世で、何度も思い知ったことだ。大きな相手の強さは、そのまま、弱さでもある。図体が大きいほど、小回りが利かない。あらゆる店を縛れるほどの力は、裏を返せば、その力に頼り切った、硬直した仕組みでもある。
「——二つ、やります」
わたくしは、顔を上げた。
「ひとつ。偽物への対抗策。本物にしか出せない“証”を作ります。バルトロス商会には、絶対に真似できないものを」
「真似できないもの……?」
「ええ。あの“味”そのものです。偽物がいくら出回っても、本物を一度でも食べた人は、違いがわかる。だから——本物を、人々の舌に、直接届けるんです。街で、大々的な“試食”をやりましょう。百聞は一見にしかず。いいえ、一口にしかず、です」
ハンスが、ぽかんと口を開けた。
「試食、ですかい? けど、店が軒並み奴らに押さえられてる今、どこでそんなことを……」
「店が貸してくれないなら、店を通さなければいい」
わたくしは、にっこりと笑った。
「広場で、やりましょう。誰の許可もいらない、街の真ん中の広場で。道行く人すべてに、本物の味を、ただで振る舞う。バルトロスの偽物と、わたくしたちの本物。どちらが美味しいか、街の人々自身に、舌で判じてもらうんです」
◇
「そして、もうひとつ」
わたくしは、続けた。こちらが、本命だった。
「販路を、商会に握られない形に作り変えます。——大きな店に頼るのを、やめましょう」
「やめる? しかし、それでは品が捌けん」と、セバス。
「大きな店ではなく、小さな店や、個人の料理人と、直接、数多く繋がるんです。一軒一軒は小さくても、何十、何百と繋がれば、大きな販路になる。そして、その一つひとつは、バルトロスにとって“縛る価値もない”ほど小さい。象は、蟻の大群を、踏み潰しきれません」
それは、前世で言うところの——“小口の分散”。一つの大口取引に依存せず、無数の小さな繋がりに、リスクを散らす。巨大商会の力が及ばない、その隙間にこそ、わたくしたちの活路がある。
「そして、それを可能にする武器が、もう、わたくしたちの手にはあります」
わたくしは、先日、農村で仕込みはじめた、あるものを思い浮かべた。
「灰汁を抜いた芋を乾かして挽いた、保存食の素。軽くて、何ヶ月も傷まず、遠くまで運べる。——バルトロスがどれだけ近場の市場を押さえようと、本物が、軽々とその包囲の外側まで届くなら、囲い込みなんて、意味をなしません。わたくしが村々で育ててきたのは、ただの畑じゃない。この戦いを勝つための、“武器庫”だったんです」
「それに、小さな料理人たちは、きっと、わたくしたちの味方になってくれます。バルトロスのような巨大商会に、いつも買い叩かれ、虐げられてきたのは、彼らのほうなのですから」
アルヴィスが、ふっと、口の端をゆるめた。
「……なるほど。力で潰しに来る相手を、力ではなく、“数”と“味”で迎え撃つ、か」
「ええ。わたくしたちには、わたくしたちの戦い方があります」
わたくしは、拳を、ぐっと握った。胸の奥に、闘志が、静かに燃えている。
奪われてばかりは、いられない。この辺境の人々が、汗を流して取り戻した豊かさを。アルヴィス様と築いてきた、この場所を。——巨大商会だろうと、王都の影だろうと、絶対に、渡しはしない。
「反撃を、始めましょう」
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