第9話 歩く時間
後ろから来た男の紙袋が、瀬戸亮介の肘に触れた。
「あ、すみません」
男は反射的に謝り、亮介の横をすり抜けていく。紙袋の口から細長いパンが二本のぞいていた。
亮介も頭を下げたが、相手はすでに数歩先を歩いている。
自分が急に足を止めたからだった。
水曜日の午前八時四十三分。
市役所の北側にある通りでは、駅から来た人々が職場や学校へ向かって歩いていた。昨夜から続いていた風がようやく収まり、薄い雲の切れ間から朝日が差している。日向はまだ暖かいが、建物の影にはひんやりとした空気がたまり、道路脇の喫茶店からはコーヒーを挽く香りが流れてきた。
亮介は鞄を持ち直し、腕時計を見た。
九時から現地で立ち会いがある。
場所はここから歩いて七、八分ほどの住宅街だった。
時間には余裕を持って市役所を出ている。
ところが、最初の交差点を渡ったところで、向こうから学生が三人歩いてきた。
亮介は道の端へ寄り、三人が通り過ぎるのを待った。
そのあと歩き出そうとしたとき、別の女性が近づいてきた。
女性も先に行かせた。
今度こそ歩こうとすると、駅のほうから男が一人やってくる。
さっきの紙袋を持った男だった。
亮介は反射的に足を止めたが、男のほうは速度を落とさなかった。
その結果、すぐ後ろまで来ていた男の袋が肘に触れた。
何をしているのだろう。
男が角を曲がって見えなくなると、亮介は歩道の端から一歩踏み出した。
向こうから人が来る。
足が止まりかけた。
相手は道路の反対側を歩いていた。
そもそも進路が重ならない。
亮介はそのまま歩き続けた。
数歩進んだところで、ようやく息を吐いた。
こんなことを繰り返していては、いつまでたっても現場に着かない。
分かっている。
けれど、こちらへ向かってくる人間が視界に入るたびに、足の裏が舗装へ貼りつくようだった。
*
九時の立ち会いは、雨水桝の補修工事に関するものだった。
道路の端に埋め込まれた桝の周囲で舗装が沈み、雨が降ると水がたまるという相談が寄せられていた。先週の確認で補修が必要と判断され、今日から作業に入ることになっている。
市の担当者が施工箇所を確認し、業者と作業範囲を最終的に合わせる。
難しい仕事ではない。
資料も揃えてある。
何度も経験してきた立ち会いだった。
亮介は横断歩道の手前で止まった。
信号は青だった。
向かい側から人が渡ってくる。
亮介が進めば、何人かとすれ違うことになる。
すれ違う人のうち、誰かが急に止まるかもしれない。
そう思った瞬間、足が動かなくなった。
青信号が点滅し始める。
向こうから来た最後の歩行者が渡り終え、亮介の横を通り過ぎた。
道路には誰もいなくなった。
渡ればよかった。
そう思って一歩踏み出そうとしたとき、信号が赤に変わった。
亮介は足を戻した。
車が走り出す。
横断歩道の白線を、次々とタイヤが横切っていった。
腕時計を見る。
八時五十二分。
現場までは、まだ四百メートルほどある。
早足で歩けば間に合う。
次の青信号で渡ればいい。
そう考えていると、背後から誰かが近づいてきた。
自転車を押した男性だった。
男性は亮介のすぐ横に並び、信号を見上げている。
自転車の前輪が、亮介の靴先から少し離れたところで止まった。
亮介はその位置を見た。
自転車に乗っている人には、例の現象が起きないらしい。
しかし、今の男性は自転車を押して歩いている。
それならどうなのだろう。
考え始めたところで信号が青になった。
男性が自転車を押して横断歩道へ進む。
亮介は、その後ろを歩き始めた。
自転車の後輪が白線を横切る。
亮介も渡る。
前から人が来た。
自転車の男性は自然に少し左へ寄った。
向こうから来た女性も右へ寄る。
誰も立ち止まらない。
亮介はその動きを見ながら歩いた。
何も起こらなかったことを確認するのに、こんなに注意を使っている。
横断歩道を渡り終えたときには、肩のあたりが妙に凝っていた。
*
携帯電話が鳴ったのは、九時三分だった。
亮介は道路脇へ寄り、鞄から電話を取り出した。
画面には、道路維持課の高野という名前が表示されている。
「瀬戸です」
『高野です。瀬戸さん、今どちらですか』
「ごめん、もうすぐ着く」
『現場の方が揃ってまして。作業範囲だけ先に確認しても大丈夫ですか』
亮介は道路の先を見た。
目的地の角までは、もう二百メートルもない。
「うん。図面に赤で囲ったところを確認してもらって。最終判断は着いてからする」
『分かりました。何かありました?』
「いや、道が少し混んでて」
言ったあとで、電話を持つ指に力が入った。
道は混んでいなかった。
人が多かっただけだ。
通れないほどではない。
『そうですか。気をつけて来てください』
「ああ。申し訳ない」
電話を切った。
亮介はしばらく画面を見つめていたが、ようやく鞄へ戻した。
高野に嘘をついた。
正確には、すべて嘘だったわけではない。
人が多くて歩きにくかった。
それは本当だ。
ただ、道路が混んでいたから遅れたのではない。
自分が何度も止まったから遅れたのだ。
区別しなければならないことだった。
亮介は歩き出した。
今度は前から人が来ても、なるべく歩幅を変えないようにした。
しかし角の手前で、高齢の男性が靴の踵を直そうと足を緩めた。
亮介はその動きを見てしまった。
男性の右足が少し上がる。
靴底が地面から離れ、踵を入れ直そうとする。
左足だけで身体を支えた男性が、道路脇の壁へ片手を伸ばした。
亮介は立ち止まった。
男性は靴を直し終えると、壁から手を離して歩き始める。
その横を、亮介は動けないまま見送った。
足元に視線を落とす。
自分の靴は、きちんと履けている。
どこも直す必要はなかった。
*
現場に着いたのは九時十四分だった。
道路脇には作業車が停まり、二人の作業員が保安用のカラーコーンを並べている。
高野は舗装の沈んだ場所の前で、施工業者の男性と図面を見比べていた。
「遅れてすみません」
亮介が声をかけると、二人が顔を上げた。
「あ、お疲れさまです」
高野が言った。
施工業者の男性も頭を下げた。
日焼けした顔に深い皺があり、胸元には会社名の刺繍が入っている。
「お待たせして申し訳ありません」
「いえ。作業範囲は高野さんと確認させてもらいました」
男性は落ち着いた声で答えた。
しかし、その隣に置かれた工具箱の上には、すでに開かれた作業予定表がある。
そこに書き込まれた時刻が、亮介の目に入った。
九時開始。
午前中に施工箇所の周囲を整え、昼前には仮復旧まで進める予定だった。
「この部分だけ確認していただけますか」
高野が図面を差し出した。
亮介はしゃがみ込み、沈んだ舗装の端へ指を伸ばした。
雨水桝の縁から十数センチのところで、表面に細いひびが入っている。
補修範囲を少し広げたほうがいい。
そう判断して高野へ伝えると、施工業者の男性が頷いた。
「じゃあ、この線までですね」
「はい。お願いします」
「分かりました。午前中の作業時間が少し短くなりますけど、できるところまで進めます」
責めるような口調ではなかった。
むしろ、現場に慣れた人間の事務的な返事だった。
亮介はその言葉を聞きながら、業者の腕時計に目をやった。
九時十九分。
自分が遅れた十四分に、確認の五分が加わっている。
あとで作業員が少し急げば済むのかもしれない。
しかし、作業を急がせること自体が、本来あってはならない。
「今日は無理に終わらせなくて結構です。安全を優先してください」
亮介が言うと、業者の男性は頷いた。
「承知しました」
高野が作業予定表へ何かを書き込んだ。
亮介は図面を畳み、鞄へしまった。
もう立ち会いは終わりだった。
次の現場へ移動すればいい。
いつもなら、そうしていた。
ところが高野が声をかけた。
「瀬戸さん」
「何?」
「さっき電話したとき、すぐそこだったんですよね」
「ああ」
「何か、途中でありました?」
亮介は高野を見た。
高野は二十代後半の若い職員で、今年の春から道路維持課に配属されたばかりだった。
普段は人の予定に口を出すようなことはない。
それなのに、今日は少し遠慮がちに尋ねている。
「いや。どうして?」
「さっき、この通りの先で見かけたんです。瀬戸さんが立ち止まってたので、電話中だったのかなと思って」
亮介は道路の向こうを見た。
靴の踵を直していた男性がいた場所だった。
「ちょっと、気になることがあって」
「そうでしたか」
高野はそれ以上尋ねなかった。
しかし図面を畳もうとしたとき、もう一度だけ亮介を見た。
「体調は大丈夫ですか」
「大丈夫だよ」
ほとんど考えずに答えていた。
「悪かったね。次は遅れないようにする」
「いえ、そういう意味じゃ」
高野は困ったように笑った。
「最近、何となく歩くのが遅い気がしたので」
亮介は手元の図面へ目を落とした。
紙の端が少し折れていた。
それを指で伸ばす。
完全には戻らなかった。
「気をつけるよ」
そう答えると、高野は軽く頭を下げて作業員のほうへ戻っていった。
*
昼過ぎ、亮介は道路維持課の机で午前中の報告書をまとめていた。
高野が撮影した施工前の写真を開き、補修範囲を記入する。
作業開始時刻の欄に、九時十九分と入力した。
その数字を見たまま、しばらく手が止まった。
九時の予定だった。
十四分遅れて着いた。
確認を終えたのが十九分。
どこにも間違いはない。
けれど、この報告書を読んだ人間には、どうして十九分になったのか分からない。
理由を書く必要があるだろうか。
交通事情による遅延。
そう入力しかけて、消した。
交通事情。
それは、何を意味する言葉なのだろう。
工事による渋滞か。
電車の遅延か。
歩行者が多かったことか。
誰も悪くないのに、自分だけが進めなかったことまで含むのだろうか。
「瀬戸さん」
横から声がした。
理沙だった。
亮介は画面から目を離した。
「浜野さん」
「午前の立ち会い、少し遅れたって聞きました」
「ああ。高野くんから?」
「はい。別件の書類を取りに行ったときに」
理沙は亮介の机へ視線を落とした。
開きかけた報告書が見えていた。
「何かありました?」
亮介は椅子の背にもたれた。
「人が来るたびに止まってたら、時間がかかった」
言葉にしてみると、ずいぶん馬鹿げた説明だった。
理沙は黙っていた。
「最初は早く出たんだよ」
「はい」
「余裕もあった。なのに、いつの間にか時間がなくなってて」
亮介は机の端に置いた腕時計へ目をやった。
午後一時十二分。
針は当たり前のように進んでいる。
「一度止まると、次の人が来るまで待とうとしてしまうんだ」
「それで?」
「また誰かが来る。そうすると、また止まる」
理沙は少し考えてから、隣の空いている椅子を引いた。
「瀬戸さん。昨日の帰りも、そうでした?」
「うん」
「電車は間に合いました?」
亮介は首を振った。
「一本逃した」
理沙は小さく頷いた。
「そうですか」
そのあと、しばらく黙っていた。
亮介は報告書の画面へ目を戻した。
「歩いてるだけなのにね」
独り言のように言った。
「人に道を譲られるだけなんだ。普通なら、何も困らないはずなのに」
理沙は椅子に座ったまま、亮介の言葉を聞いていた。
「俺が気にしなければ済む話なのかな」
「分かりません」
理沙はすぐに答えた。
「でも、瀬戸さんが足を止めることで困ってるのは、今は瀬戸さん自身ですよね」
亮介は画面から目を離した。
「そうだね」
「それと、今日待ってた人たちも」
理沙は穏やかな声で続けた。
責めているようには聞こえなかった。
ただ、事実を並べているだけだった。
亮介は頷いた。
高野。
施工業者の男性。
カラーコーンを並べていた作業員。
みんな、自分が来るのを待っていた。
誰も、彼の進路を塞いだわけではない。
道はずっと空いていた。
それなのに自分は、そこを通れなかった。
「明日の現地確認は、高野くんと一緒に行こうと思う」
亮介が言った。
「そうですか」
「一人で移動して遅れるより、そのほうがいい」
理沙は頷いた。
「いいと思います」
少し間を置いて、続けた。
「でも、瀬戸さん」
「うん」
「高野さんが一緒でも、歩くのは瀬戸さんですよ」
亮介は、何も言えなかった。
*
その日の帰りは、駅まで遠回りした。
大通りを避け、住宅街の裏手へ回る。
街灯の少ない道だったが、人通りはほとんどない。
自転車が一台通り過ぎただけで、歩行者とは誰ともすれ違わなかった。
亮介は歩いた。
いつもより少し速いくらいだった。
足が自然に前へ出る。
角を曲がる。
次の道へ進む。
誰も近づいてこない。
誰も立ち止まらない。
家々の窓からは夕食の支度をする音が漏れ、換気扇の下を通るたびに煮物や炒め物の匂いが変わった。秋の空はすでに暗くなり始め、電線の向こうには細い月が見えていた。
ようやく駅の明かりが見えたとき、亮介は腕時計を確かめた。
いつもの道より、七分長くかかっていた。
遠回りしたのだから当然だ。
それでも、何度も立ち止まるよりはましだった。
駅の入口へ近づく。
そこには帰宅する人々が集まっていた。
改札へ向かう人。
駅から出てくる人。
待ち合わせをしている人。
亮介は入口の手前で立ち止まった。
人の少ない道を歩いてきたのに、最後の数十メートルだけは避けられない。
誰かがこちらへ向かってくる。
亮介はその人が通り過ぎるのを待った。
また別の人が来た。
今度も待った。
遠回りして稼いだはずの時間が、そこで少しずつ失われていく。
駅の構内から、発車を知らせる音が聞こえた。
亮介は顔を上げた。
今日は、まだ間に合う。
階段を上がればいい。
改札を通ればいい。
それだけだ。
しかし、その前を歩いていた男性がポケットへ手を伸ばしたのを見て、亮介はまた足を止めてしまった。
男性は定期券を取り出し、何の迷いもなく改札へ進んでいった。
亮介は、その背中を見送った。
今、自分を止めたのは誰だったのだろう。
男が定期券を出したからか。
それとも、自分がそれを見てしまったからか。
もう区別がつかなくなっていた。




