第122話 世界を繋ぐ一皿
声の洪水の、ただ中で、わたくしは、鍋に向かった。
何を作るか。答えは、もう決まっていた。
これまでの旅で出会った、すべての恵みを、ひとつの皿に結ぶのだ。世界中のあたたかな声を、この一杯に込めて。
「皆さん。力を、貸してください」
わたくしは、仲間たちを呼んだ。
声の洪水の中、皆も苦しいはずだった。けれど、わたくしの声に、誰一人ためらわなかった。
アルヴィスが、剣で迫りくる瘴気を払い、わたくしの周りに、調理の場を作り出す。ティナ、ダグ、ナギが、それぞれの力で応える。
独りでは決して作れない一杯。仲間がいるからこそ、できる料理だった。
◇
ティナが、水の声を聞き、淵から湧き出す清らかな水を、わたくしの鍋へと導いた。すべての命の源となる、始まりの水。
ダグが、地の声を聞き、淵の岩壁から、大地の滋味を含んだ岩塩を削り出した。世界を支える、大地の恵み。
ナギが、淵に満ちる声の中から、海の恵みの記憶を、たぐり寄せる。遠い群島の、豊かな海の幸の味わいを。
◇
そして、わたくしは、背負ってきた荷を開いた。
ヴァルドの燻製肉。アスタリカの香辛料。
サウディスの乾いた大地で育った実り。ミルディアの水で戻した乾物。
旅の、すべてが、ここにあった。救ってきた土地の、繋いできた人々の。
その恵みの、すべてが。
「これは……」
霞の奥で、統べる者が、息を呑む気配。
「世界中の恵み、だと」
◇
火にかける。
まず、ヴァルドの燻製肉を薄く削ぎ、香ばしく炙る。じゅう、と脂がはじけ、けむる。
琥珀色の汁が、にじみ出す。そこへ、ティナが導いた、淵の始まりの水を注ぐ。
ぐらり、と煮立てば、肉の旨味が、黄金色の出汁となって、立ちのぼった。
ダグの岩塩を、ひとつまみ。サウディスの、赤く熟れた木の実を、ほろりと崩し入れれば、澄んだ汁に、ルビーのような彩りが差す。
アスタリカの香辛料を、ひと振り。つん、と鼻を抜ける刺激的な香りが、食欲をかき立てる。
仕上げに、ナギの選んだ、群島の海の幸を。ぷりり、とした身が、熱を受けて、きゅっと縮み、磯の香りを放った。
種類の違う、いくつもの旨味が、ひとつの鍋の中で出会い、溶け合っていく。北の山の幸と、南の海の幸。
乾いた砂漠の実りと、豊かな水の恵み。本来なら、決して、ひとつの食卓に並ぶことのない、遠い土地の味たちが、今ここで、ひとつになる。
それは、わたくしの旅そのものだった。いがみ合っていた人々。
交わるはずのなかった土地と土地。それを、料理が結んできた。
ひとつの食卓を囲むことで、憎しみは和らぎ、孤独は繋がった。この一杯は、その、すべての証だ。
世界は、ひとつになれる。そう信じて歩いてきた、道の結晶。
ことことと煮立つ鍋から、とろりと濃い黄金色の湯気が、ゆらめき立つ。山の滋味、海の旨味、大地の実りが、幾重にも重なった、複雑で芳醇な香り。
嗅いだだけで、空きっ腹が、せつなく鳴るような。腹の底から、力が湧くような。
希望そのものの、香りだった。
◇
その香りが、淵に満ちていく。
すると——不思議なことが、起こった。荒れ狂っていた声の洪水が、少しずつ、静まっていくのだ。
悲鳴が、嘆きが、あたたかな香りに包まれて。——ほどけていく。
『なぜ……』
統べる者の声が、震えた。
『なぜ、声が和らぐ。あれほど荒れ狂っていた絶望が』
「料理の力です」
わたくしは、告げた。
「あたたかいものは、どんな苦しみも、そっと包んで和らげる。人の心も、神の心も、同じです」
◇
わたくしは、できあがった一杯を、淵に、そっと捧げた。
そして、もうひと品。統べる者のためだけに、ある味を忍ばせていた。
日誌に、記されていた一節。アーデンとオーレンが、野山で火を焚き、分け合ったという、素朴な滋味。
香草を効かせた、根菜の汁物。旅人が、道端でこしらえるような。
けれど、心のこもった、ひと椀を。《美食家の舌》で、日誌の、わずかな記述から、二人が、かつて味わったであろう、その味を再現したのだ。
「あのお方に。そして、統べる者。あなたに」
わたくしは、湯気の立つ椀を掲げた。
「これは、わたくしが旅で出会った、すべてのあたたかさの結晶です。どうか、受け取ってください」
椀から立ちのぼる湯気が、淵の底へと、そして霞の統べる者へと、ゆっくり流れていく。
その瞬間。——淵の底から、深い、深いため息のような、安らぎの気配が立ちのぼった。
眠れるあのお方が、かすかに反応したのだ。
何百年も、絶望の中で眠り続けた、世界の親神。その心に、ほんのわずか、あたたかな何かが触れたのか。
淵の光が、それまでの淡い青から、ほんのり金色を帯びはじめた。まるで、固く凍った氷に、最初のひとすじの陽が差したように。
(……あのお方も。きっと、応えてくれる)
わたくしは、確信した。けれど、その前に。
まずは、目の前の、統べる者を。
◇
『——あたたかい』
それは、統べる者の声だった。けれど、今までとは、まるで違った。
冷たさも、虚無も消えて、ただ震える、子どものような声。
『この、味は』
声が、大きく揺らいだ。
『この香草の香り。素朴な、根菜の滋味。知っている。わしは、これを知っている。遠い、遠い昔。あの男と。アーデンと。野山で分け合った、あの味だ。なぜ。なぜ、お前が、これを』
何百年も、忘れていたはずの記憶。それが、たったひと匙の味で、堰を切ったようによみがえる。
『なんという、ことだ。こんなあたたかいものが、まだ、世界にあったのか。わしは……わしは、ずっと、冷たい声ばかりを、聞いてきたのに』
香りが、統べる者を包む。その瞬間、彼の脳裏に、よみがえったのだろうか。
まだ絶望に呑まれる前の、友と肩を並べ、ささやかな食事を分け合った、あのあたたかな日々が。声に、忘れていた、震えが、宿った。
霞んだ輪郭が、揺らぐ。何百年もの孤独の鎧が、あたたかなひと匙の前で。
——剥がれ落ちていく。
◇
「あなたは、聞こうとしなかっただけ」
わたくしは、優しく言った。
「世界には、あなたをあたためる声も、確かにあった。ただ、絶望が、それを覆い隠していただけ」
『……わしは』
統べる者の声が、揺れる。
『わしは、どうすればよかったのだ。あの男が逝き、独りになって。もう、誰も、わしの苦しみを、わかってくれぬと。そう思って……』
「いいえ」
首を振った。
「ここに、わかる者が、います。あなたの苦しみを、受け止める者が。——もう、独りでは、ありません」
◇
霞が晴れていく。
その奥から、現れたのは。——ひどく疲れた、けれど、どこかあどけなさの残る、一人の人の姿だった。
何百年も独りで、世界の悲鳴を背負い続けた者の。——本当の顔。
『……うまそうな、匂いだ』
その人は、泣き笑いのような表情で呟いた。
『なあ、その一杯。わしも、相伴にあずかっていいか。ずっと、ずっと昔、あの男と囲んだ食卓の。あのあたたかさを。——もう一度、感じてもいいだろうか』
「もちろんです」
「さあ、一緒に、いただきましょう」
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