第118話 選ばれし試練
“始まりの淵”を目指す旅は、統べる者の言葉通り、過酷なものだった。
道なき道を進む。地図にもない領域。
世界の果てへ近づくにつれ、風景は、現実離れしたものになっていった。空の色が、刻々と移ろい、大地が、虹色に輝く。
ここはもう、人の住む世界の外なのだ。
「気を抜くな」
アルヴィスが、剣の柄に手をかける。
「何が出てきても、おかしくない」
旅は、すでに半月に及んでいた。携えてきた保存食が、皆の体を支えてくれている。
けれど、世界の果てに近づくほど、空気は薄く、重くなる。一歩進むごとに、見えない力が、心を削ろうとしてくる。
統べる者の言った試練。それは、もう始まっているのだ。
◇
やがて、わたくしたちは、巨大な石の門の前に、たどり着いた。
朽ちて苔むした、古代の遺構。けれど、その門は、固く閉ざされ、びくともしない。
門の中央には、奇妙な文様と文字が、刻まれていた。
「これは……何かの仕掛け?」
ティナが、首をかしげる。
わたくしは、門に刻まれた文字を読もうと、目を凝らした。古い言葉。
けれど、不思議と、その意味が、頭に流れ込んでくる。神の声を聞く力が、読み解かせてくれるのだ。
◇
『——資格なき者は、通れない』
文字は、そう告げていた。
『この先へ進みたくば、己の心を示せ。偽りは通用せぬ。汝は、何のために淵を目指す』
その問いかけと同時に、門が淡く光り、わたくしたちを包み込んだ。視界が、ぐにゃりと歪む。
気づくと、見覚えのある場所に、立っていた。
◇
それは——前世のわたくしの、職場だった。
深夜のオフィス。山積みの書類。
鳴り止まない電話。疲れ切った顔のわたくしが、そこで必死に働いている。
ああ。これは、倒れる前のわたくしだ。
『——お前の、本当の望みは、これだろう』
声が、囁いた。『認められたい。
必要とされたい。そのために、お前は命を削った。
ここで、もう一度、その夢を叶えてやろう。出世も名誉も、思いのままだ』
◇
甘い囁き。けれど、わたくしは、静かに首を振った。
目の前の幻は、よくできていた。書類の手触りも、電話の音も。
深夜のオフィスの、あの張り詰めた空気も。すべて、本物のようだった。
あの頃のわたくしなら、きっと、この幻にすがりついていた。もっと認められたい、もっと評価されたい、と。
「いいえ。それは、もう、わたくしの望みでは、ありません」
かつてのわたくしは、確かに、認められたくて必死だった。誰かに必要とされることだけが、自分の価値だと信じていた。
だから、倒れるまで働いた。けれど、今は違う。
前世で、わたくしが、本当に欲しかったもの。それは、出世でも、名誉でもなかった。
「わたくしが欲しかったのは、わたくしの作ったものを、“おいしい”と笑ってくれる、誰か。ただ、それだけでした」
◇
幻が、揺らぐ。
「わたくしは、もう、見つけました」
まっすぐ、前を見た。
「わたくしの料理を待ってくれる人が。一緒に食卓を囲む仲間が。だから、もう、あの孤独なオフィスには、戻りません」
その言葉とともに、前世の幻が、さらさらと砂のように崩れ、消えていった。気づくと、再び、石の門の前に立っていた。
『——よかろう』
門の声が、響く。『汝の心に、偽りはない。
己の望みを、見失わぬ者よ。通るがいい』
それは、ただの関門ではなかった。自分が、何のためにここにいるのか。
何を大切に生きてきたのか。それを見失った者は、この先へ進めない。
淵へ至る試練とは、力比べではなく、心を問うものだったのだ。
◇
重い音を立てて、古代の門が、ゆっくりと開いた。
「セラ。大丈夫か」
アルヴィスが、駆け寄る。皆も、それぞれの幻と、向き合っていたらしい。
「俺は……鉱山に、いた」
ダグが、ぽつりと言った。
「みんなに気味悪がられて、独りぼっちの、あの頃に。“ここにいれば、誰にも傷つけられない”って、囁かれた。でも、断った。今のおれには、仲間がいるからな」
「わたしも」
ティナが、頷く。
「故郷の村に戻れる幻を、見せられたの。でも——わたしの居場所は、もう、セラ様たちの隣だから」
ナギも、アルヴィスも。それぞれの、いちばん弱い場所を突かれていた。
けれど、全員、自分の心を見失わず、乗り越えたのだ。かつて孤独だった者たちが、今は、互いを居場所と呼べる。
その絆こそが、この試練を越える力だった。
「ええ。平気です」
わたくしは、微笑んだ。
「自分が、本当に大切なものを、改めて確かめられました」
門の向こうには、さらに深い霧が、立ち込めている。“始まりの淵”は、まだ、ずっと先。
けれど、この試練を越えたわたくしたちなら、きっと、たどり着ける。
そう確信して、わたくしたちは、霧の中へと足を踏み入れた。
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