第105話 潮騒の声を聞く者
数日の船旅の果てに、わたくしたちは、いくつもの島が連なる群島へ、たどり着いた。
エメラルド色の浅瀬。白い砂浜。
椰子に似た、背の高い木々。
——ヴァルドの雪景色とは、何もかもが違う南国の楽園だった。
「すごい……! 海が、こんなにきれい」
ティナが、声を弾ませた。ダグも、珍しく口をぽかんと開けて、見入っている。
◇
島の漁村に、足を踏み入れる。
日に焼けた漁師たち。網を繕う女たち。 素朴で活気のある暮らしが、そこにあった。けれど、その表情には、どこか影が差している。
「よそ者か」
一人の老漁師が、警戒の目を向けてきた。
「悪いが、今、この村は、それどころじゃない。海が荒れて、魚が獲れんのだ」
「海が、荒れている……?」
「ああ。ここ最近、急にな。穏やかだった潮が、急に牙を剥く。船も出せん。このままじゃ、村は干上がっちまう」
その言葉に、ぴんと来た。
——また、世界の綻び。 海にも、その手が伸びている。
ヴァルドでは味が、サウディスでは大地の実りが、ミルディアでは水が。
そして、この群島では、海そのものが。 土地ごとに姿を変えて、世界の理が歪みはじめている。きっと、この海にも、忘れられた神がいる。 そして、その神もまた、何かに苦しんでいるのだ。
◇
ティナが、そっと水鏡を覗いた。
「セラ様。——この島に、いる。白い光。すぐ、近く」
少女が指さしたのは、村の外れ、岬の突端だった。一人の若者が、ぽつんと海を見つめて座っている。
近づくと、漁師の青年だった。歳は、二十歳ほど。 陽に焼けた肌。けれど、その背は丸まり、ひどく孤独な影をまとっている。
彼は、海に向かって、じっと耳を澄ましていた。波の一つひとつが語りかけてくるのを、聞いているかのように。
「……あんたら、誰だ」
青年が、振り返った。
「言っとくが、おれに構うな。——おれといると、ろくなことがない」
◇
「あなたは——海の声が、聞こえるのですね」
静かに問うと、青年は、びくりと肩を震わせた。
「……なんで、それを」
「わたくしも、似た力を持っています。食材の声を聞く力を。——そして、この子は水鏡の力を。この子は、大地の声を」
ティナと、ダグを示す。青年の目が、揺れる。
「おれと、同じ……?」
「ええ。あなたは、独りではありません」
「海の声を聞くあなたはきっと、ずっと苦しんできたのでしょう。誰にも信じてもらえず」
青年の顔が、歪んだ。図星だったのだ。
◇
「……おれは、ナギ」
ぽつりと、名乗った。
「ガキの頃から、海の声が聞こえた。魚の群れの場所も、嵐が来るのも。——全部、分かった」
けれど、と彼は続けた。
「最初は、村の役に立った。でも嵐を予言するたび、不漁を当てるたび。——みんな、おれを怖がるようになった。“こいつが、災いを呼んでる”って」
ナギの声が震えた。
「とうとう、誰も、おれに近づかなくなった。海の声が聞こえなけりゃ、よかった。こんな力、いらなかった」
ナギは、膝を抱えた。
「今だって、聞こえてる。海が、苦しんでるって。“助けて”って、叫んでる。でも、おれにはどうにもできねえ。——ただ聞こえるだけ。何も救えねえ。それが、いちばんつらいんだ」
その言葉に、はっとした。海の異変。
ナギには、その悲鳴が、ずっと聞こえていたのだ。誰よりも早く、誰よりも深く海の苦しみを感じ取りながら、何もできない自分を責め続けてきた。
その孤独。
ティナや、ダグと同じ。 けれど、もっと深いのかもしれない。世界の声を聞く者は、どこでも、こうして誤解され、爪弾きにされてきた。
◇
「ナギさん。その力は、呪いなんかじゃ、ありません」
まっすぐに、彼を見つめた。
「あなたの聞く海の声。それは、世界が、あなたに託した大切な贈り物です。わたくしが、証明します」
「証明……? どうやって」
「あなたの、いちばん好きだったものを。もう一度、思い出させてあげます」微笑んだ。「お腹は、空いていませんか。まずは、一緒に食事を、しましょう」
ナギが、戸惑ったように、わたくしを見た。
その時、彼の腹が、くう、と小さく鳴った。
——張りつめていた警戒が、ほんの少し緩む。
◇
けれど、その時だった。
ナギの顔が、さっと青ざめた。彼は、勢いよく海のほうを、振り返る。
「……まずい。——来る」
「来る? 何が」
「大きいのが。——海の声が、急にざわついた。今まででいちばん強い」ナギの声が震えた。
「沖から……とんでもないうねりが。村を、呑み込むつもりだ!」
その言葉と同時、遠く水平線が、不穏に盛り上がりはじめた。——尋常でない大波。 海の神の苦しみが、今、形を持って、村を襲おうとしている。
潮騒の聞こえる、岬の上。新たな同志との出会いは。
——穏やかな食卓ではなく、いきなりの試練から、始まろうとしていた。
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