第121話 絶望の味
淵の底から、響く地鳴り。
それは、やがて、淵を満たす声のうねりへと変わっていった。無数の悲鳴。
嘆き。呪い。
世界中のありとあらゆる負の声が、統べる者の意志に呼応するように、淵から溢れ出してくる。
『——これが、わしの聞いてきた、世界だ』
霞の中から、声が響く。
『聞くがいい。お前の守りたい世界の、本当の姿を』
◇
声のうねりが、わたくしを呑み込んだ。
その瞬間——頭の中に、直接、流れ込んでくる。飢えた子の泣き声。
戦で、すべてを失った者の慟哭。裏切られ、見捨てられた者の呪い。
世界中の悲しみが、いっぺんに押し寄せてくる。
「ぐ……っ」
あまりの苦しみに、わたくしは膝をついた。これを、統べる者は、何百年も、たった独りで聞き続けてきた。
その重さが、今、わたくしの肩にのしかかる。
◇
『どうだ』
統べる者の声が、響く。
『耐えられまい。これが、声を聞く者の宿命。世界が続く限り、終わらぬ地獄だ』
声の洪水は、容赦なく、わたくしの心を削っていく。意識が、霞む。
ああ。確かに、これは、あまりにつらい。
逃げ出したくなるほどに。
(……でも)
朦朧とする中で、わたくしは、奥歯を噛みしめた。逃げては、いけない。
この苦しみから、目を背けては、統べる者を、救えない。
それに、わたくしは、前世で知っている。苦しみを独りで抱える、つらさを。
誰にも言えず、ただ耐え続ける、あの孤独を。だから、今、思う。
この声の洪水を、統べる者が、たった独りで、何百年も。どれほど心細かっただろう。
どれほど、誰かに隣にいてほしかっただろう。
そう思えば、この苦しみは、もう、ただの苦しみではなかった。統べる者の心に寄り添うための、通らねばならない道だった。
◇
「アルヴィス、さま……」
「セラ!」
アルヴィスが、駆け寄ろうとする。けれど、声のうねりが、壁となって阻む。
「くっ……近づけ、ない」
「来ないで、ください」
なんとか、声を絞り出した。
「これは……わたくしが、向き合うべきこと。大丈夫、です」
震える足で、立ち上がった。声の洪水の、ただ中で、まっすぐに、霞の方を見据えて。
◇
「確かに……これは、つらい」
わたくしは、声を落とした。
「こんなものを、何百年も、あなたは、独りで抱えてきた。その、お苦しみが、今、わかりました」
『ならば——』
「でも」
わたくしは、遮った。
「わたくしには、この声の奥に。別のものも、聞こえます」
意識を研ぎ澄ます。《美食家の舌》が、声を聞く力と響き合い、うねりの奥に隠された、かすかな味を捉えた。
悲鳴の苦さの、その奥。ほんの、わずかに、あたたかなものが、混じっている。
それは、ごく小さな味だった。怒涛の絶望の中では、聞き逃してしまうほど、かすかな。
けれど、確かにある。濁った海水の底に、愛の旨味を見つけたように、今も、わたくしの舌は、絶望の底に潜む、ひとすじの希望を捉えていた。
◇
「希望の、味です」
わたくしは、言った。
「飢えた子を抱きしめる、母のぬくもり。失った者に差し出される、誰かの手。絶望の声の、すぐ隣で、小さな優しさも、確かに響いている」
『……何を』
わたくしは、首を振った。言葉で説き伏せようとは、思わなかった。
あの日誌を読んだ時から、知っている。これほど深い絶望に、正論は届かない。
正しさは、時に刃となって、傷ついた心を、さらに追い詰める。前世のわたくしが、そうだったように。
だから、わたくしは、言葉ではなく、味で伝えることにした。
「言葉では、何も申しません」
わたくしは、静かに言った。
「ただ、ひとつだけ、確かめてほしいのです。世界に、まだ、あたたかいものが、残っているかどうかを。——わたくしの料理で」
声のうねりが、わずかに、ざわめいた。動揺するように。
霞の奥の統べる者が、何かを思い出そうと、するかのように。
◇
「証明します」
わたくしは、宣言した。
「料理で、この淵に、あたたかな声を響かせてみせる。絶望の声を、希望の声で、満たしてみせます」
わたくしは、すぐに火を起こした。この始まりの淵で、今こそ、料理人としての、すべてを懸ける時だ。
ヴァルドで。アスタリカで。
砂漠で。海で。
わたくしは、いくつもの食卓を囲んできた。飢えを満たし、渇きを癒し、孤独を繋いできた。
その、ひと皿ひと皿が、世界に、あたたかな声を増やしてきた。ならば、この絶望の淵にも、きっと、届くはずだ。
『……無駄なことを』
統べる者の声。けれど、そこには、かすかな揺らぎがあった。
否定しきれない、何か。期待にも似た、その響きを、わたくしは、聞き逃さなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




