第123話 還ってきた名前
淵のほとりで、わたくしたちは、ひとつの食卓を囲んだ。
世界の果ての荘厳な場所には、あまりにささやかな、けれど、あたたかな食卓だった。湯気を立てる、世界中の恵みの一杯。
香ばしく炙った燻製肉。とろりと煮えた根菜。
芯から体をあたためる、滋味深い汁。ティナも、ダグも、ナギも、アルヴィスも、皆で車座になって分け合う。
統べる者は、湯気の立つ椀を両手で包むように持ち、おそるおそる口をつけた。
その瞬間、彼の目から——大粒の涙が、こぼれ落ちた。
◇
『……ああ。この、味だ』
震える声で、統べる者は呟いた。『あの男と、昔、囲んだ食卓の。
あの、あたたかさ、そのものだ。忘れていた。
いや、忘れたふりを、していた。こんなにも、あたたかいものが、あったことを』
涙が止まらないらしかった。何百年分の孤独が、あたたかなひと匙で、少しずつ溶けていく。
「もう、独りでは、ありませんよ」
わたくしは、優しく言った。
◇
しばらくして、落ち着いた統べる者は、ぽつりぽつりと語りはじめた。
『わしの名は、もう、誰も覚えてはおるまい。長く生きすぎて、わし自身さえ、“統べる者”などという呼び名でしか、己を認識できなくなっていた』
「お名前を、聞かせて、いただけますか」
わたくしは、尋ねた。
統べる者は。——いや。
その人は、懐かしむように目を細めた。『……オーレン。
あの男だけが、わしを、そう呼んだ』
◇
オーレン。それが、彼の本当の名前だった。
『初代辺境伯。あの男の名は、アーデンといった』
オーレンは語る。
『わしと、アーデンは、世界の声を聞く苦しみを、分かち合った。二人で世界を巡り、苦しむ人々を助けた。あの頃が、わしの生涯で、いちばん幸せな時間だった』
『野山で火を焚き、二人で粗末な食事を分け合った。声の苦しみも、明日への不安も、あの男が隣にいれば、不思議と軽くなった』
オーレンの声に、ぬくもりが宿る。
『“いつか、世界中の人が、笑って暮らせる日が来る”。アーデンは、いつも、そう言って笑っていた。わしには、信じられなかったが。あの男の、その笑顔だけは、信じたかった』
けれど、アーデンは人間で。オーレンは、神に等しい声を聞く者ゆえに、寿命が違った。
『アーデンは、老い、先に逝った。“希望を、未来に託す”。そう言い残して。わしは、たった独り、残された』
◇
「アーデン様は」
わたくしは言った。
「あなたを、見捨てたわけでは、ありません」
オーレンが、顔を上げる。
「アーデン様は、日誌に,こう書き残していました。“わしの力では、彼を救えなかった。だが、いつか、彼を救える者が、現れることを信じる”と」
わたくしは、まっすぐにオーレンを見た。
「あなたを救う希望を、未来に託した。それが、わたくし、だったのです」
オーレンの目が——大きく見開かれた。
◇
『……そうか。あの男は』
オーレンの声が、震えた。
『わしを、見捨てて逝ったのでは、なかった。わしを救う希望を、お前に託して。——逝った、のか』
「はい」
わたくしは、頷いた。
「アーデン様の想いは、何百年も時を越えて、今、あなたに届きました」
オーレンは、天を仰いだ。その頬を伝う涙は、けれど、もう絶望の涙ではなかった。
長い、長い孤独の果てに、ようやく友の本当の想いを知った、安らぎの涙だった。
何百年。オーレンは信じてきたのだ。
友に見捨てられたと、独り残されたと。その思い込みが、彼を絶望の底へと突き落とした。
けれど、本当は違った。アーデンは、最後の最後まで友を案じ、その救いを未来へと繋いでいた。
ただ、その想いが、あまりに長い時を経て、ようやく今、届いただけ。すれ違っていた二人の心が、時を越えて結ばれた瞬間だった。
◇
『アーデン。お前は』
オーレンは、空に語りかけた。
『最後まで、わしを案じてくれていたのだな。すまない。わしは、お前の想いも知らずに、世界を呪い、滅ぼそうと……』
「オーレンさん」
わたくしは、その名を呼んだ。
「これから、一緒に、しませんか。アーデン様が解けなかった、最後の願いを」
オーレンが、わたくしを見る。
「あのお方を、救うのです」
淵を、見つめた。金色に輝きはじめた、その底を。
「あなたと、わたくし。二人の声を聞く者が、力を合わせれば。——きっと」
◇
オーレンは、しばらく淵を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
『……そうだな。わしが、長年滅ぼそうとしてきた、あのお方。だが、本当は、誰よりも救いたかったのかもしれぬ。同じ絶望を知る者、として』
立ち上がったその姿は、もう、滅びの化身ではなかった。傷つき、けれど、優しさを取り戻した、一人の人の姿だった。
「行きましょう」
皆を見渡した。
「世界の親神。あのお方のもとへ、最後の料理を、届けに」
淵の金色の光が、まるで、わたくしたちを招くように、いっそう、あたたかく輝いた。
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