第104話 海を越えて
ティナの水鏡が捉えた、海の向こうの白い光。
その新たな同志のもとへ向かうため、わたくしたちは港町へと、やってきた。
潮の香りが、鼻をくすぐる。
ヴァルドの澄んだ山の空気とも、アスタリカの乾いた熱風とも違う。
湿って、どこか懐かしい海の匂い。
前世で、嗅いだことのある匂いだった。
「広いなあ……」
ダグが、水平線を見つめて呟いた。
鉱山育ちの彼にとって、果てしない海は、生まれて初めて見る絶景なのだろう。
「わたしも、海を見るの、初めて」ティナも、目を輝かせている。
◇
港には、さまざまな船が停泊していた。
その一隻に、乗り込む手はずを整えていた。
海の向こう——地図によれば、いくつもの島が連なる、遠い群島へ。
新たな同志は、そのどこかにいる。
「船旅は、長くなる」アルヴィスが言った。
「数日は揺られることになるだろう。——大丈夫か」
「ええ。——むしろ、楽しみです」
「海の幸を、この目で見られる。きっと、ヴァルドでは手に入らない、素晴らしい食材が待っています」
その言葉に、アルヴィスが、ふっと笑った。
「お前は、どんなときも、食のことだな」
けれど、その目は、呆れているのではなかった。
むしろ、どこまでも優しく、わたくしを見つめている。
「——そういうお前だから、おれは、目が離せない」
ふいに放たれた、その言葉に。
頬が、熱くなるのを感じた。
「……アルヴィス様。急に、何を」
「事実を、言ったまでだ」
彼は、こともなげに、けれど、確かな熱を込めて続けた。
「世界の謎だの、神だの。——大きな話の渦中でも、お前は、ただ、おいしいものに目を輝かせる。その姿が、おれには、何より愛おしい」
「……料理人ですから」
照れ隠しに、そう返すのが、精一杯だった。
けれど、アルヴィスは、満足げに口元を緩めている。
——この人には、敵わない。
◇
船に乗り込み、ほどなく、船は港を離れ、大海原へと漕ぎ出した。
甲板から見る海の景色は、圧巻だった。
どこまでも続く、青。
きらめく、波頭。
風をはらんだ、白い帆。
——胸が、すっと晴れていくようだった。
潮風が、思いのほか冷たい。
わたくしが、わずかに身をすくめると、すかさず、アルヴィスが、自分の上着をわたくしの肩にかけてくれた。
「冷えるだろう。——海の風は、侮れん」
「ありがとう、ございます」彼の上着の温もりに、ふわりと包まれる。
さりげない、その気遣いが、じんわりと胸に染みた。
潮風が、わたくしの髪を乱す。
と——アルヴィスの指が、そっと伸びてきた。
風で頬にかかった後れ毛を、彼は、優しくすくい上げ、耳にかけてくれる。
その指先が、頬に触れた。
「……アルヴィス様」思わず見上げると、すぐ近くに、彼の顔があった。
広い海の上、二人きりのような近さで。
「すまん。——つい、手が動いた」
彼は、わずかに目をそらす。
けれど、その耳は、ほんのり赤い。
氷の死神と恐れられた男の、不器用な優しさ。
——それが、たまらなく愛おしかった。
けれど、この旅は、ただの船旅ではない。
胸元の五つの珠が、時折、かすかに疼く。
揺らぎはじめた“あのお方”の眠りに、呼応するように。
——世界の核心へ近づくほど、その鼓動は、強くなる気がした。
「……アルヴィス様」潮風に髪をなびかせながら、呟いた。
「わたくしは、ずっと考えていました。——なぜ、わたくしが、この世界に生まれ変わったのか」
◇
前世のわたくしは、料理に、人生を捧げた。
そして、過労で倒れた。
誰にも看取られず。
——孤独な最期だった。
けれど、目が覚めたら、この世界の令嬢、セレスティアとして、生きていた。
「偶然だと、思っていました。——でも、最近、そうではない気がするのです」続けた。
「神の声を聞く舌。前世の料理の知識。——その二つが揃ったわたくしが、よりによって、世界が滅びかけている、この時代に生まれ変わった。——偶然にしては、できすぎています」
アルヴィスが、静かに、わたくしの隣に立った。
「お前は、選ばれたのかもしれん」
彼は言った。
「世界を、救うために。——何者かの意志によって」
「何者か……」
その言葉が、胸に引っかかった。
わたくしを、この世界に呼んだ者。
それは、いったい——。
◇
「……ひとつ、気になっていることがあります」わたくしは続けた。
「ヴァルドの古い記録。初代辺境伯の、覚え書き。——あそこには、こう記されていました。“神の声を聞く舌は、いつか必ず還ってくる”と」
アルヴィスが、目を見開いた。
「還ってくる……? まるで、お前が来ることを、知っていたかのような」
「ええ」と頷く。
「初代辺境伯は、何かを知っていた。原初の神のことも、神の声を聞く者のことも。——そして、いつか、わたくしのような者が現れることも。だからこそ、ヴァルドに、あの記録を遺した」
なぜ、初代辺境伯は、それを知り得たのか。
原初の神と、どんな関わりがあったのか。
——その謎を解くことが、きっと、“あのお方”の絶望を解く鍵になる。
そんな確信めいた予感があった。
「焦らず、一つずつだ」
アルヴィスが、わたくしの肩に、そっと手を置いた。
「まずは、海の向こうの同志に会う。——謎は、その先に、必ず繋がっている」
その手の温もりが、逸る心を、静かになだめてくれた。
◇
その夜。
船の食堂で、腕をふるった。
船乗りたちが分けてくれた、新鮮な海の幸。
見たこともない、色とりどりの魚。
ぷりぷりとした貝。
——《美食家の舌》が、その一つひとつの最高の味を、教えてくれる。
白身魚は、さっと塩を振り、潮の旨味を閉じ込める。
皮目を香ばしく炙れば、ふわりと磯の香りが立つ。
貝は、酒蒸しにして、旨味をぎゅっと凝縮する。
そこへ、ヴァルドから持参した味噌を、ほんの少し。
海の出汁に、コクと深みが加わった。
——船の揺れる食堂に、湯気と、豊かな香りが満ちていく。
「うまい……! こんな魚、食ったことねえ!」
船乗りたちが、歓声を上げた。
荒くれ者の彼らが、子どものように目を細めて頬張る。
その光景に、ティナとダグも、嬉しそうに笑う。
料理は、この海の上でも、人と人を繋いでいく。
「——よし。これで、船の上でも、わたくしたちは、独りじゃありません」
新たな同志のいる、群島へ。
そして、初代辺境伯と、原初の神の、謎の核心へ。
船は、星明かりの海を、静かに進んでいった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




