第126話 世界に満ちる光
あのお方が、最後のひと匙を味わったその瞬間。
淵の全体が、まばゆい光に包まれた。金色の光が深淵からあふれ出し、地の底の空洞を満たしていく。
それは、絶望の闇とは正反対の、あたたかく優しい、世界への愛の光だった。
「セラ!」
遠くで、アルヴィスの声がする。わたくしの意識が、闇の中から現実へと引き戻されていった。
◇
気づくと、わたくしは淵の縁で、アルヴィスに抱きとめられていた。
「……アルヴィス様」
その瞬間——彼の腕が、痛いほど強く、わたくしをかき抱いた。逃がすまい、というように。
骨が軋むほどの力で。「——戻ってきたな」その声は、震えていた。
「お前が、淵に手を触れたまま、ぴくりとも動かなくなって。息を、しているのかさえ、わからなくて。おれは……っ」
らしくない、取り乱しよう。氷の死神と呼ばれた男が、今は、ただ、わたくしを失う恐怖に震える、一人の夫だった。
「もう二度と、こんな無茶はさせん。お前から、目を離さん」そう言って、彼は、わたくしの額に、頬に、幾度も唇を押し当てた。生きていることを、確かめるように。
「ごめんなさい。でも」
その腕の中で、微笑んだ。
「成し遂げました。あのお方の絶望を、解くことができたんです」
◇
淵からあふれる、金色の光は、とどまることを、知らなかった。
地の底から立ちのぼり、大地を伝い、世界中へと広がっていく。その光に触れたものは、すべて生命力を取り戻していくようだった。
枯れかけた草木がよみがえり、淀んだ空気が澄んでいく。
きっと、今ごろ。世界中で、同じことが起きているのだろう。
痩せた大地は、実りを取り戻し、涸れた泉は、再び水をたたえ、荒れた海は穏やかさを取り戻す。あのお方の絶望が生んだ、すべての綻びが、その愛の光に癒されていく。
わたくしたちが旅で救ってきた、ひとつひとつの土地も。きっと、これで本当の意味で救われたのだ。
そして、ふと思った。この光は、人の世の淀みにも差し込んでいくのだろうか、と。
王都の片隅で、暗い取引を重ねてきた、あの商会。今や、後ろ盾の宰相を失い、足元に火がついているという。
修道院の小さな窓から、世界を照らす光を、どんな思いで見上げているだろう、あの人は。そして——民を飢えさせ、廃嫡され、地位も誇りも失った、かつての婚約者。
すべてを手にしていたはずの彼が、今や見る影もないと、風の噂に聞いた。その彼の目に、この世界を救った光は、どう映るのだろう。
かつて自分が、ハズレ令嬢と嘲り、切り捨てた女が、今、世界そのものを救っているのだと知ったら。——手放したものの、あまりの大きさに、彼は、どんな顔をするだろうか。
そんな想像が、ふと胸をよぎった。けれど、それは、まだ先の話。
いつか、けじめをつける、その時まで。
「世界が……喜んでる」
ティナが、水鏡を見つめ、呟いた。
「水の声も、土の声も、みんな、嬉しそう。“ありがとう”って、言ってる」
◇
淵の中心から——ひとつの気配が、立ちのぼった。
それは、姿なき存在だった。けれど、確かに、そこにいるとわかる。
あたたかく、慈しみに満ちた、世界を生んだ親神の気配。あのお方が、長い眠りから、ようやく、安らかな目覚めを迎えたのだ。
『ありがとう』
声が、響いた。もう、絶望には沈んでいない。
穏やかで、あたたかな、親神の声。
◇
『セレスティアよ。そして、声を聞く者たちよ。よくぞ、わしの心を解いてくれた』
あのお方の声は、世界中に響いているようだった。『わしは、忘れていた。
この世界の美しさを。命のいとおしさを。
お前たちの料理が、それを思い出させてくれた』
「いいえ」
わたくしは、首を振った。
「思い出したのは、あなた自身の力です。世界への愛は、ずっと、あなたの中にあったのですから」
◇
『これからは』
あのお方の声が、優しく続いた。
『わしは、再び、この世界を見守ろう。絶望ではなく、愛をもって。命の営みを、慈しみながら』
『そして、セレスティアよ』
あのお方は、わたくしに語りかけた。
『お前と、お前の仲間たちに、心からの祝福を。お前たちが、これから歩む道に、たくさんの、あたたかな食卓と、笑顔が満ちるように』
その言葉に、胸が熱くなった。世界を生んだ親神からの、何より尊い贈り物。
それは、わたくしたちが、これまで人々に届けてきたもの、そのものだった。
世界の綻びは、もう、ない。あのお方の絶望が解けた今、神々の暴走も、世界の滅びも、すべての災いの根が絶たれたのだ。
オーレンが、静かに淵を見上げていた。その横顔は、長い苦しみから解放された者の、穏やかなものだった。
◇
『オーレンよ』
あのお方が、彼に語りかけた。
『お前も、長い間、独りで苦しんできたのだな。すまなかった。わしが、絶望に沈んでいたばかりに』
『……いいえ』
オーレンは、首を振った。
『わしも、あなたを恨んでいた時が、ありました。ですが、もう終わったこと。これからは、わしも、この世界を見守りたい。アーデンが愛した、この世界を』
二人の声を聞く者の間に、長い確執を越えた、静かな和解があった。
◇
金色の光が、淵を、世界を、あたたかく照らし続ける。
わたくしは、アルヴィスに支えられながら、その光景を見つめていた。仲間たちも、皆、晴れやかな顔で、世界が救われた、その瞬間を噛みしめている。
「やったぁ! やったよ、セラ様!」
ティナが、涙ぐみながら飛び跳ねる。ダグは、太い腕で、ぐいと目元を拭った。
「……世界を救うなんてな。鉱山で、独りぼっちだった、俺が」
ナギも、白い歯を見せて笑う。
「すげえよ、セラさん。あんたに、ついてきてよかった」
ひとりひとりの笑顔が、何より眩しかった。かつて孤独だった、声を聞く者たち。
今は、こうして笑い合い、喜びを分かち合える、仲間になった。その絆が、誇らしかった。
長い旅だった。ハズレスキルと笑われた令嬢が、前世の料理の記憶を頼りに、世界を救うまでになった。
すべては、ひと皿の料理から始まった物語。それが今、世界の運命を変えたのだ。
「よくやったな」
アルヴィスが、わたくしの髪を、そっと撫でた。
「お前を娶れたことを、おれは、生涯、誇りに思う」
「アルヴィス様……」
その、まっすぐな言葉に、胸がいっぱいになる。氷の死神と呼ばれた人が見せる、誰よりもあたたかな笑み。
この人と出会えたことこそ、わたくしが、この世界で得た、いちばんの宝だった。
「帰りましょう」
「わたくしたちの、ヴァルドへ。あたたかい食卓が待つ、あの場所へ」
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