ユーゴの復讐
聖霊廟の司祭にして現王の摂政であるフェダニスは、アレンハーム城の暗い部屋で地図を見下ろしていた。
このアレンハームは王都とメガリディアどちらからも遠すぎない位置にあり、大きな街道も程近い。それにアレンハームは表向きメガリディア陣営と目されているので情報を得やすいのだ。
……今ごろローナ平原の会戦は決着がついていることだろう。いくらメガリディア太守が兵をかき集めようと、雑兵が聖鎧フィクシュテに勝てるわけがない。そろそろ勝利を知らせる伝令も到着する頃合いだろう。
フェダニスがそう考えた時、ちょうど部屋の扉がノックされる。
「入れ」
そう声をかけるが、返事がない。訝しく思って扉の方に視線を向けると、ギイと重い音を立てて扉が開く。その向こうには誰もいない。
よもや不審者か。扉の向こうに立っていたはずの衛兵は何をしている?
フェダニスはとっさに背後のチェストに手を伸ばす。しかし、振り向くとそこに置かれていたはずの短剣がない。
「探しているものはこれか?」
窓際から声がする。開いた窓、夜風で揺れるカーテン。その脇に、黒い鎧を纏った少年が立っていた。その手には先ほどフェダニスが手に取ろうとしていた銀色の短剣が握られている。
彼の顔をフェダニスが見間違えるわけがない。黒髪に黒い瞳、息を呑むほど強大な聖霊力の気配。聖霊廟が召喚した勇者候補のひとり、名前は確かユーゴと言ったはずだ。
「貴様、なぜここに……!」
彼は確か、あの忌々しいリュネット王女の手引きで城を抜け出して……しかしメガリディアに向かって以降行方がわからないと報告されていた。所詮こちらの世界のことを何も知らない子供と世間知らずの小娘だ。どこかでのたれ死んでいるか、仮に生きていてもできることなど何もあるまいと思っていた。だからあのような理由をつけてメガリディアに戦いを仕掛けたのだ。
ユーゴ少年はゆっくりと短剣を抜き、その鞘を絨毯に放り捨てる。銀色の刀身が夜の明かりを反射して鈍く光った。
……フェダニスはユーゴのことを、もう一人の勇者候補であったフミヤに追従するばかりで主体性のない少年と分析していた。
しかし今フェダニスの目の前にいる少年には、そんな大人しいだけの印象はまるでない。むしろその短剣で今すぐフェダニスの心臓を貫いてやりたいと言わんばかりの殺意を感じる。
ユーゴが一歩、無言で前に出る。
「っ、……衛兵!」
フェダニスは扉の前でこの部屋を守っていたはずの衛兵を呼ぶ。応答はない。銀色に光る短剣が、次第にフェダニスへ近づいてくる。……殺される。
「誰か! 誰かおらんのか!」
フェダニスは叫びながら、転がるようにユーゴから離れようとする。早く外に逃げたいのに、なぜかどんどん部屋の隅まで追い込まれてゆく。
「情けない奴だ」
ユーゴがそう呟いた時、フェダニスは床に這いつくばっていた。万事休すか。いや、自分はこんなところで終わるわけにはいかない。そうだ。時間さえ稼げれば、騒ぎを聞きつけた使用人が様子を見にくるはずだ。そうしたらそいつを使ってこの少年の注意を引き、この場を切り抜けることができるかもしれない!
フェダニスのその思いが天に届いたか、扉の外から小柄な人影がこちらを覗き込んでいるのが見えた。
夜の光を受けて淡く光る銀髪。白い肌。色の薄くたおやかな少女。
それはフェダニスが10年以上かけて育て上げてきた、計画の核。聖女ミラーナの姿だ。
「あ、ああ……!」
フェダニスはその瞬間、勝利を確信した。
ミラーナなら、この娘ならばフェダニスを守るために命をも懸けるだろう。ユーゴほどの聖霊力の持ち主とまともにやり合っては相打ち以下は免れないが、フェダニスが逃げるための時間稼ぎとしては充分だ。
「ミラーナ!よくぞ来てくれた!……さあ、こやつを始末せよ!」
フェダニスはいつもの調子でミラーナに命じた。しかし、違和感を覚える。いつもであれば「はい、フェダニス様」とすぐに返事がくるのに、今のミラーナは物憂げな顔のまま静かに部屋に入ってくる。
何をしている。そう怒鳴りつけようとしたフェダニスだったが、流石に気づいた。ミラーナはフェダニスとユーゴの間に立ち、フェダニスの方に向かって……つまりはユーゴに背を向けて立つ。
ユーゴはそんなミラーナの様子を、平然と眺めている。
これは何だ。フェダニスが何かに気づきそうになった時、床に這うフェダニスに、ミラーナが己の手の甲を差し出した。
そのほっそりとした指には、指輪が嵌っている。
褪せた金色、曇ったピンク色の宝石の、見るからに古く価値のない指輪だ。
「フェダニス様。この指輪のこと、覚えていらっしゃいますか」
ミラーナが、祈るような声でフェダニスに問いかける。
フェダニスはそんな指輪など全く見覚えがない。……ただ、しかし、ミラーナがその答えによって何かを試そうとしているのはわかった。
フェダニスはカッと頭に血が昇るのを感じた。
卑しいみなしごの娘が、この王族にも連なる高貴な血を持つ自分を試そうなどとは、なんたる不遜!
「そのような安い指輪、私が知るはずがなかろうが!」
フェダニスの激昂に、ミラーナはたじろがなかった。
ミラーナは「さようでございますね」と言って、指輪を嵌めた手を引っ込める。彼女はそのまま背を向けてフェダニスから遠ざかっていった。
「おい、どこへ行く……!」
ミラーナはフェダニスの問いかけに答えることはなかった。
「いいのか」
「ええ、構いません」
それどころか、ミラーナはユーゴと当然のように会話を交わしている。
ユーゴがミラーナと入れ違いに再びフェダニスの前に立つ。
白銀の刃がぎらりと光を放ち……フェダニスの命運はそこで尽きた。




