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【完結】追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: 更田遅筋
第13章 世界の始まりへ

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第125話 世界が生まれた味

闇の中で、わたくしは料理を始めた。


けれど、ここは、あのお方の心の中。鍋も、火も、食材もない。

あるのは、ただ、底なしの絶望だけ。どうやって、この虚無の中で、料理を作れば。


『無駄だ』

あのお方の声が響く。


『ここには何もない。お前の料理など、作れはしない』


「いいえ」

「材料なら、ここにあります」


絶望が、すべてを覆う、この闇。何もないように見える。

けれど、わたくしには、確信があった。料理人にとって、本当の材料は、鍋や食材だけではない。

心に刻まれた、味の記憶。それこそが、どんな極限の場所でも、決して奪われない、最後の武器なのだ。



わたくしは目を閉じ、これまでの旅の記憶を、心の中に呼び起こした。


ヴァルドの雪解け水で育った根菜の甘み。アスタリカの太陽を浴びた香辛料の香り。

サウディスの砂漠に実った命の滋味。ミルディアの清らかな水。

群島の海の恵み。旅で出会ったすべての味が、記憶の中で鮮やかによみがえる。


それは、味だけではなかった。アスタリカの市場で浴びた、夕日のオレンジ色。

香辛料売りのおばさんが、笑った時に立ちのぼった、つんとした匂い。ヴァルドの雪が溶ける朝の、頬を刺すような、冷たく澄んだ空気。

サウディスの砂漠を渡る、熱風の匂い。——旅の景色と、空気と、人々の笑顔。

そのすべてが、色と香りを伴って、暗い闇の中に、ぱっと、広がっていく。


「料理は、心で作るものです」

わたくしは言った。


「この舌が覚えている。世界中のあたたかな味。それを、あなたにお届けします」



わたくしの《美食家の舌》が、記憶の味を、この闇の中に紡ぎ出していく。


不思議なことだった。けれど、これこそが、わたくしの力の本質なのだ。

《美食家の舌》は、ただ味を聞くだけの力ではない。心に刻んだ味を、もう一度呼び覚ます力。

何百もの食卓で、何百もの笑顔と共に味わった記憶。それが、わたくしの中に確かに生きている。


ひとつ、またひとつ。あたたかな味の記憶が、闇に灯をともすように広がっていく。

それは、ただの料理ではなかった。わたくしが旅で出会った、人々の。

笑顔。ぬくもり。

感謝。その、すべてが込められた味だった。


『これは……』

あのお方の声が揺れる。


『あたたかい。なぜ、こんな味が』



オーレンも、傍らで力を貸してくれた。


『あのお方よ』

彼は闇に語りかける。


『わしも、かつて、あなたと同じ絶望の中にいた。世界を呪い、すべてを滅ぼそうとした。——だが』


オーレンの声に、あたたかな光が宿る。『この娘の料理が、わしを救った。

忘れていたあたたかさを思い出させてくれた。あなたにも、きっと、わかるはずだ』



闇に紡がれた味の記憶が、少しずつ、あのお方を包んでいく。


飢えた村が笑顔を取り戻した、あのスープ。いがみ合う国を繋いだ、あの一皿。

孤独な人々が仲間になった、あの食卓。ひとつひとつの味に、世界のあたたかさが確かに宿っていた。


『……わしは』

あのお方の声が、震えはじめた。


『わしは、ずっと、人の争いと、汚れだけを、見てきた。だが』



「人は、確かに過ちを犯します」

わたくしは優しく言った。


「争い、傷つけ合い、あなたの愛した世界を汚すことも、ある。でも」


わたくしは、心を込めて、最後のひと品を、あのお方へと差し出した。


「人は、あたたかいものを囲めば、笑顔になれる。分かち合い、許し合い、手を取り合える。あなたが生んだ命は、まだ、こんなにも美しいものを、生み出せるんです」



その瞬間。


闇の中に——ひとすじの光が、差した。あのお方の心の奥底から、忘れられていた世界への愛が、あたたかな味に呼び覚まされ、蘇っていく。


『ああ……』

あのお方の声が——涙に濡れた。


『そうだった。わしは、この世界を、こんなにも愛していた。命のひとつひとつを、いとおしく思っていた。忘れていた。長い絶望の中で』


『花が咲く喜び。子が生まれる奇跡。人が笑い合う、ぬくもり。わしが、この世界に望んだのは、すべて、ここにあったのだ』

あのお方の声は、もう、絶望に沈んではいなかった。


『なのに、わしは、裏切りと汚れにばかり目を奪われ、美しいものから目を背けて、しまっていた』


「いいえ。気づけたなら、それでいいのです」

わたくしは、優しく言った。


「あなたは、また、世界を愛せます。今、こうして思い出せたのですから」



闇が晴れていく。


底なしの孤独が、あたたかな光に満たされていく。涸れ果てていた心に、再び、世界への愛があふれはじめる。


『教えて、おくれ』

あのお方の声が、穏やかに響いた。


『その料理を、わしにも、もう一度。この世界のあたたかさを、味わわせておくれ』


「はい。喜んで」

わたくしは微笑んだ。涙が、頬を伝った。


長い、長い旅だった。凍てつく辺境に嫁いだ、あの日から。

飢えを満たし、渇きを癒し、いがみ合う国を繋ぎ、孤独な同志たちと出会ってきた。そのすべてが、この、世界の親神を救うための、道のりだったのだ。

初代辺境伯アーデンが、未来に託した希望。それが今、ようやく果たされようとしている。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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