第115話 瘴気を断つ
瘴気の化け物が、地を這うように迫ってくる。
触れれば、力を奪われる。アルヴィスの剣も、長くは保たない。
まともにぶつかっては、勝ち目がない。わたくしは、必死に頭を巡らせた。
(……あの化け物は、神の力を歪めて作られたもの。なら、必ず、どこかに綻びがあるはず)
《美食家の舌》を研ぎ澄ます。瘴気の放つ、淀んだ気配。
その中に、かすかな、不協和音のようなほころびを感じ取った。
◇
「ティナ。あの化け物、どこか、繋ぎ目のように弱い場所が、ないですか」
水鏡なら、瘴気の奥の構造が見えるはず。神の力を歪めて作られたものなら、必ず、その力の中心がある。
料理と、同じだ。どんな複雑な一皿にも、味の要となる核がある。
それを見抜けば。
「見てみる」
ティナが、水鏡をかざす。
「……あった! 体の真ん中。心臓みたいに、瘴気が渦巻く核。でも、ぐるぐる瘴気に守られてて、近づけない」
」
核。そこが急所だ。
あの瘴気の渦さえ、突破できれば。
「ダグさん。あの核めがけて、足場を、作れますか」
「やってみる」
◇
ダグが、両手を地に打ちつけた。
地面が、轟音とともに隆起する。化け物の足元から、巨大な岩の柱が突き上がった。
その勢いに、化け物がよろめき、瘴気の守りが、一瞬薄れる。
「今です、アルヴィス様!」
「——応!」
アルヴィスが、岩の柱を駆け上がる。薄れた瘴気の隙間を縫って、剣を振りかぶり、化け物の核へと——突き込んだ。
◇
ぎゃああ、と、化け物が、耳をつんざく悲鳴を上げた。
核を貫かれ、瘴気の体が、ぐらりと崩れる。けれど——倒れない。
傷ついた化け物は、いっそう凶暴になり、むちゃくちゃに瘴気を撒き散らしはじめた。
撒き散らされた瘴気が、触れた草木を、たちまち黒く枯らしていく。緑が、命が、見る間に失われる。
あれが、村に、人に届けば、どれほどの命が奪われるか。背筋が寒くなった。
一刻も早く、仕留めなければ。
「アルヴィス様!」
剣を引き抜いた、アルヴィスの全身に、黒いもやがまとわりつく。彼の顔が、苦痛に歪んだ。
力を、奪われている。このままでは。
「させない!」
◇
わたくしは、咄嗟に駆け出した。
懐に忍ばせていた小瓶。旅の常備品の香草から抽出した精油に、これまで救ってきた、神々の恵みを混ぜ込んだもの。
ミルディアの清らかな水。サウディスの潤いの実り。
火の神の加護が宿る、香辛料。救った神々への感謝を込めて、旅の間に、少しずつ作りためてきた、お守りのような一品だった。
それを、アルヴィスにまとわりつく、もやめがけて、振りかけた。
すると——黒いもやが、じゅっと音を立て、霧散する。清らかな神々の恵みに、瘴気がたじろいだのだ。
「……助かった」
アルヴィスが、もやを振り払い、体勢を立て直す。
「この香りが効くのか」
「ええ。瘴気は、清らかなものを嫌う。救ってきた神々の恵みが、わたくしたちを守ってくれます。——これで、いけます」
◇
わたくしは、皆に、その精油を配った。
「これを武器に塗って。瘴気をまとわせず、核を叩けます」
ダグの岩に、アルヴィスの剣に、神々の恵みの精油が塗られていく。清らかな加護をまとった武器は、もう、瘴気に力を奪われない。
救ってきた、ひとつひとつの土地。結んできた、ひとつひとつの縁。
その、すべてが、今、わたくしたちの力になっていた。
「ナギ、ティナ。核の位置を、教えて!」
「右に傾いた! 核が、剥き出しになってる!」
ティナが、叫ぶ。ナギも、海の声で研ぎ澄ました感覚で。
「今だ、一気に、行ける!」
◇
総攻撃が、始まった。
ダグの岩が、化け物を押さえつけ、ナギの読みで、動きを先回りし、ティナの水鏡が、核の位置を、寸分の狂いもなく示す。五人の力が、ひとつの矢となって、急所を狙う。
そして、アルヴィスの剣が、清めの光をまとって、核を深く貫いた。
「ぐ、ぎゃあ……ァ!」
断末魔とともに、瘴気の化け物が内側から崩れていく。黒い靄が晴れ、後には、何も残らなかった。
化け物は、塵となって消え去ったのだ。
「……やった」
ティナが、ほっと息をつく。
誰一人、欠けても勝てなかった。声を聞く者たちと、アルヴィス。
皆の力が噛み合って、初めて退けられた、強敵だった。
◇
けれど、空の黒雲は、まだ晴れていなかった。
『——ほう』
統べる者の声が、響く。そこには、わずかな感嘆が滲んでいた。
『あれを、退けるか。……面白い。やはり、お前は、ただの娘ではないようだ』
「統べる者」
わたくしは、空を見上げた。
「あなたの瘴気は、退けました。どうか、もう一度、話を聞かせてください」
『……いや。今日は、ここまでにしておこう』
声に、再び、あの疲弊が滲む。
『だが、覚えておけ。次は、こんな児戯では済まさぬ。お前の、その“希望”を、打ち砕きに来る』
黒雲が、ゆっくりと晴れていく。けれど、去り際の、その声に、わたくしは、確かに感じ取っていた。
“面白い”と言った、あの一瞬。そこには、ほんのわずかだが、何百年も忘れていたような、生きた者への興味の、ひらめきがあった。
完全に絶望しきった者なら、わたくしたちの抵抗など、歯牙にもかけないはず。なのに、彼は、こちらを“面白い”と言った。
まだ、心の奥の奥に、消えきっていない何かがある。
「……必ず」
わたくしは、晴れていく空に呟いた。
「あなたの、その絶望を、解いてみせます」
最初の対決は、辛くも、わたくしたちの勝利で終わった。けれど、本当の戦いは——まだ、これからだった。
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