第119話 霧の中の灯火
門の向こうに広がっていたのは——どこまでも続く、深い霧の世界だった。
数歩先も見えない。白い霧が、すべてを包み込んでいる。
方角もわからない。ただ、足元のわずかな道だけを頼りに、わたくしたちは慎重に進んでいった。
「……はぐれないよう、気をつけて」
わたくしは、皆に声をかけた。この霧の中で離れれば、二度と合流できない気がした。
アルヴィスが、わたくしの手を、しっかりと握った。
「離すなよ。絶対に」
その手の確かな温もりが、心細さを和らげてくれる。
ティナとダグ、ナギも、互いの存在を確かめ合うように、身を寄せて進む。この霧は、ただ視界を奪うだけでなく、人の心から、寄る辺を奪っていくようだった。
◇
どれほど、歩いただろう。
ふいに、ティナが足を止めた。
「……セラ様。なにか、聞こえる」
「声、ですか」
「うん。でも、変なの。すごく小さくて、消えそうで。——“さむい、さむい”って、泣いてる」
ティナの表情が、曇る。
「これ、神様の声だ。でも、今までと違う。すごく弱ってる」
弱った神の声。息を、呑んだ。
こんな世界の果ての、霧の中にも、苦しむ神が、いるのだ。
◇
声のする方へ、霧をかき分け、進んでいく。
やがて、霧の晴れた、小さな窪地に、それは、いた。淡い光の塊。
けれど、その光は、今にも消えそうなほど、か細く、頼りなかった。ちらちらと震えながら、必死に灯ろうとしている、小さな炎のような神。
「霧の神……?」
ナギが、呟く。
「いや、違う。光の神かな。でも、こんなに弱って」
その神は、長い間、この霧に閉ざされ、誰にも気づかれず、ひとりきりで消えかけていたのだ。
◇
わたくしは、そっと、その光に近づいた。
『……さむい。……くらい。……ひとり、ぼっち』
か細い声が、直接、胸に響いてくる。ナギの力を借りずとも、これほど近ければ、その悲しみが伝わってきた。
孤独。そして、衰弱。
この神は、忘れられたまま、ゆっくりと消えようとしている。
「大丈夫。もう、ひとりじゃない」
わたくしは、優しく語りかけた。
「わたくしたちが、来ました。あなたを、あたために」
◇
けれど、この神に、料理でできることは、あるだろうか。
弱り、消えかけた光。海の神のように、苦しみを聞いて、というのとも違う。
この神は、ただ衰弱している。生命の灯火が、尽きかけているのだ。
ならば、必要なのは、その灯を、もう一度燃え上がらせる力。
(……あたたかいものを。芯から、あたためるものを)
わたくしは、すぐに火を起こした。この極限の地で、冷えきった心と体を、芯から灯す一杯を。
◇
携えてきた燻製肉と乾燥根菜を、惜しみなく鍋に放つ。
ことことと煮込めば、滋味深い湯気が、霧の中に立ちのぼった。仕上げに、木の実と蜂蜜の携行食を少し溶かし込む。
疲れた体に染み渡る、優しい甘み。生命力を呼び覚ます、あたたかなスープができあがった。
「さあ、召し上がれ」
湯気の立つ椀を、消えかけた光の神へと、そっと捧げた。
「あたたかいですよ。あなたの、その芯まで、きっと届きます」
◇
あたたかな湯気が、か細い光を、ふわりと包んだ。
その瞬間——消えかけていた光が、ぽっと明るさを増した。ちらちらと震えていた炎が、しっかりと力強く、燃えはじめる。
『……あたたかい』
神の声が、変わった。震えるような安らぎとともに。
『あたたかい……。ひとりじゃ、ない……』
何百年、いや、それ以上。この霧の底で、たった独り、誰にも気づかれず、消えることだけを待っていた、小さな神。
その心に、あたたかなひと匙が、確かに届いた。忘れられていた、ということ。
それ自体が、どれほど寒く、暗かったか。わたくしには、わかる気がした。
光が、みるみる大きくなる。窪地を、霧を、わたくしたちを。
やわらかな金色の光が、照らし出した。消えかけた命が、今、確かによみがえったのだ。
この神は、世界の綻びで暴走した、あの六柱とは違うのだろう。淵の近くで生まれ、ひっそりと忘れられていた、小さな神。
けれど——救うべき命に、大小はない。目の前の、消えかけた灯を見過ごすことなど、わたくしには、できなかった。
◇
光の神は、感謝するように、わたくしたちの周りをぐるりと舞った。
そして——その光が、霧を払っていく。立ち込めていた白い霧が、神の光に照らされ、晴れていった。
その先に、道が見えた。深く、暗い、地の底へと続く、一本の道が。
「……この先が」
わたくしは、息を呑んだ。
「“始まりの淵”へ」
光の神が、先導するように、その道の先で、ぽうっと灯る。消えかけた小さな神は、今度は、わたくしたちの行く道を照らす灯火に、なってくれたのだった。
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