第124話 眠れる親神
オーレンに導かれ、わたくしたちは淵の縁に立った。
金色に輝く深淵。その底から、絶え間なく立ちのぼる、無数の声。
世界のあらゆる命の響き。それらが生まれ、巡り、還る。
世界の源。その最も深いところに、あのお方は眠っている。
『……いざ、その時が来ると』
オーレンが、静かに言った。
『胸が、震えるな。何百年も滅ぼそうとしてきた御方に、今は、救いを願って向き合うとは』
◇
わたくしは、淵に向かって呼びかけた。
「あのお方、聞こえますか。わたくしは、セレスティア。神の声を聞く舌を持つ者です」
返事はない。ただ、淵の光が、わずかに揺らいだ。
眠れる神は、深い絶望の底で、まだ目を覚まさない。
「《美食家の舌》で、あのお方の心に触れてみます」
わたくしは、淵の縁に膝をつき、そっと、その金色の光に手を伸ばした。
◇
光に触れた瞬間、わたくしの意識は、淵の底へと引き込まれていった。
そこは——果てしない闇だった。何もない。
光も、音も、ぬくもりも。ただ、深く、底なしの孤独だけが広がっている。
これが、あのお方の心の中。世界を生んだ神が、今、沈んでいる、絶望の深さ。
《美食家の舌》が、この闇の味を読み取る。それは、涙すら涸れ果てた味だった。
かつては、世界へのあふれる愛で満ちていた、はずの心。それが今は、乾いて、ひび割れ、ただ暗い。
愛が深かった分だけ、その喪失は、どこまでも深かった。
「……っ」
あまりの寂しさに、息ができなくなった。これは、海の神の孤独よりも、オーレンの絶望よりも、さらに深い。
比べものにならないほどの虚無。
◇
闇の中に——小さな声が響いた。
『……なぜ、来た』
それは、世界のすべてを生み出した者の声とは思えぬほど、か細く疲れ果てた声だった。『もう、何もいらぬ。
誰もいらぬ。わしは、ただ、すべてを終わらせたい。
この悲しみごと、世界を消してしまいたい』
「あのお方」
闇に向かって、呼びかけた。
「あなたは、本当に、そう思っているのですか」
◇
『……わしは、世界を、愛していた』
声が、震える。『あらゆる命を慈しんだ。
神々を生み、人を育み、皆が、幸せに暮らす世界を夢見た。だが』
闇が、いっそう深くなる。
『人は争い、世界を汚し、わしの生んだ神々さえ、忘れ、見捨てた。愛が深ければ深いほど、裏切られた痛みは、耐え難い。わしは、もう、見ているのが——つらいのだ』
その声に滲む絶望は、あまりに深く、わたくしの胸を締めつけた。
◇
——誰よりも世界を愛したからこそ、誰よりも深く絶望した。
前宰相の言葉が、今、痛いほどわかった。あのお方は、冷酷な破壊者ではない。
愛するわが子に裏切られ、傷ついた、一人の親なのだ。その悲しみの深さは、海の神も、オーレンも、すべての絶望の根源だった。
「わかります」
わたくしは、静かに言った。
「あなたの悲しみが。愛したものに裏切られる、つらさが」
『……お前に、何がわかる』
◇
「わかります。わたくしも、前世で、報われない想いの中で倒れたのです」
わたくしは、闇に語りかけた。
「必死に尽くしても、誰にも認められない。その、つらさを、わたくしも、知っています」
わたくしの前世の絶望と、あのお方の絶望は、規模こそ天と地ほど違う。けれど、その根は同じだった。
愛し、尽くし、それが報われなかった痛み。だから、わかる。
今のあのお方に何を言っても、きれいごとは届かない。必要なのは、言葉ではなく、心に直接触れる、あたたかさなのだと。
闇が、わずかに、ざわめいた。
「でも、あのお方。わたくしは、この世界で、もう一度、生きる希望をもらいました。あたたかな食卓と、支えてくれる人々に、出会って」
わたくしは、続けた。
「だから、あなたにも、もう一度、世界のあたたかさを、思い出してほしいのです」
◇
『……世界の、あたたかさ、だと』
あのお方の声に、ほんの、かすかな。けれど、確かな揺らぎが生まれた。
長い絶望の中で、忘れていた何かを、思い出そうとするかのように。
「ええ」
わたくしは頷いた。
「証明します。わたくしの料理で。この世界が、まだ、愛するに値する場所だと。あなたに、もう一度、信じてもらえるように」
ふと、傍らに気配を感じた。オーレンだった。
彼もまた、声を聞く力で、この闇の中へ入ってきたのだ。『……わしも、手伝おう』彼は、静かに言った。
『同じ絶望を知る者として。——いや。
お前に救われた者として。今度は、わしが、あのお方に、手を差し伸べたい』
闇の彼方で、眠れる親神が、わずかに身じろぎした、気がした。
そして、現実の淵の縁では、アルヴィスが、ティナが、ダグが、ナギが。意識を失ったように淵に手を触れるわたくしを、じっと見守ってくれている。
独りではない。
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