第103話 次なる扉
前宰相を捕らえてから、ひと月が過ぎた。
ヴァルドには、穏やかな日々が戻っていた。
畑は豊かに実り、井戸は清らかな水を湛え、村人たちの顔には笑顔が絶えない。
かつて痩せて凍えていた、この辺境は今や、人々の笑い声が響く豊かな土地に、なっていた。
その変わりようを眺めるたび、胸が温かくなる。
痩せて凍えていた、あの頃が、まるで、嘘のようだ。
◇
ある朝のこと。
ティナが、水鏡を覗きながら声を上げた。
「セラ様! また見つけた! 遠くの地図に。——新しい、白い光が」
その言葉に、わたくしは駆け寄った。
水鏡には、ぼんやりと世界の地図が、映っている。
そして、その、どこか遠くで、ぽつりと白い光が瞬いていた。
「神の声を聞く、新しい仲間……ですね」
「うん。今度は、すごく遠い。海の向こうかも」ティナが、目を凝らした。
「でも、確かに、いる。——わたしたちみたいに、声を聞ける、誰かが」
新たな同志。
まだ見ぬ仲間。
世界には、まだ孤独に声を聞いている者がいる。
——その人を迎えに行く。
それも、わたくしたちの大切な使命だった。
◇
「行きたいです」ティナが、まっすぐに言った。
「その子も、きっと独りで苦しんでる。——わたしが、そうだったみたいに。だから、迎えに行ってあげたい」
「俺も、だ」ダグが頷いた。
「声を聞く力で、苦しんでる奴を放っておけねえ。——一緒に行こうぜ」
二人の成長した姿に、深く頷いた。
かつて、救われる側だった子どもたちが。
今は、誰かを救う側に立とうとしている。
優しさの輪が、確かに広がっていく。
「ええ。——行きましょう。世界中の、声を聞く者たちを、一人ずつ、迎えに」
◇
けれど、それは、ただの仲間集めの旅ではない。
前宰相の儀式によって揺らいだ、“あのお方”の眠り。
それは今も、少しずつ浅くなっている。
ティナの水鏡が時折捉える、世界の奥底の胎動。
——原初の神は、ゆっくりと目覚めへと、向かっている。
「急がねば、なりません」皆に、告げた。
「“あのお方”が、完全に目覚める前に。その絶望の理由を知り、癒す術を見つけ出す。——そのために、仲間の力が、神々の力が、必要なんです」
味、潤い、水、火、風。
五つの珠。
そして、集いはじめた、声を聞く仲間たち。
——それらは、すべて、来たるべきその日のための布石だった。
◇
ふと、わたくしは、これまでの道のりを、思い返した。
凍てつく辺境に嫁いだ日。
痩せた大地と、空っぽの食料庫。
笑わない、冷たい辺境伯。
——あの頃は、すべてが絶望的に見えた。
けれど、あたたかな料理が、何もかもを変えていった。
飢えた土地を実らせ、渇いた砂の国に、潤いを取り戻した。
淀んだ湖の底で、諦めかけた神を救った。
敵国の火の山を鎮め、断崖の国で、忘れられた風の神に、声を届けた。
——そして、孤独に苦しむティナとダグを、仲間に迎えた。
一つ一つは、小さなひと皿。
けれど、その積み重ねが、今、世界を救う大きな力に、なろうとしている。
料理が、人を繋ぎ、神を救い、国を越えた。
——その手応えが、わたくしの胸に、確かにあった。
◇
その夜。
わたくしは、アルヴィスと二人、館のテラスに立っていた。
「長い旅に、なりそうだな」アルヴィスが、夜空を見上げて言った。
「ええ」わたくしは頷いた。
「“あのお方”のもとへ、たどり着くまで。きっと、まだ、たくさんの出会いと別れが、あるでしょう。——でも」
わたくしは、彼の手を握った。
「あなたが、隣にいてくれる。仲間が、ともに歩んでくれる。——それさえあれば、どんな遠い道も、怖くはありません」
アルヴィスが、わたくしの手を握り返す。
その温もりが、何より確かな力をくれた。
「ああ。——どこまでも共にだ」彼は、静かに微笑んだ。
「お前と出会えて。おれの凍った世界は、こんなにもあたたかくなった。——今度は、おれたちが、世界に、そのあたたかさを返す番だ」
◇
見上げれば、満天の星。
その一つ一つが、まるで、まだ見ぬ仲間たちの瞬きのように。
あるいは、救いを待つ神々の灯のように。
——夜空に、輝いている。
味にうるさいだけと笑われた令嬢は、今、世界を救う料理人になろうとしている。
前世の知識と、ハズレと笑われた舌を武器に。
たった、ひと皿から始まった物語は。
——いつしか、世界の運命を左右する大きなうねりへと、育っていた。
まだ見ぬ仲間のもとへ。
眠れる“あのお方”のもとへ。
そして、すべての謎が眠る、世界の核心へ。
なぜ、わたくしは、この世界に転生したのか。
初代辺境伯と原初の神の間に、何があったのか。
そして、神の声を聞く力を持ちながら滅びを選んだ者の、その絶望とは。
——すべての答えは、まだ闇の中にある。
けれど、わたくしは、もう立ち止まらない。
一つずつ謎を解き、一人ずつ仲間を集め、いつか必ず、その核心へたどり着いてみせる。
——声を聞く者たちの本当の物語は、ここから始まる。
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