第106話 うねりに抗う
「村のみんなを、高台へ!」
わたくしは、即座に叫んだ。けれど、ナギは絶望したように、首を振った。
「もう、間に合わない。あのうねりの速さじゃ、——逃げ切れない!」
水平線の盛り上がりが、みるみる近づいてくる。村の人々が異変に気づき、悲鳴を上げはじめた。 このままでは、漁村が丸ごと呑み込まれてしまう。
(……考えなさい。何か、手は)
必死に、頭を巡らせた。
——気づいた。 ナギの力に。
「ナギさん。——あなたは、海の声が聞こえるのですよね」彼の肩を掴んだ。
「なら、わかるはず。あのうねりが、どこをどう進んでくるのか」
◇
「わ、わかる。けど……それが、何になる!」
「教えてください。——いちばん波の力が弱まる場所は、どこですか」まっすぐに、彼を見た。
「波は、海の底の地形で進み方が変わります。浅瀬や岩礁があれば、勢いは削がれる。——あなたの耳なら。その逃げ道が、聞こえるはずです」
ナギが、はっと目を見開いた。そして、ぎゅっと目を閉じ、海の声に耳を澄ます。
「……東の、岬の陰。あそこは、海の底に、大きな岩棚がある。——うねりが、あそこで二つに裂ける。村のちょうど横を、すり抜けていく!」
「それです!」村人たちに、向き直った。
「東の岬の陰へ! 急いで!」
◇
アルヴィスが、すかさず動いた。
「おれが誘導する!」彼は、よく通る声で村人たちをまとめあげた。
歴戦の指揮官の、的確な采配。混乱しかけた人々が、彼の声で整然と動きはじめる。
「老人と子どもを、先に! 荷は捨てろ、命がいちばんだ!」アルヴィスの判断は、速かった。
彼は、地形をひと目で読む。
「あの岩場は、崩れやすい。回り込め! ——東側の、なだらかな斜面から登るんだ!」
戦場で、幾度も人の命を預かってきた男。その経験が、こんな時にものを言う。 誰を、どの順で、どの道で逃がすか。一瞬の迷いも、なかった。
ティナも、水鏡で避難路の安全を確かめる。ダグは、地の声で、地面の緩んだ箇所を避け、最短の道を示す。
そして、ナギ。
彼の海の声の導きが、何より確かな命綱だった。
「こっちだ! 早く!」
ナギが、自ら先頭に立った。さっきまでの諦めの色は、もうない。
彼は、必死に村人たちを岬の陰へと、導いていく。
◇
巨大なうねりが、村に迫る。
「間に合うか……!」
アルヴィスが、最後の一人を抱え上げ、斜面を駆け上がる。背後に、黒い壁のような海が迫っていた。
そして——うねりが、村に到達した。
轟音とともに、海がせり上がる。けれど、ナギの言った通りだった。
うねりは、海底の岩棚にぶつかり、真っ二つに裂けて、村のすぐ脇をすり抜けていったのだ。
家々はいくらかは傷ついたが、 しかし誰一人、波に呑まれることはなかった。全員が無事だった。
「……助かった。——助かったぞ!」
漁村に、安堵の声が満ちる。人々が抱き合い、涙を流して喜ぶ。
そして——その視線が、自然と、一人の青年に集まった。
ナギ。
——“災いを呼ぶ”と爪弾きにされてきた、その青年に。
◇
「ナギが……ナギの、おかげだ」
誰かが、ぽつりと呟いた。その言葉が、波紋のように広がっていく。 これまで彼を恐れ、遠ざけてきた村人たち。その顔に、今、浮かんでいるのは、畏れではなく——感謝だった。
ナギは、呆然と立ち尽くしていた。信じられない、という顔で。
「……おれ。——みんなを、助けられたのか」
「ええ」彼の隣に立ち、微笑んだ。
「あなたの力は、災いなんかじゃない。人を救う力です。今、あなた自身が、それを証明してみせた」
ナギの目に、じわりと涙が滲んだ。
「ずっと……ずっと、思ってた」彼は、震える声で呟いた。
「この、海の声が聞こえる耳は。みんなに嫌われる、呪いなんだって。——嵐を、魚の不漁を、おれが呼んでるんだって。だから、村の隅で、息をひそめて生きてきた」
その長い孤独を思うと、胸が締めつけられた。ティナも、ダグも、かつて、同じ苦しみを味わってきた。 声を聞く力ゆえに、疎まれ、独りだった日々を。
「でも、違ったんだな」ナギは、村人たちの笑顔を見渡した。「おれの耳は。——みんなを、守るために、あったんだ」
長い、長い孤独の果てに。彼は初めて、自分の力で、誰かの笑顔を守れたのだ。
◇
うねりは、去った。
けれど、わたくしは知っていた。これは、ほんの始まりにすぎない。 海の神の苦しみは、まだ何も、解決していない。今日のうねりは、その、ほんのひと声にすぎないのだ。
それでも——今日、確かに一つの奇跡が生まれた。孤独だった青年が、仲間と村人に囲まれている。 その光景こそが、これから始まる戦いの希望だった。
「さあ」わたくしは、ナギに向き直った。
「約束、しましたね。一緒に、食事をしましょう。あなたを助けてくれた、その力に。おいしいご褒美を、あげなくては」
ナギのお腹が、また、くう、と鳴った。今度は、彼も、照れたように笑った。
——その初めての笑顔が、何より嬉しかった。
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