第128話 報せ
世界を救ってから、ひと月が過ぎた。
ヴァルドは、かつてないほどの活気に満ちていた。凍てついた土地は神々の恵みを取り戻し、畑は豊かに実り、人々の顔には絶えず笑みがあった。
朝の厨房で、わたくしは焼きたてのパンを、ふっくらと仕上げていた。香ばしい小麦の匂いが、湯気とともに立ちのぼる。
窓の外では、ティナとダグが、村の子どもたちと笑い合っている。ナギは、すっかりヴァルドの漁を任され、新鮮な魚を運んでくる。
平和だった。命を賭けた旅の果てに、わたくしたちが守り抜いた、あたたかな日々。
「いい匂いだ」
アルヴィスが、厨房に顔を出した。
「お前の作るものは、いつだってこの館を満たす」
「もうすぐ焼けます」
「今朝は、蜂蜜をたっぷり塗った、甘いパンです。アルヴィス様の、お好きな」
彼は、ふっと目を細めた。氷の死神と呼ばれた男の、やわらかな表情。
この穏やかさを、わたくしは、心から愛おしく思う。
けれど、その平穏は、一通の手紙によって波立つことになった。
セバスが、慌ただしく駆け込んできた。その手には、王家の紋章が捺された封書があった。
「奥様。王都より、火急の報せにございます」
◇
差出人は、若き王レオハルトではなかった。王都に残る、心ある文官の一人。
かつて、断罪の宴で、わたくしたちに味方してくれた人物だった。
手紙の内容に目を走らせるうち、わたくしの胸に、冷たいものが広がっていった。
王都の食糧事情が、急速に悪化しているという。麦の値が不自然に高騰し、庶民が満足にパンも買えなくなっている。
それだけではない。出回る食材の質が軒並み落ち、粗悪な品が高値で取引されている。
虫の食った麦。水で薄められた油。
古い肉を香辛料でごまかして売る、悪質な手口。手紙には、王都の市場に並ぶ品の、あまりの惨状が、細かく記されていた。
読んでいるだけで、料理人として胸が痛んだ。食材は命だ。
それを金儲けの道具として、平気で汚す。許されることでは、なかった。
そして、その混乱の中心に、一つの商会の名があった。
「……バルトロス商会」
その名を、声に出して読んだ。指先が、わずかにこわばる。
忘れもしない。かつて無実の罪で、わたくしを王都から追放した者たちの、背後にいた商会。
飢えたヴァルドに、粗悪な食料を法外な値で売りつけ、暴利を貪っていた商会だ。宰相が失脚し、王太子が廃嫡された後も、その商会だけは、巧みに罪を逃れて生き延びていた。
「アルヴィス様」
手紙を彼に渡した。
「読んでいただけますか」
彼は、素早く目を通すと、その眉を、険しく寄せた。「バルトロス商会か。——王都の食糧流通を、握りはじめているな」
「ええ」
わたくしは頷いた。
「麦を買い占め、値を吊り上げ、粗悪品を高く売る。——人々の食卓を人質に取っているんです」
かつてヴァルドで、同じことをされた。だからこそ、その手口の卑劣さが、痛いほどわかる。
食べ物で人を支配する。それは、料理人として最も許せない悪行だった。
◇
「文官の方は、こう書いています」
わたくしは、手紙の続きを読んだ。
「“商会は、王家に取り入り、食糧庁の役人を買収し、市場を意のままにしている。我々では、もはや止められない。どうか、あなたの力を貸してほしい”と」
ぎゅっと手紙を握りしめた。
世界を救う旅は終わった。あのお方の絶望も解け、神々も安らぎを取り戻した。
けれど——人の世には、まだ解かれていない理不尽が、残っている。
飢えに苦しむ庶民。暴利を貪る商会。
それは、神の絶望よりもずっと身近で、根深い、人間の業だった。
「行かれるのですか」
セバスが、静かに問うた。
「ええ」
迷いはなかった。
「わたくしは料理人です。食べ物で人を苦しめる者を、見過ごすことはできません」
それにと、胸の奥で、思う。バルトロス商会は、かつてわたくしを陥れた者たちの中で、ただ一人、いまだ裁きを免れている存在。
あの断罪の宴で、王太子は廃嫡され、宰相は捕らえられた。けれど、最も狡猾なこの商会だけは、するりと罪を逃れ、今もこうして、人々の食卓を食い物にし続けている。
思い返せば、辺境に嫁いで間もない頃から、その影は、すでに、わたくしの傍にあった。ヴァルドの特産を扱いはじめた行商人を、商会の使いが、執拗に嗅ぎ回っていたのだ。
卸元はどこか、誰が作っているのか、と。あの頃は、ただの商売敵かと思っていた。
けれど、今ならわかる。商会は、早い段階から、わたくしの作る「本物の食」を、自分たちの粗悪な商売を脅かすものとして、警戒していたのだ。
あの日、果たせなかった、けじめ。それをつける時が来たのだ。
「アルヴィス様。王都へ、参ります」
彼を、見上げた。
「あの商会の、横暴を止めるために」
アルヴィスは、しばし、わたくしを見つめた。そして、ふっと、口の端を上げた。
「言うと思った」
彼は、わたくしの頭に、そっと手を置いた。
「だが、今度はおれも一緒だ。お前を一人では行かせん」
その手の温もりに、胸が熱くなる。世界を救う旅も、この人はいつも隣にいてくれた。
今度の戦いも、独りではない。
「ありがとう、ございます」
窓の外、ヴァルドの空は、どこまでも青く澄んでいた。けれど、その遠く、王都の方角には、見えない暗雲が垂れ込めている気がした。
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