第127話 あたたかい食卓へ
ヴァルドへの帰り道は、来た時とは、まるで違っていた。
あれほど過酷だった、世界の果ての領域。けれど今は、あのお方の愛の光に満たされ、穏やかな輝きに包まれている。
試練の石門も、霧の世界も。すべてが、わたくしたちを祝福するように、静かに見送ってくれた。
オーレンは、淵の近くに留まることを選んだ。
◇
『わしは、ここで、あのお方と共に、世界を見守ろう』
別れ際、オーレンは穏やかに言った。もう、滅びの化身の面影は、どこにもない。
『長い間、わしは間違っていた。だが、お前のおかげで、アーデンの想いを取り戻せた』
「オーレンさん」
わたくしは、微笑んだ。
「いつでも、ヴァルドに、いらしてください。あたたかい食事を、ご用意して、お待ちしています」
『……ふ。そうだな』
オーレンは、目を細めた。
『その時は、あの男の話でも、しよう。アーデンが、どんなに人好きのする男だったか。——聞かせて、やる』
◇
そうして、わたくしたちは、ヴァルドへと帰り着いた。
館の門をくぐった瞬間、セバスやハンス、マルクたちが、わっと駆け寄ってきた。
「奥様! ご無事で!」
セバスの声が震えていた。いつも冷静な家令が、目に涙を浮かべている。
「お帰りを、皆、首を長くして、お待ちしておりました」
「ただいま、戻りました」
わたくしは、深く頭を下げた。
「皆さんのおかげで、無事に、役目を果たせました」
◇
その夜。館の広間で、盛大な宴が開かれた。
世界を救った祝いの宴。けれど、並んだ料理は、豪華なごちそうばかりではなかった。
ヴァルドの、滋味あふれる根菜の煮込み。あたたかなパン。
——いつもの、けれど、心のこもった、ヴァルドの味。それが、何より、皆を笑顔にした。
ことことと煮込んだ根菜は、ほろりととろけるほどやわらかく、滋味が、体の芯まで染み渡る。焼きたてのパンを、ちぎって、煮込みの汁に浸せば、もう、それだけで、頬が緩む。
旅の間、ずっと保存食でしのいできた皆にとって、このあたたかな、出来たての一皿は、何よりのごちそうだった。
「やはり、ヴァルドの料理が、いちばん落ち着きますね」
わたくしは、しみじみと言った。
「お前が作るものなら、何でも、うまい」
アルヴィスが、隣で笑う。
◇
宴の喧騒の中で、ふと、窓の外の星空を見上げた。
満天の星。その、ひとつひとつが、救ってきた神々の灯のように、あたたかく瞬いている。
飢えの神。渇きの神。
水の神。火の神。
風の神。海の神。
そして、世界を生んだ親神。すべての声が、今は穏やかに、世界を巡っている。
長い旅だった。けれど、その一歩一歩が、今の、このあたたかな食卓に繋がっている。
◇
「何を考えている」
隣に来た、アルヴィスが尋ねた。
「これまでの旅のことを」
「凍てついた、この地に嫁いできた、あの日は。まさか、世界を救うことになるなんて、思ってもみませんでした」
「お前は、おれの想像を、いつも超えていく」
アルヴィスが、わたくしの手を握った。
「だが、どれほど遠くへ行っても、お前の帰る場所は、ここだ。——おれの、隣だ」
「はい」
わたくしは頷いた。その手のぬくもりが、何より愛おしかった。
凍てつく辺境に追放された、あの日。わたくしは、何もかも失ったと思っていた。
婚約者も、地位も、居場所も。けれど、失ったと思った場所で、本当に大切なものを見つけたのだ。
あたたかな食卓。支えてくれる、人。
そして、料理で人を笑顔にする、喜びを。
◇
世界の危機は、去った。あのお方の絶望は解け、神々は安らぎを取り戻した。
大きな戦いは、終わったのだ。
けれど、わたくしには、まだ、心にかかっていることがあった。この平和な世界の片隅で、かつて、わたくしを陥れ、あるいは見過ごしてきた、人間たちの問題が。
まだ、決着を見ないまま、残っている。
王都で、いまだうごめく巨大商会。修道院へ去った、あの人。
そして、廃嫡された、かつての婚約者。神々の戦いとは別の、人と人との、地に足のついた因縁が。
まだ、わたくしの帰りを待っている気がした。
(……いつか。あれにも、けじめを、つけなければ)
◇
けれど、それは——また、別のお話。
今は、ただ、世界を救った喜びと、あたたかな食卓のぬくもりに浸っていたかった。
「さあ、皆さん、たくさん召し上がってください」
わたくしは、笑顔で言った。
「これが、わたくしたちの——守り抜いた世界の味です」
ヴァルドの夜は、更けていく。あたたかな灯と、笑い声に包まれて。
——ひと皿の料理から始まった物語は、ひとつの大きな節目を迎えたのだった。
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