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【完結】追放された令嬢ですが、前世は料理人でした ~辺境で餌付けしていたら、冷徹な旦那様に溺愛されています~  作者: P作
第12章 海を越えて世界の真実へ

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第109話 届け、この一杯

「ナギさん。まずは、わたくしの声を、あの神様に届けてください」


わたくしは、舳先に立ち、荒れ狂う海の神に向かって声を張り上げた。


「海の神さま! わたくしの声が、聞こえますか! あなたを、救いに来ました!」


けれど、慟哭する龍は、聞く耳を持たなかった。濁流が、激しく岩場に砕け散る。

届かない。わたくしの声は、その深い苦しみの底には届かなかった。



「だめだ。言葉だけじゃ、届かない」

ナギが、悔しげに呻いた。


「あの神様、もう、誰の声も信じてない。何百年も独りで苦しんで、心を閉ざしきってる」


何百年もの孤独。誰にも気づかれず、ただ朽ちていく絶望。

その固く閉ざされた心を、どうすれば開けるのか。


わたくしは、考えた。言葉が届かないなら、もっと根源的なもので語りかければいい。

生き物が、決して拒めないもの。それは。


「……料理だわ」

わたくしは、呟いた。


「言葉が届かなくても。あたたかいひと皿は、きっと、心の奥に届く」



わたくしは、岩礁の上に、即席のかまどを組み、火を入れた。


作るのは、海の神のための一杯。けれど、ただの料理ではない。

弱りきった、この海に足りないもの。それを補う、一杯だ。


「ナギさん。この海に、いちばん足りないものは、なんですか。あなたの舌で、教えてください」


ナギは、海の水をすくって舐めた。そして、はっとした。

「……塩気だ。いや、違う。海の、命そのものだ。この海は、生き物の気配がない。出汁になる命が、枯れてる」


「やはり、そうですね」

わたくしも、確信した。



わたくしは、持参した、ヴァルドと群島の恵みを、すべて注ぎ込んだ。


弱った海に足りないもの。それは、生命の根源の旨味。

わたくしは、前世の知識の、すべてを注ぎ込んだ。


豊かな海で育った昆布の、まろやかな旨味。栄養をたっぷり蓄えた、干し魚の力強い出汁。

南の島で採れる、滋味深い貝。そして、遠い雪国ヴァルドから、はるばる運んできた、発酵の深いコク。

種類の異なる、いくつもの旨味。それらを、ただ混ぜるのではない。

互いを何倍にも引き立て合う、黄金の比率で、重ね合わせる。


ことことと煮立つにつれ、澄んだ黄金色の汁が、立ちのぼった。ひと口含めば、舌のすべてが震えるような、深い旨味。

まるで、世界が生まれた瞬間の、生命のひと雫。北の大地と、南の海。

遠く離れた、すべての恵みが、ひとつに溶け合う。——世界そのものを繋ぐ、究極の一杯だった。

それは、生命力に満ちた香り。枯れた海が忘れてしまった、豊かさの匂いだった。


「これを、海の神さまに」

椀を、ナギに託した。


「ナギさん。あなたの力で、この一杯に込めた、わたくしたちの想いを。あの神様に、伝えてください」



ナギは、椀を両手で捧げ持ち、海の神に向かって目を閉じた。


「……海の神さま。聞こえるか。おれだ。あんたの声が聞こえる、ナギだ」


ナギの声が。彼の心が。

海の声を通じて、龍へと流れ込んでいく。


「あんたは、ずっと、独りだった。誰にも、わかってもらえず、苦しんできた。その気持ち、おれには、わかる。おれも、ずっと、独りだったから」


濁流の勢いが、ほんの少し弱まった。海の神が、初めて、ナギの声に耳を傾けたのだ。


「でも、もう、違う。ここに、あんたを想って作られた、あったかい飯がある。独りじゃ、ないんだ。だから、受け取ってくれ」



ナギが、椀の湯気を、海へと手向けた。


あたたかな出汁の香りが、風に乗って、海の神のもとへ漂っていく。生命の旨味に満ちた、その香りが、濁った龍を、そっと包み込んだ。


その瞬間。


「……ァ」


海の神が、長い咆哮とは違う、小さな声を漏らした。それは——すすり泣くような、安らぎの吐息。

荒れ狂っていた濁流が、ゆっくりと凪いでいく。


龍は、漂う香りを求めるように、ゆっくりと頭を下げた。そして、その出汁の香りに触れた瞬間。

崩れかけていた黒い水が、澄んだ青へと変わりはじめた。



「……効いてる」

ナギが、震える声で言った。


「海の神さまの声が、“あったかい”って。“ひとりじゃ、なかった”って」


濁っていた龍の体が、少しずつ、本来の輝きを取り戻していく。漆黒のよどみが洗い流され、透き通る青い水が、月光を受けて、きらきらと煌めいた。


そして——海そのものが、応えはじめた。


どんよりと濁っていた海面が、見る間に澄んでいく。死に絶えていた海域に、魚影が、ちらほらと戻りはじめた。

枯れていた海藻が、ゆらりと葉を広げる。海の神の回復とともに、この海一帯が、生命を、取り戻していくのだ。


「すごい……。海が、生き返っていく」

ティナが、感嘆の声を上げた。



やがて、すっかり澄んだ青を取り戻した、海の神が。わたくしたちの立つ岩礁へと、ゆっくりと、巨大な頭を、寄せてきた。


もう、そこに、苦しみの色はない。深く、静かで、慈愛に満ちた瞳。

海の神は、感謝を込めるように、わたくしたちを見つめた。そして——ナギの前で、ふと動きを止めた。


「……ありがとう、だって」

ナギの目から、涙がこぼれた。


「おれの声を、初めて聞いてくれた。おれを、見つけてくれて、ありがとうって。そう、言ってる」


海の神の体から、ひとつぶの雫がこぼれ落ちた。それは、淡く輝く青い珠となって、ナギの手の中に収まった。

海の加護の珠。六つ目の、神の力だった。


そして、海の神は、満ち足りた様子で、深く澄んだ海の底へと。穏やかな眠りにつくように、静かに姿を消していった。



「……終わった、のか」

ナギが、青い珠を、見つめて、呟いた。


「ええ。あなたが、救ったんです」

わたくしは、微笑みかけた。


「あなたの力がなければ、あの神様の心には、決して届かなかった。立派な、働きでした」


ナギは、青い珠を、ぎゅっと握りしめた。かつて、“災いを呼ぶ”と疎まれた力。

それが今、海を救い、神を救った。彼の顔に浮かぶのは、深い誇りと、安らぎだった。


何百年もの孤独に苦しんだ、海の神。その心が、今、たった一杯のあたたかな出汁と、同じ孤独を知る青年の想いによって、ほどけた。


わたくしは、その神々しくも優しい光景を、胸を熱くして見つめていた。料理は、海すら救う。

人の想いは、神の孤独すら癒す。その確かな手応えを、噛みしめながら。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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