第116話 傷ついた者の面影
統べる者の襲撃から、一夜が明けた。
瘴気に枯らされた、村はずれの草木。その痛々しい黒い跡を前に、わたくしは立ち尽くしていた。
あれが、村の中心に届いていたら、どれほどの被害が出ていたか。
「セラ」
アルヴィスが、隣に立った。
「気に病むな。誰も欠けなかった。それで、十分だ」
そう言って、彼は、わたくしの背に、そっと手を添えた。冷えた朝の空気の中、その手の温もりだけが、確かだった。
「お前は、いつも背負いすぎる。少しは、おれにも、分けろ」
「……はい」
その優しさに、強張っていた心が、ほどける。
「ありがとうございます」
「ええ。でも」
わたくしは、黒い跡に、そっと触れた。
「次は、もっと強い力で来る。そう、言っていました。その前に、統べる者のことを、もっと知らなければ」
◇
館に戻ると、セバスが、一冊の古びた書物を抱えて待っていた。
「奥様。書庫を改めて調べておりましたら、こんなものが」
差し出されたのは、虫食いだらけの、古い日誌のような冊子だった。
「初代様の覚え書きと、同じ棚の奥に。隠すように、しまわれておりました」
わたくしは、慎重に頁をめくった。インクはかすれ、文字も、所々欠けている。
けれど——そこに記されていたのは、初代辺境伯の、若き日の記録だった。
◇
『——今日、奇妙な男に出会った』
掠れた文字を、追った。
『わしと同じ、世界の声を聞く者だという。名を問うても、答えぬ。ただ、悲しげな目で、世界を見ていた。彼の聞く声は、わしのそれより、ずっと多く、ずっと深いらしい。彼は言った。「お前も、いずれわかる。声は増えていく。世界が汚れるほど、悲鳴は増える」と』
その男。——統べる者だ。
確信した。初代辺境伯と統べる者は、かつて出会っていたのだ。
◇
頁を繰る。日誌は、二人の交流を記していた。
最初、二人は、同じ力を持つ者として、心を通わせていた。世界の声を聞く、孤独。
それを分かち合える、唯一の相手。けれど、やがて、二人の道は分かれていく。
『彼と語り合う夜は、心が安らいだ』
ある頁には、そう記されていた。
『この苦しみを、わかってくれる者がいる。それだけで、わしは救われた。だが、彼の苦しみは、わしの比ではなかった。わしが十の声を聞くなら、彼は、千の声を聞いていた』
千の声。世界中の、ありとあらゆる悲鳴を、たった一人で聞き続ける。
その重さを想像して、わたくしは身震いした。
『彼は、もう限界だと言う。世界の悲鳴に、耐えられぬと。いっそ、すべてを終わらせれば、この苦しみも終わると。わしは、必死に止めた。声が苦しいなら、その声を減らせばいい。世界を、より良くすればいい、と。だが、彼は、力なく笑うだけだった』
◇
わたくしは、頁から目を上げた。胸が、締めつけられる。
統べる者は、かつて、初代辺境伯に救いを求めていたのかもしれない。けれど、初代の言葉は届かなかった。
あまりに深い絶望には、正論は届かない。それは、前世のわたくしも知っている。
働きすぎて倒れる、その時まで、誰の「休め」という言葉も届かなかった、あの日々を。
「……わかる、気がします」
わたくしは、呟いた。
「あの人は、本当は、救われたかった。でも、誰にも、その手を掴めなかった」
絶望の底にいる者には、「がんばれ」も「希望を持て」も届かない。むしろ、その正しさが、追い詰める。
わからないくせに、と。前世のわたくしも、そうだった。
倒れる、その瞬間まで、「もっとできる」「休むのは甘え」と、自分で自分を追い込んでいた。
だから、わかる。統べる者に必要なのは、正論でも説教でもない。
ただ寄り添い、その苦しみを丸ごと受け止める、あたたかな何かだ。
◇
『せめて、未来に希望を託そう』
日誌の、最後の頁は、初代辺境伯の決意で結ばれていた。
『わしの力では、彼を救えなかった。あのお方の絶望も、解けなかった。だが、いつか。わしより、ずっと深く、世界の声を聞き。なお、絶望に呑まれぬ者が、現れるかもしれぬ。その者に託そう。神の声を聞く舌は、いつか必ず、還ってくる。——その日を、信じて』
その一文に、わたくしの目に涙が滲んだ。初代辺境伯が託した希望。
それが、わたくしだ。彼が救えなかった、統べる者を。
あのお方を。——わたくしが、救う。
◇
「アルヴィス様」
わたくしは、顔を上げた。
「わたくし、決めました。統べる者を、倒すのではなく、救います」
アルヴィスは、静かにわたくしを見つめ、そして頷いた。「ああ。お前らしい」
「あの人の絶望は、きっと、誰よりも深い。何百年も、世界の悲鳴を聞き続けて。それでも」
わたくしは、拳を握った。
「料理は、言葉が届かない心にも、届く。海の神に届いたように。きっと、あの人にも」
窓の外、晴れた空に、つかの間の平穏が、戻っていた。けれど、わたくしの胸には、新たな決意が——静かに燃えていた。
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