第137話 分かち合うひと皿
修道院の、小さな厨房を借りた。
ミレーユが育てた野菜は、どれも命に満ちていた。土の香りを宿した瑞々しい根菜。陽の光をたっぷり浴びた艶やかな葉野菜。《美食家の舌》が、その一つひとつの確かな滋味を教えてくれる。
「立派な野菜です」わたくしは、心から言った。
「あなたが、丹精込めて育てたのですね」
ミレーユは、はにかむように目を伏せた。
「最初は、土いじりなんて、と思っていました。けれど、毎日、世話をするうちに。作物が育つのを見るのが、楽しみになったのです」
その言葉に、彼女の変化を感じた。
かつて人の上に立ち、贅を尽くしていた令嬢が、今は、自らの手で命を育てる喜びを知っている。
わたくしは、ミレーユのあかぎれた手を、ちらりと見た。
慣れない畑仕事で、彼女の身体は、きっと疲れている。
ならば、作るべきものは決まっていた。
滋養を芯から染み込ませる一皿。
根菜は、強い火で煮立てず、じっくりと低い温度で火を入れる。
そうすれば、土の滋養を逃さず、甘みだけを、とろりと引き出せる。
葉野菜は、最後にさっと火を通すだけ。火を入れすぎれば、瑞々しい力が損なわれてしまうからだ。
それは、前世で身につけた、素材の声を聞く料理人の知恵だった。
仕上げに、ヴァルドから持参した香り高い塩を、ひとつまみ。土の香りを消さず、旨味だけを、そっと際立たせる。
火にかけた鍋から、ふわりと優しい湯気が立った。根菜の、ほっくりとした甘い香り。それだけで、狭い厨房が、あたたかな空気に包まれていく。ミレーユは、その様子を、じっと見つめていた。まるで、自分の育てた野菜が、魔法のように変わっていくのを見守るように。
「料理をする人を、こんなに間近で見るのは、初めてです」
ミレーユが、ぽつりと言った。
「昔は、出来上がったものを、ただ口に運ぶだけでした。誰かが、こうして、手間をかけて作ってくれていたなんて、考えもせずに」
その言葉に、彼女が、どれほど多くのことに気づいたかが、伝わってきた。
◇
二人で、向かい合って、食卓についた。
「どうぞ。あなたの野菜の、本当の味です」
わたくしは皿を差し出した。
ミレーユは、おそるおそるスプーンを口に運んだ。その瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「……おいしい」声が震えていた。
「わたくしが育てた野菜が。こんなに、おいしくなるなんて」
ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちた。それは、後悔の涙ではなかった。自分の手で育てたものが、誰かの手で、こんなにも温かい一皿になる。その喜びと感動の、涙だった。
「料理は、不思議です」
わたくしは、静かに言った。
「どんな立派な食材も、心がこもっていなければ味気ない。けれど、慎ましい野菜でも、丹精と真心があれば。こんなにも、人の心を満たすのです」
ミレーユは、涙を拭い、わたくしを見た。
「セレスティア様。わたくしは、あなたにひどいことをしました。それなのに、あなたは……」
「もう、いいのです」わたくしは、首を振った。
「過ぎたことを責めるために、来たのではありません。あなたが、新しい一歩を踏み出している。それを見届けられてよかった」
◇
食事を終える頃、ミレーユの表情は、すっかり穏やかになっていた。
「わたくし、決めました」
彼女は、まっすぐにわたくしを見た。
「これからも、ここで土とともに生きていきます。誰かのために、おいしい作物を育てる。それが、わたくしの贖罪であり、新しい生きがいです」
その瞳に、もう迷いはなかった。かつての高慢さも、虚栄も消え去っていた。代わりに宿っていたのは、地に足のついた確かな決意だった。
「素晴らしい生き方だと思います」
「あなたの育てた野菜を、いつか、ヴァルドにも分けてください。きっと、みんなが、喜びます」
ミレーユの顔が、ぱっと、輝いた。
「はい。ぜひ、喜んで」
長い因縁が、ここに解けた。憎しみでも、復讐でもなく。ただ向き合い、同じ食卓を囲むこと。その、あたたかな時間が、二人を縛っていた過去を、静かに溶かしていった。
ふと、思う。
かつてのミレーユが費やしていたのは、人を見下し、自分を飾り立てるための虚しい労力だった。
何も生み出さない、ただ消えていくだけの、見栄。
けれど今の彼女は、土に向き合い、命そのものを、その手で育てている。
彼女が育てた野菜を、わたくしが一皿の料理へと変える。
育てる者と、調理する者。
その健やかな繋がりの中で、長い因縁は、ようやく、意味のあるものへと昇華されていく。
あの断罪の宴で受けた屈辱を、忘れたことはない。
けれど、こうして向き合ってみれば、彼女もまた、時代と境遇に流された一人の弱い人間だった。
それを責め続けることに、もう意味はない。
本当のけじめとは、相手を地に這わせることではなく、互いに前を向けるようにすることなのだと、わたくしは思う。それは、断罪よりも、ずっと豊かな決着だった。
帰り際、ミレーユは、深々と頭を下げた。
「ありがとう、ございました。あなたに会えて、本当に、よかった」
修道院を後にする、わたくしの胸は、不思議と軽かった。一つのけじめが、ついた。
けれど、まだ、もう一人。向き合わなければならない人がいる。
かつて、わたくしを公衆の面前で断罪した男。廃嫡された元王太子、オルランド。
(……次は、あなたね)
馬車に揺られながら、わたくしは、最後のけじめへと思いを馳せた。
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