第111話 忍び寄る影
群島での務めを終え、わたくしたちは、ヴァルドへの帰路についた。
ナギも、一緒だった。村人たちは別れを惜しんだけれど、ナギの決意は固かった。 「おれは、セラさんたちと行く。もっとたくさんの、苦しんでる神様を救うために」その背を、村のみんなが、笑顔で送り出してくれた。
海を越え、陸路を進む。六つ目の珠と、五人目の同志を得て、旅は、確かな手応えとともに進んでいた。 けれど。
◇
ヴァルドに近づいた頃、ティナが、ふと水鏡を覗き込み、表情を曇らせた。
「セラ様……。なんだか、変」
「どうしました?」
「ヴァルドの方角。前に見た、あの黒いもやが、また増えてる」ティナの声が、緊張を帯びた。
「それも、ひとつじゃない。いくつも。ヴァルドの周りを、取り囲むみたいに」
その言葉に、ぞくりとした。黒いもや。 滅び派の術具の気配。それが、わたくしたちの留守の間に、本拠地であるヴァルドへと忍び寄っていた。
◇
「急ぎましょう」皆を、促した。「いやな予感がします」
馬を飛ばし、ヴァルドへ。けれど、たどり着いた領地は、表向き、いつもと変わらない平穏さを保っていた。 畑は実り、人々は笑い、穏やかな日常が、そこにはあった。
「……何も起きていない、ように見えますね」
「うん。でも」ティナが、首を振った。
「もやは、確かにある。町のあちこちに。まるで、紛れ込むみたいに、潜んでる」
セバスが、出迎えてくれた。けれど、その顔は、どこか強張っていた。
「お帰りなさいませ、奥様。実は、お留守の間に、少々気がかりなことが」
◇
セバスの話は、こうだった。
このひと月ほどの間に、ヴァルドに、見慣れない行商人や旅人が増えたのだという。
それ自体は、領地が栄えた証で、歓迎すべきこと。
――けれど
「彼らの何人かが、妙なことを訊いて回っているのです」セバスは、声を潜めた。
「辺境伯家の、古い記録。初代様の覚え書き。それらが、どこに保管されているのか、と」
その言葉に、はっとした。初代辺境伯の覚え書き。 “神の声を聞く舌は、いつか必ず還ってくる”と記された、あの記録。それを、滅び派が狙っている。
「……なるほど。敵の狙いが、見えてきました」
◇
「奴らは、初代辺境伯の覚え書きを、欲しがっている」わたくしは、皆に告げた。「あれには、原初の神を目覚めさせる、何か。あるいは、絶望を深める手がかりが、記されているのかもしれません」
考えれば、辻褄が合う。前宰相は、廃教会の儀式で、あのお方の眠りを揺さぶった。
けれど、それは、まだ、わずかな揺らぎにすぎない。
完全に目覚めさせるには、もっと確かな手がかりがいる。
神の声を聞いた、初代辺境伯の覚え書き。
そこにこそ、その鍵があると、滅び派は睨んでいるのだ。
アルヴィスの表情が、険しくなった。
「では、奴らに渡すわけには、いかんな」
「ええ。ですが」考えを、巡らせた。
「敵が、これだけ執拗に探しているということは。まだ、見つけていない、ということ。覚え書きのありかは、わたくしたちしか、知りません」
館の奥深く、先祖代々の記録が眠る、古い書庫。そこに、あの覚え書きは、しまわれている。
しかし、敵の影が、これだけ近づいているなら、安全とは言えない。
◇
「今夜のうちに、覚え書きを、より安全な場所へ移しましょう」決断した。「そして——敵の正体を、突き止めます」
「どうやって」ダグが訊いた。
「囮を、使います」静かに、微笑んだ。「覚え書きを移すと、見せかけて、敵をおびき出すのです。動いたところを、ティナの水鏡と、あなたの地の声で捉える。——尻尾を掴みます」
捕らえた前宰相は、口を割らなかった。けれど、その手の者が、自ら動いてくれるなら。 そこから、滅び派の中枢へと辿ることが、できる。
◇
その夜。
月のない、闇夜だった。館の書庫に、ひとつ灯りがともる。 覚え書きを運び出すと見せかけた、囮の灯り。
わたくしたちは、闇に潜み、息を殺して待った。やがて——その灯りに誘われるように、いくつもの黒い影が、音もなく、館へと忍び寄ってきた。
影は、五つ。いずれも黒装束に身を包み、足音ひとつ立てない。 ただの行商人や旅人では、断じてない。訓練された、手練れの動きだった。 彼らは、書庫の灯りを目指し、迷いなく闇を進んでいく。
「……あの動き。明らかに、ヴァルドの内情を知っている」アルヴィスが、低く囁いた。「書庫の場所も、警備の手薄な道も。下調べは、済ませているな」
ぞくりとした。このひと月、 町に紛れ込んだ行商人や旅人。彼らは、ただ覚え書きのありかを、探っていただけではない。 館の構造も、人の動きも。すべて調べ上げていたのだ。 敵の周到さが、肌で感じられた。
「……来ましたね」わたくしは、小さく呟いた。
合図は、まだ。あの影たちが、書庫に踏み込み、逃げ場を失う、その瞬間まで。 息をひそめて、待つ。捕らえて、口を割らせる。 前宰相が語らなかった、滅び派の中枢を。今度こそ、暴くために。
滅び派の手の者。その正体を暴く戦いが、今、静かに、幕を開けようとしていた。
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