第130話 商会の見えざる後ろ盾
青年料理人の名は、トマと言った。
かつて王宮の厨房で下働きをしていた彼は、断罪の宴の後に職を失い、今は王都の裏通りで細々と料理を作って暮らしているという。わたくしたちは人目を避け、彼の小さな住まいで話を聞くことにした。
「セレスティア様。——いえ、今は、辺境伯夫人でいらっしゃいますね」
トマは、震える手で、薄いお茶を淹れてくれた。
「あなたが王都を去ってから、すべてが、おかしくなったんです」
差し出された、そのお茶をひと口含む。《美食家の舌》が、すぐに気づいた。
茶葉が、ずいぶんと古い。香りも、ほとんど飛んでしまっている。
けれど、その一杯に込められたもてなしの心は、確かに伝わってきた。貧しい暮らしの中で、精一杯の歓待。
それが、かえって胸に染みた。
「おかしく、とは?」
わたくしは、尋ねた。
「最初は、宮廷の食事の質が落ちました。あなたが、宮廷の食材の不正を暴いたでしょう。あの後、しばらくは、よくなったんです。けれど——宰相が失脚した、その隙を突くように、バルトロス商会が、するすると食糧の流通に食い込んできた」
トマの顔が、曇った。「気づいた時には、王都の麦も油も肉も、ほとんどが商会の手の中でした。役人を金で抱き込み、逆らう商人を潰して。今や、王都の食卓は、商会に握られています」
かつて、わたくしが宮廷で口にした雑味だらけの料理を思い出した。あの頃も、宮廷の食は、すでに腐りはじめていた。
それを正そうとしたのが、わたくしの戦いの始まりだった。けれど、根は、もっと深いところに残っていたのだ。
「ひどい話です」
トマは拳を握った。
「先日も、隣の家のおかみさんが、子どもに食べさせる粥もないと泣いていました。畑で採れた野菜さえ、商会の決めた値でしか売れない。逆らえば、市場から締め出される。みんな、商会の言いなりです」
◇
その手口は、たしかに巧妙だった。けれど、わたくしには一つ、腑に落ちないことがあった。
「トマさん。一介の商会が、これほど短期間に、王都の流通を、すべて掌握できるものでしょうか」
わたくしは、問う。
「役人の買収にも、商人を潰すのにも、莫大な資金がいる。後ろ盾なしに、できることとは思えません」
トマは、はっとした顔をした。そして、声をいっそう潜めた。
「……実は、噂が、あるんです」
彼は、周囲をうかがった。
「商会には、見えない後ろ盾がいる、と。それも——“滅びを願う者たち”と、繋がっているという、噂が」
その言葉に、わたくしの背筋が冷たくなった。
滅びを願う者たち。——それは、わたくしたちが世界を救う旅の中で、幾度も戦ってきた滅び派のことだ。
神々を暴走させ、世界を滅ぼそうとした者たち。統べる者が救われ、原初の神の絶望が解けた今、その組織は瓦解したはずだった。
「滅び派は、もう崩れたはず」
わたくしは呟いた。けれど、すぐに思い至った。
組織が崩れても、そこにいた人間が消えるわけではない。
◇
滅び派は、世界を滅ぼすために、莫大な資金と闇の人脈を抱えていた。役人とのつながり、裏の流通網、汚れた金の流れ。
——その組織が瓦解した時、行き場を失ったその利権を。
「……バルトロス商会が、吸収したのね」
わたくしは確信した。
崩れた滅び派の、残った財と人脈。それを、いち早く商会が呑み込んだのだ。
だからこそ、これほど急速に王都の流通を掌握できた。世界を滅ぼす野望は潰えても、その腐った根は、形を変えて人の世に残っていた。
なんという、執念だろう。そして、なんという、皮肉だろう。
世界の滅びという壮大な悪は消え去った。けれど、その残り滓は、こうして庶民の食卓を蝕む卑近な悪として、生き延びていた。
「アルヴィス様」
わたくしは、彼を見た。
「これで繋がりました。商会は、ただの強欲な商人ではありません。滅び派が遺した、闇の利権の相続人なんです」
アルヴィスの目が、鋭く光った。「ならば、これは、おれたちの旅の、続きだな」
「ええ」
わたくしは頷いた。胸の奥に、確かな決意が宿る。
世界を救う旅は終わっていなかった。最後の後始末が、残っていたのだ。
神々を蝕んだ滅びの根を、人の世から完全に断ち切ること。それは、料理人として、そして世界を救った者としての、わたくしの最後の務めだった。
アルヴィスが、わたくしの肩にそっと手を置いた。「だが、忘れるな」彼の声は、低く優しかった。
「お前は、もう、独りで戦っていた、あの頃の令嬢ではない。背には、おれがいる。ティナも、ダグも、ナギも。旅で結んだ、すべての縁が、お前の力だ」
その言葉に、はっとした。そうだ。
かつて何もかも奪われ、たった独りで辺境に追われた、あの日とは違う。今のわたくしには、世界中に味方がいる。
そして、それこそが、商会を打ち負かす最大の武器になる。そんな予感が、胸に芽生えていた。
「トマさん」
わたくしは、青年に向き直った。
「力を貸してください。あなたの知る商会のことを、すべて。わたくしは、この街の食卓を必ず取り戻します」
トマの目に、涙が滲んだ。「もちろんです。ずっと待っていました。あなたが、戻ってきてくれる日を」
王都の裏通りに、小さな、けれど確かな反撃の灯がともった。滅び派の、最後の亡霊との戦いが、今、静かに幕を開けようとしていた。
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