第101話 対峙、そして
前宰相の行方は、ティナの水鏡をもってしても、掴めなかった。
あの黒いもやが、前宰相の周りだけ、覆い隠してしまう。
水鏡という切り札を、的確に封じてくる。
——侮れない相手だ。
けれど、手がかりは、意外なところから、もたらされた。
捕らえたヴェルナーが、観念したように口を割ったのだ。
「……もう、いい。あの方は、我らを捨て駒にして逃げた。義理立てする理由も、ない」彼は、吐き捨てた。
「前宰相は、王都の北。古い廃教会に潜んでいる。——“あのお方”と繋がるための、儀式の準備をしているはずだ」
儀式。
——その言葉に、緊張が走った。
急がねば、ならない。
◇
廃教会へ。
わたくしたちは、馬を走らせた。
朽ちかけた、石造りの教会。
その地下へと続く階段を、下りていく。
けれど、最奥に近づくにつれ、ティナの水鏡が、再び効かなくなった。
「セラ様、また、もやが……。この奥、まったく見えない」
前宰相の、隠蔽の術。
それが、この廃教会全体を、覆っているのだ。
視界を奪われ、わたくしたちは、一瞬、足を止めた。
——ふと、わたくしは閃いた。
「ティナ。——もやを、直接見ようとしなくていいんです」
「そのもやは、周りの気を、不自然に淀ませているはず。——見えない場所の輪郭を。もやが作る、歪みのほうを、探して」
「……あっ。できる! 水鏡が揺れてる場所がある。そこだけ、空気が淀んでる!」
「ダグさん。——ティナが示す、その淀みの真下。地面の、振動を、追えますか」
「任せろ」ダグが、床に手を当てた。
「……いる。淀みの奥。微かだが、人の足音と、何かを唱える声の震えが——こっちだ!」
見えない敵を、ティナが歪みで捉え、ダグが振動で突き止める。
——二人の力を、わたくしが繋ぐ。
三人がかりで、ようやく、強固な隠蔽を剥ぎ取った。
慎重に、けれど迅速に、最奥へと進んだ。
そして、たどり着いた、地下の祭壇。
そこに——いた。
「……よく、ここまで来たな、セレスティア嬢」
痩せた、酷薄な男――前宰相だった。
祭壇の前で、黒い鏡の術具を手に、こちらを振り返った。
その顔には、追い詰められた者の焦りはなかった。
むしろ、不気味な余裕すら漂わせている。
◇
「もう、逃げ場はありません」
「観念して、捕らえられなさい。——そして、すべてを話していただきます。あなたの背後にいる者のことを」
「背後にいる者、か」前宰相は、嗤った。
「ふん。お前は、何も分かっていない。——わしが捕らえられようと、どうなろうと。“あのお方”の目覚めは、もう、止められん」
「どういう、意味です」
「この儀式。——わしは、すでに終わらせた」前宰相は、祭壇を示した。
「神の声を聞く者の力の欠片を集め、“あのお方”の眠りに揺さぶりをかける儀式を。——お前たちが、ここに来た時点で、もう手遅れなのだよ」
その言葉に、ぞくりとした。
祭壇には、淀んだ黒い光が渦巻いている。
——確かに、何か、よからぬ力が発動した痕跡だ。
◇
「ティナ!」
「うん……! 世界の、ずっと奥のほうで。——大きな何かが、身じろぎしてる」
ティナが、水鏡を覗き、震えた。
「眠っていた何かが、少しずつ、目を覚まそうと……!」
“あのお方”。
原初の神の眠り。
それが、この儀式によって、わずかに揺らいだのだ。
「なんてことを……!」
「くくく。——もう、遅い」前宰相は、勝ち誇った。
「世界は、滅びへと向かう。わしは、その礎となる栄誉を——」
「させません」
わたくしは、前宰相の言葉を遮った。
そして、まっすぐに彼を見据えた。
その目に、ひるむことなく。
◇
「あなたは、勘違いをしています」
静かに、けれど強く言った。
「“あのお方”が目覚めることが。——必ずしも、滅びだとは限りません」
前宰相の顔から、笑みが消えていく。
「原初の神は、世界に絶望して眠った。——ならば、その絶望を解けばいい」
胸の五つの珠に、手を当てた。
「わたくしは、忘れられた神々を救ってきました。飢えを、渇きを、孤独を。一柱、一柱、その心を癒してきた。——同じことを、“あのお方”にも、すればいい」
「ば、馬鹿な……! 原初の神を、癒すだと……?」
「ええ。——あなたが、目覚めを早めてくれたのなら。むしろ、好都合です」わたくしは微笑んだ。
「わたくしが、その絶望を解いてみせます。——料理で。人の想いで。世界が、まだ滅びるに値しないことを、証明してみせます」
前宰相が、初めてたじろいだ。
彼の描いていた筋書きには——“神を救う”などという選択肢は、なかったのだ。
◇
「衛兵! この者を、捕らえなさい!」
わたくしの合図で、踏み込んできた衛兵たちが、前宰相を取り押さえた。
前宰相は、もがきもしなかった。
衛兵に両腕を押さえられてなお、ただ、冷たい目で静かに嗤った。
「……無駄なことを」その声は、不気味なほど落ち着いていた。
「器は満ち、歯車は回りはじめた。——お前たちが、わしを殺そうが、捕らえようが。この世界の、終焉は、もう、変わらん」
かつて、王国を裏から操り、わたくしを人前で嗤い、追放へと追いやった、あの男。
その底冷えのする冷静さは、追い詰められてなお、健在だった。
——いや。
むしろ、その瞳の奥には、勝敗をとうに超越したような、虚ろな諦念すら、漂っていた。
「ひとつ、教えてください」縄を打たれた前宰相に、問うた。
「あなたを唆した者。“あのお方”の目覚めを望む、本当の黒幕。——それは、誰です」
前宰相は、しばし、わたくしを見据えた。
そして、ふっと息を吐いた。
「……知りたければ、自分でたどり着くがいい。だが、覚えておけ」
その目に、底知れぬ昏い光が、宿る。
「あの方は、人ではない。——“最初に世界の声を聞いた者”。お前たちと同じ、神の声を聞く力を持ちながら。世界を、救うのではなく、終わらせることを、選んだ者だ」
「なぜ……同じ力を持つ者が、滅びを望むのです」
「ふん。——お前に、想像できるか?」前宰相の声に、ふと、嘲りとは違う暗い感情がよぎった。
「あらゆる声を聞き続けるということが。世界中の苦しみも、嘆きも、裏切りも。——何千年も、ただ一人で聞き続けるということが。あの方は、誰よりも世界を愛していた。だからこそ——誰よりも深く、絶望したのだ」
その言葉に、息を呑んだ。
神の声を聞く者。
——わたくしや、ティナや、ダグと同じ系譜。
それが、滅びを、望んでいる。
◇
決着は、ついた。
長きにわたり、わたくしを苦しめてきた前宰相。
その身柄は、ようやく捕らえられた。
けれど、彼の残した言葉が、胸に重くのしかかる。
世界を、誰よりも愛したからこそ、誰よりも絶望した。
——もし、それが本当なら。
“あのお方”は、ただの邪悪な存在ではない。
むしろ、わたくしと同じものを見つめ、けれど、正反対の答えに、たどり着いてしまった者。
(……どれほどの孤独を抱えれば、人は、世界そのものを終わらせたいと、願うのでしょう)
胸が、痛んだ。
簡単に救えるなどとは、もう思えなかった。
けれど、だからこそ。
——その絶望の深さを知ったからこそ。
わたくしは、向き合わねばならない。
生半可な覚悟ではない。
そして、淀んだ祭壇の光は、いまも、不気味に渦巻いている。
前宰相の儀式は、確かに、“あのお方”の眠りを揺さぶってしまった。
決着はついた。
けれど、本当の戦いは。
——むしろ、ここから始まるのだと。
わたくしは、その光を見つめながら、静かに、けれど、これまでよりずっと重い覚悟を固めていた。
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