第125話 世界が生まれた味
闇の中で、わたくしは料理を始めた。
けれど、ここは、あのお方の心の中。鍋も、火も、食材もない。
あるのは、ただ、底なしの絶望だけ。どうやって、この虚無の中で、料理を作れば。
『無駄だ』
あのお方の声が響く。
『ここには何もない。お前の料理など、作れはしない』
「いいえ」
「材料なら、ここにあります」
絶望が、すべてを覆う、この闇。何もないように見える。
けれど、わたくしには、確信があった。料理人にとって、本当の材料は、鍋や食材だけではない。
心に刻まれた、味の記憶。それこそが、どんな極限の場所でも、決して奪われない、最後の武器なのだ。
◇
わたくしは目を閉じ、これまでの旅の記憶を、心の中に呼び起こした。
ヴァルドの雪解け水で育った根菜の甘み。アスタリカの太陽を浴びた香辛料の香り。
サウディスの砂漠に実った命の滋味。ミルディアの清らかな水。
群島の海の恵み。旅で出会ったすべての味が、記憶の中で鮮やかによみがえる。
それは、味だけではなかった。アスタリカの市場で浴びた、夕日のオレンジ色。
香辛料売りのおばさんが、笑った時に立ちのぼった、つんとした匂い。ヴァルドの雪が溶ける朝の、頬を刺すような、冷たく澄んだ空気。
サウディスの砂漠を渡る、熱風の匂い。——旅の景色と、空気と、人々の笑顔。
そのすべてが、色と香りを伴って、暗い闇の中に、ぱっと、広がっていく。
「料理は、心で作るものです」
わたくしは言った。
「この舌が覚えている。世界中のあたたかな味。それを、あなたにお届けします」
◇
わたくしの《美食家の舌》が、記憶の味を、この闇の中に紡ぎ出していく。
不思議なことだった。けれど、これこそが、わたくしの力の本質なのだ。
《美食家の舌》は、ただ味を聞くだけの力ではない。心に刻んだ味を、もう一度呼び覚ます力。
何百もの食卓で、何百もの笑顔と共に味わった記憶。それが、わたくしの中に確かに生きている。
ひとつ、またひとつ。あたたかな味の記憶が、闇に灯をともすように広がっていく。
それは、ただの料理ではなかった。わたくしが旅で出会った、人々の。
笑顔。ぬくもり。
感謝。その、すべてが込められた味だった。
『これは……』
あのお方の声が揺れる。
『あたたかい。なぜ、こんな味が』
◇
オーレンも、傍らで力を貸してくれた。
『あのお方よ』
彼は闇に語りかける。
『わしも、かつて、あなたと同じ絶望の中にいた。世界を呪い、すべてを滅ぼそうとした。——だが』
オーレンの声に、あたたかな光が宿る。『この娘の料理が、わしを救った。
忘れていたあたたかさを思い出させてくれた。あなたにも、きっと、わかるはずだ』
◇
闇に紡がれた味の記憶が、少しずつ、あのお方を包んでいく。
飢えた村が笑顔を取り戻した、あのスープ。いがみ合う国を繋いだ、あの一皿。
孤独な人々が仲間になった、あの食卓。ひとつひとつの味に、世界のあたたかさが確かに宿っていた。
『……わしは』
あのお方の声が、震えはじめた。
『わしは、ずっと、人の争いと、汚れだけを、見てきた。だが』
◇
「人は、確かに過ちを犯します」
わたくしは優しく言った。
「争い、傷つけ合い、あなたの愛した世界を汚すことも、ある。でも」
わたくしは、心を込めて、最後のひと品を、あのお方へと差し出した。
「人は、あたたかいものを囲めば、笑顔になれる。分かち合い、許し合い、手を取り合える。あなたが生んだ命は、まだ、こんなにも美しいものを、生み出せるんです」
◇
その瞬間。
闇の中に——ひとすじの光が、差した。あのお方の心の奥底から、忘れられていた世界への愛が、あたたかな味に呼び覚まされ、蘇っていく。
『ああ……』
あのお方の声が——涙に濡れた。
『そうだった。わしは、この世界を、こんなにも愛していた。命のひとつひとつを、いとおしく思っていた。忘れていた。長い絶望の中で』
『花が咲く喜び。子が生まれる奇跡。人が笑い合う、ぬくもり。わしが、この世界に望んだのは、すべて、ここにあったのだ』
あのお方の声は、もう、絶望に沈んではいなかった。
『なのに、わしは、裏切りと汚れにばかり目を奪われ、美しいものから目を背けて、しまっていた』
「いいえ。気づけたなら、それでいいのです」
わたくしは、優しく言った。
「あなたは、また、世界を愛せます。今、こうして思い出せたのですから」
◇
闇が晴れていく。
底なしの孤独が、あたたかな光に満たされていく。涸れ果てていた心に、再び、世界への愛があふれはじめる。
『教えて、おくれ』
あのお方の声が、穏やかに響いた。
『その料理を、わしにも、もう一度。この世界のあたたかさを、味わわせておくれ』
「はい。喜んで」
わたくしは微笑んだ。涙が、頬を伝った。
長い、長い旅だった。凍てつく辺境に嫁いだ、あの日から。
飢えを満たし、渇きを癒し、いがみ合う国を繋ぎ、孤独な同志たちと出会ってきた。そのすべてが、この、世界の親神を救うための、道のりだったのだ。
初代辺境伯アーデンが、未来に託した希望。それが今、ようやく果たされようとしている。
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