第108話 海の慟哭
翌朝。わたくしたちは、ナギの小舟で沖へと、漕ぎ出した。
海の神の苦しみの源を探るため、ナギの海の声が頼りだった。彼は、舳先に立ち、じっと海面を見つめている。
その耳が、人には聞こえぬ海の囁きを、捉えていた。
「……こっちだ」
ナギが、北の方角を指さした。
「海の声が、いちばん悲しく聞こえる。たぶん、あそこに神様がいる」
舟は、穏やかな波を切って進んでいく。けれど、進むにつれて、海の色が、少しずつ変わっていった。
◇
「……海が、濁ってる」
ティナが、眉をひそめた。
澄んでいた青い海が、だんだんと、どんよりと暗い色に。魚の姿も、めっきり減っていく。
生命の気配が、薄れていくのだ。
「ここの海はもう、長いこと、こうなんだ」
ナギが、沈んだ声で言った。
「魚が獲れない。海藻も枯れる。村が貧しくなったのも、これが原因だ」
わたくしは、海面に手を浸した。《美食家の舌》が、海の水の味を読み取る。
苦い。淀んで、生命力を失った味。
本来、海が持つべき豊かな塩味も、旨味も、ほとんど感じられなかった。
(……これは、ひどい。海そのものが、弱っている)
◇
やがて、舟は、奇妙な海域にたどり着いた。
そこだけ、海が渦を巻いていた。ごうごうと、低い唸りを上げながら。
まるで、巨大な生き物が、苦しんでもがいているかのように。その渦のほとりに、波に洗われた、平らな岩礁が、ぽつんと顔を出していた。
わたくしたちは、舟をその岩場へとつけ、足場を確保した。
「ここだ」
ナギの声が、緊張に強張る。
「海の声が……すぐ近くで聞こえる。すごく苦しそうだ。“助けて”って」
その時、渦の中心から、ぬっと、巨大な影が浮かび上がった。
それは——水でできた、巨大な龍だった。けれど、その姿は痛々しい。
濁った黒い水をまとい、体のあちこちが、ぼろぼろと崩れかけている。澄んだ海の青さなど、どこにもない。
鱗の一枚一枚が、よどんだ泥のように、にごり、剥がれ落ちては、黒い水となって海に溶けていく。
「あれが……海の神」
わたくしは、息を呑んだ。
かつて、この海に豊かな恵みをもたらしていたであろう、気高い水の龍。それが今は、見る影もなく衰え、苦しんでいる。
長い年月、誰にも顧みられず、ただ独りで朽ちていく――その姿は、あまりに悲しかった。
◇
海の神は、苦しげに身をよじり、咆哮した。
その叫びは、怒りではなかった。——悲鳴だった。
誰にも届かない、長い、長い、孤独の慟哭。濁った水の龍が、のたうつたびに、周囲の海が、激しく荒れ狂う。
「グ、ガアアア……ッ!」
「……かわいそうに」
わたくしは、思わず呟いた。
ナギが、両手で耳を押さえ、うずくまった。
「うっ……! 声が、声が、すごい。苦しい、苦しいって。誰か、わかってくれって。ずっと、独りで叫んでる!」
その苦痛に満ちた声を、ナギは、誰よりも深く感じ取っていた。彼の頬を、涙が伝う。
同じ孤独を知る者として。
◇
「ナギさん。大丈夫ですか」
「平気だ。でも、セラさん」
ナギは、苦しげに、けれど、まっすぐわたくしを見た。
「あの神様、本当に限界なんだ。このままじゃ、もっと大きな災いを起こす。村だけじゃない。この海一帯が、死んでしまう」
その言葉に、決意を固めた。あの孤独な神を、救わなければならない。
けれど——どうやって。
海の神は、苦しみのあまり、近づく者を拒むように濁流を撒き散らしている。生半可な接近では、あのもがく龍のもとへは、たどり着けない。
◇
「アルヴィス様」
わたくしは、夫を見た。
「ああ。おれが、活路を開く」
アルヴィスは、すでに剣の柄に手をかけていた。
「あの濁流を、おれが引きつける。お前は、その隙に、神を鎮める料理を」
「お待ちください」
これまでの神救済とは、違う。力で押し通るだけでは、足りない。
あの神は、暴れているのではない。苦しんで、助けを求めているのだ。
ならば、必要なのは、剣でも防御でもない。
「ナギさん。あなたの力が、必要です」
彼を見た。
「あの神様に、わたくしたちの声を届けたい。“あなたは、独りじゃない”と。その橋渡しを、してくれますか」
「橋渡し……おれが?」
ナギは、戸惑った。
「で、でも。おれは、ただ声が聞こえるだけで。どうやって、こっちの気持ちを伝えりゃいい」
「あなたなら、できます」
確信を込めて、言った。
「あなたは、海の声の苦しみを、誰よりもわかってあげられた。それは、心が通じているということ。聞くだけでなく、きっと、届けることもできるはずです」
ナギは、しばし、海の神を見つめた。のたうつ、濁った龍。
その慟哭を、かつての自分と、重ねるように。
「……そうだな。おれだって、ずっと、誰かにわかってほしかった」
彼は、ぐっと拳を握った。
「あの神様の気持ちが、痛いほどわかる。だったら、おれが伝えなきゃ。独りじゃないって」
ナギの目に、強い光が宿った。海の神の慟哭に、今、応える者が現れたのだ。
同じ孤独を知る者だけができる、救いの形で。
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