第129話 腐りゆく王都の市場
数日の旅を経て、わたくしたちは、王都へとたどり着いた。
かつて、わたくしが暮らした街。けれど、その姿は見違えるほど、変わり果てていた。
大通りには、活気がなかった。痩せた人々が力なく行き交い、その目には生気が乏しい。
物乞いの姿も、以前よりずっと増えている。豊かだったはずの王都が、まるでゆっくりと飢えていくように衰えていた。
「ひどい、ありさまだな」
アルヴィスが低く呟いた。彼の目は、鋭く街を見渡している。
「ヴァルドが飢えていた頃を、思い出す」
「ええ」
わたくしは唇を噛んだ。
「食べ物が人から奪われると、街は、こんなにも荒む」
身分を隠すため、わたくしたちは質素な旅装をまとっていた。辺境伯夫妻と知れれば、商会に警戒される。
まずは、市井の目線で王都の実情を確かめたかった。
◇
市場へ、足を運んだ。
そこで目にした光景に、料理人として、わたくしは言葉を失った。
並んでいるのは、ひどい品ばかりだった。黒ずんだ麦。
しなびた野菜。饐えた匂いのする肉。
どれも本来なら、とても売り物にはならない代物だ。けれど、それらに法外な値札がついていた。
ひとりの老婆が、わずかな硬貨を握りしめ、麦の前でためらっていた。
「これっぽっちで、この値段かい……」
老婆の声は、震えていた。
「孫に、パンを焼いてやりたいだけなのに」
その麦を、わたくしはそっと手に取った。《美食家の舌》が即座に、その声を読み取る。
(……虫に食われ、湿気で傷んでいる。古い麦に、新しい麦をわずかに混ぜて、ごまかしている。これでは、まともなパンは焼けない)
胸が締めつけられた。本来、麦というのは、芯から豊かな香りを放つものだ。
よく実った麦を挽けば、粉はほんのり甘く、こんがり焼けば黄金色のパンになる。その香ばしさに、人は笑顔になる。
わたくしはヴァルドで、何度もその光景を見てきた。
けれど、この手の中の麦に、その面影はかけらもない。あるのは、湿った黴の匂いと、古びた味の気配だけ。
これは食べ物ではない。人の足元を見て命をかすめ取る、ただの道具だ。
「おばあさん」
わたくしは声をかけた。
「この麦は、おやめなさい。傷んでいます。食べれば、お腹を壊しますよ」
老婆は、驚いたように、わたくしを見た。「でも、ほかに、買えるものがないんだよ。みんな、この値段でね……」
その諦めきった声に、胸が痛んだ。食べることは生きることだ。
それを、こんなふうに踏みにじられていい人など、どこにもいない。
◇
店主に、尋ねた。「なぜ、こんな品を、こんな値で?」
店主は、苦々しげに顔を歪めた。「こっちだって、好きで売ってるわけじゃない。バルトロス商会が、卸す品をこれしか回してこないんだ。値も、向こうの言い値さ。逆らえば、商売を、続けさせてもらえない」
その名が、また出た。バルトロス商会。
「商会は、いい麦をぜんぶ抱え込んでる」
店主は声を潜めた。
「倉に、山ほど溜め込んでいるって噂だ。そうやって、市場に出る量を絞って、値を吊り上げる。残った、くず同然の品を、おれたち小売に、高く押しつけるのさ」
買い占め。出し惜しみ。
そして、粗悪品の押し売り。かつてヴァルドで、わたくしたちが苦しめられた手口と、寸分違わなかった。
怒りが、静かに腹の底で燃えた。けれど、わたくしは、それを表には出さなかった。
感情に任せて動けば、相手の思う壷だ。前世で学んだ。
本当に相手を打ち負かすには、冷静な頭と、確かな策がいる。
わたくしの手が、知らず、きつく握られていたのだろう。隣でアルヴィスが、そっと、その手に自分の手を重ねてきた。
大きく、温かい手だった。
「無理をするな」
彼は低く言った。
「お前の怒りは正しい。だが、その怒りで、お前自身がすり減るのは、おれが許さん。——おれが、ついている」
その言葉に、こわばっていた肩から、ふっと力が抜けた。そうだ。
わたくしは独りではない。隣には、いつだって、この人がいてくれる。
「ありがとう、ございます」
わたくしは、彼を見上げ、小さく微笑んだ。
「大丈夫。冷静に、やります」
◇
「アルヴィス様」
わたくしは、彼に囁いた。
「商会の手口が、はっきり見えました。麦を抱え込んでいる。——ならば、攻めどころも見えます」
アルヴィスが、わたくしの横顔を、見つめた。「策が、あるのか」
「ええ。少しずつ」
わたくしは、市場を見渡した。痩せた人々。
腐った食材。吊り上げられた値。
「でも、その前に。——まずは、この街の人たちに、本当の食べ物を、思い出してもらいます」
商会と戦うには、まず味方がいる。飢えた人々の心を掴むこと。
それが、すべての始まりになる。
その時、ふいに、背後から、声をかけられた。
「……もしや、セレスティア様では?」
振り返ると、みすぼらしい身なりの若い男が立っていた。けれど、その顔には見覚えがあった。
かつて王宮で働いていた、下級の料理人。断罪の宴の日、厨房の隅で、わたくしの言葉に涙していた青年だった。
「あなたは……」
男の目に、希望の光が灯った。「ああ、やっぱり! 戻ってきてくださったんですね。——どうか、この街を、助けてください。商会のせいで、王都は、もう、限界なんです」
それは、思いがけない、再会だった。そして、商会への反撃の、最初の糸口でもあった。
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