第110話 古き海の記憶
海の神を救った、翌朝。
群島の漁村は、見違えるように活気づいていた。
澄んだ海には、魚影が戻り、漁師たちが、久しぶりの大漁に沸いている。
ナギは、もう爪弾き者ではなかった。村の英雄として、誰からも慕われていた。
「セラさん! これ、見てくれ!」
ナギが、籠いっぱいの魚介を抱えて、駆けてきた。ぴちぴちと跳ねる魚。つやつやと光る貝。
「海が、戻った。こんな大漁、何年ぶりか……! 村のみんなが、あんたに礼を言いたいって」
「お礼を言うのは、こちらです」
「さあ、この恵みで、お祝いの料理を作りましょう」
その日の朝餉は、賑やかだった。獲れたての魚を炭火で炙り、貝を潮で蒸し上げる。
村人たちが、笑顔で囲む食卓。海が戻るとは、こういうことなのだと、誰もが噛みしめていた。
◇
その日の昼下がり。わたくしは、再び小舟で、沖へと出た。
海の神に、もう一度会うためだった。救われた神は、深い海の底で、穏やかに眠っている。 けれど、ナギの力を借りれば、その声を聞くことが、できるかもしれない。どうしても、確かめたいことが、あった。
「ナギさん。海の神に、訊いてみたいことがあるんです」言った。「初代辺境伯のこと。そして、原初の神のことを」
「やってみる。今なら、神様も穏やかだ。きっと、応えてくれる」
◇
ナギが、海に手を浸し、目を閉じた。
しばらくして、彼の表情が変わった。
「……神様が、言ってる」ナギが、ゆっくりと口を開いた。
「“原初の神”。その名を、海の神も覚えてる。とても古い記憶だって」
その時、わたくしも、海面に、そっと手を浸した。指先から、海水の味が、伝わってくる。
その瞬間、《美食家の舌》が、ただの塩気ではない何かを捉えた。
◇
——味の、ビジョンが、流れ込んでくる。
それは、あたたかく満ち足りた味だった。生まれたての、世界の味。
あのお方が、海に、山に、空に命を吹き込み、いくつもの神を生み出していく。
この海の神も、その一柱。
あのお方が生んだ子のひとり。
慈しみに満ちた優しい旨味が、舌に溢れる。
あのお方が、世界を、その子らである神々を心から愛していた。
その愛情そのものの味だった。
「……あたたかい」わたくしは、思わず、呟いた。
「あのお方は、本当に、世界を愛していたのですね」
ナギが、驚いたように、わたくしを見た。「セラさん。なんで、それを」
「舌が、教えてくれました」海面を、見つめた。
「この海の、いちばん深いところに。あのお方の愛した記憶が、まだ残っている」
◇
けれど——次の瞬間、舌の上の味が、一変した。
あたたかな旨味が、みるみる苦く濁っていく。裏切りの味。 喪失の味。人が増え、争い、世界を汚し、神々を忘れていく。 あのお方が愛したものが、ことごとく損なわれていく、やるせない苦み。舌がひりつくほどの、深い絶望の味だった。
「うっ……」あまりの苦さに、思わず、顔をしかめた。
「……あのお方は、悲しんだ」ナギの声が沈む。海の神の語りと、わたくしの舌が捉えた味が、ぴたりと重なった。「自分が愛した世界が、自分が生んだ神々が、人に忘れられ、苦しめられていくのを。その悲しみが、深い絶望に変わっていった」
◇
「そして、あのお方は……眠りについた」
ナギの声が震えた。
「もう、見ていられないと。いっそ、すべてを終わらせてしまおうと。深い絶望の中で、眠りにつきながら。世界の緩やかな滅びを願った」
それが、世界の綻びの正体。神々が忘れられ、暴走しはじめた原因。
眠れる原初の神の絶望が、世界を、少しずつ滅びへと向かわせていたのだ。
舌に残る苦みが、その絶望の深さを、何より雄弁に物語っていた。
「……なんて、悲しい」わたくしは、呟いた。
世界を愛しすぎた神。その愛が裏切られ、絶望に変わった。 前宰相が語った言葉が、甦る。“誰よりも世界を愛したからこそ、誰よりも深く絶望した”。 その意味が、今、はっきりとわかった。
◇
「ナギさん。初代辺境伯のことは」
ナギが、もう一度、耳を澄ます。そして、はっと目を見開いた。
「……いる。海の神の記憶の中に。ずっと昔、この世界の綻びを食い止めようとした人間が、いたって。神の声を聞く力を持った人間。それが、初代辺境伯だ」
鼓動が、速くなった。
「初代辺境伯は、あのお方の絶望を解こうとした。でも、独りではできなかった。だから、未来に託したんだ。“いつか、神の声を聞く舌が還ってくる”と」
すべてが、繋がった。初代辺境伯は、わたくしと同じ、神の声を聞く者。 そして、わたくしの到来を信じて、希望を未来へと繋いだのだ。わたくしは、その託された希望そのものだった。
◇
その夜。わたくしは、宿でアルヴィスに、すべてを話した。
原初の神の、悲しい真実。初代辺境伯が託した希望。 そして——自分が、その希望そのものだったという、重い事実を。
「……怖いか」アルヴィスが、静かに訊いた。
「正直、少し」
「世界の運命を託されているなんて。わたくしひとりの肩に」
「ひとりじゃ、ない」
そう言って、アルヴィスは、わたくしを、強く抱きしめた。壊れ物を扱うように。 けれど、決して離さないというように。広い胸に、すっぽりと包まれる。 とくん、とくん、と、彼の心臓の音が、耳元で響く。力強く規則正しい、その鼓動が、不思議と、ささくれていた心を、落ち着かせていく。
「おれがいる。ティナも、ダグも、ナギも。初代辺境伯が託した希望は、お前ひとりじゃない。お前と、お前が繋いできた、すべての縁だ」
そして、アルヴィスは、わたくしの額に、そっと唇を寄せた。誓いを刻むように。 「——何があっても、おれは、お前をひとりにはしない。それだけは、約束する」
彼の低い声が、胸を通して、体の芯に響く。わたくしは、その温もりに、身を預けた。 世界の運命という、重い荷も。この腕の中でなら、ほんの少し、軽くなる気がした。
その言葉に、胸の強張りが、ほどけた。そうだ。 初代辺境伯は、独りではできなかった。でも、わたくしには、仲間がいる。 料理で繋いできた、たくさんの絆が。
「ありがとう、アルヴィス様」わたくしは微笑んだ。
「初代辺境伯が解けなかった謎を、今度こそ、わたくしたちで解いてみせます。あのお方の、絶望を。——あたたかな、ひと皿で」
窓の外、群島の海が、月光を受けて、静かに煌めいていた。原初の神の絶望を解く旅は、いよいよ、その核心へと近づいていた。
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