第120話 始まりの淵
光の神に導かれ、わたくしたちは、地の底へと続く道を下っていった。
進むほどに、空気が変わる。重く、しんと静まり返り。
けれど不思議と、嫌な感じはしない。むしろ——懐かしい。
すべての命が、ここから生まれ、ここへ還る。そんな根源の気配が、満ちていた。
やがて、道の果て。わたくしたちは、その場所にたどり着いた。
◇
それは、言葉を失うほどの光景だった。
巨大な、地の底の空洞。その中心に、深く果てしない淵が、ぽっかりと口を開けている。
淵からは、淡い光が、絶え間なく立ちのぼり、無数の声なき声が、さざめきのように、空気を震わせていた。
その声は、ひとつひとつが、世界のあらゆるものの声だった。風の歌。
水のせせらぎ。大地の鼓動。
生き物たちの、営みの音。それらが、ここで生まれ、世界を巡り、そして、ここへ還ってくる。
淵は、世界の心臓のような場所だった。
世界の中心。すべての声が生まれ、還る場所。
——それが、“始まりの淵”。
「ここに……あのお方が」
わたくしは、淵を見つめた。胸が、震える。
この底に、世界を生んだ神が、絶望の中で眠っているのだ。その存在の、あまりの大きさに、足がすくみそうになる。
けれど——わたくしは、ここへ救いに来たのだ。
◇
『——よくぞ、来た』
淵のほとりに、その人影は、立っていた。
ゆったりとした衣をまとった姿。けれど、その輪郭は、どこか霞んで見える。
何百年もの時が、その身を、半ばこの世から遠ざけているかのように。統べる者。
ついに、その姿を現したのだ。
「あなたが……統べる者」
わたくしは、対峙した。
『そうだ』
その顔は、老人のようでも、若者のようでもあった。ただ、その目だけが、底なしの疲弊と悲しみを、たたえている。
『試練を越えてきたか。大したものだ。初代の託した希望は、存外しぶといらしい』
◇
わたくしは、まっすぐ統べる者を見た。
「あなたのことは、日誌で知りました。初代辺境伯と、あなたが。かつて友だったことも」
統べる者の霞んだ輪郭が、かすかに揺れた。
『……友、か。懐かしい言葉だ』
その声に、ほんの一瞬、深い痛みが滲んだ。けれど、それは、すぐに冷たく沈んでいく。
『昔の話だ。今さら、語る意味もない』
『あの男は、わしを置いて逝った。わしだけが、残された。この、終わらぬ苦しみの中に』
その声に、底知れぬ疲弊が宿る。
『人は、老いて死ぬ。だが、わしは死ねぬ。声を聞く者は、世界が続く限り、生き続ける。わかるか。永遠に独りで、世界中の悲鳴を聞き続ける、その地獄が』
◇
その言葉に、胸が締めつけられた。
統べる者は、友を失い、たった独り、世界中の悲鳴を聞き続けてきた。その孤独の深さは、わたくしの想像を絶するものだった。
「……おつらかった、でしょう」
わたくしは、静かに言った。
「何百年も、独りで。誰にも、わかってもらえず」
『憐れむか』
統べる者の声が、鋭くなる。
『その同情こそ、不要だ。わしは、もう決めた。この苦しみを終わらせる。世界を無に還し、すべての声を、永遠の静寂に沈める』
◇
『淵の底で眠る、あのお方も。同じ望みだ』
統べる者は、淵を見下ろした。
『誰よりも世界を愛し、誰よりも深く絶望した、御方。わしが、その眠りを、完全な滅びへと導いてやる。それが、せめてもの。——手向けだ』
「違います!」
わたくしは、思わず叫んだ。
「あのお方も、あなたも。本当は、滅びなんて望んでいない。ただ、救われたいだけ。誰かに、その苦しみを、わかってほしいだけ!」
統べる者の、動きが止まった。
「わたくしには、わかります」
わたくしは、続けた。
「だって、あなたは、わたくしたちを、ここへ導いた。本当に、滅ぼしたいだけなら、そんなこと、しないはずです」
隣で、アルヴィスが、そっと、わたくしの背を支えた。ティナも、ダグも、ナギも。
淵の圧倒的な気配に怯みながらも、わたくしの傍を離れない。独りではない。
この心強さこそが、統べる者の知らなかったもの。彼が、最も欲しかったものかもしれない。
◇
長い、沈黙が流れた。
淵の光が、二人の間で、静かに揺れている。やがて、統べる者は、低く笑った。
けれど、それは嘲りではなく、どこか、泣いているような笑いだった。
『……ふ。やはり、お前は、あの男に、似ている』
その言葉を最後に、統べる者の輪郭が、再び、霞の中へと消えていく。『見せてもらおう。
お前の、その甘い理想が、この絶望の前で、どこまで通じるのかを』
淵の底から、地鳴りのような音が、響きはじめた。いよいよ、世界の運命を賭けた対峙が、始まろうとしていた。
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