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通らない道  作者: asnt2026


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9/30

第9話 歩く時間

後ろから来た男の紙袋が、瀬戸亮介の肘に触れた。

「あ、すみません」

 男は反射的に謝り、亮介の横をすり抜けていく。紙袋の口から細長いパンが二本のぞいていた。

 亮介も頭を下げたが、相手はすでに数歩先を歩いている。

 自分が急に足を止めたからだった。

 水曜日の午前八時四十三分。

 市役所の北側にある通りでは、駅から来た人々が職場や学校へ向かって歩いていた。昨夜から続いていた風がようやく収まり、薄い雲の切れ間から朝日が差している。日向はまだ暖かいが、建物の影にはひんやりとした空気がたまり、道路脇の喫茶店からはコーヒーを挽く香りが流れてきた。

 亮介は鞄を持ち直し、腕時計を見た。

 九時から現地で立ち会いがある。

 場所はここから歩いて七、八分ほどの住宅街だった。

 時間には余裕を持って市役所を出ている。

 ところが、最初の交差点を渡ったところで、向こうから学生が三人歩いてきた。

 亮介は道の端へ寄り、三人が通り過ぎるのを待った。

 そのあと歩き出そうとしたとき、別の女性が近づいてきた。

 女性も先に行かせた。

 今度こそ歩こうとすると、駅のほうから男が一人やってくる。

 さっきの紙袋を持った男だった。

 亮介は反射的に足を止めたが、男のほうは速度を落とさなかった。

 その結果、すぐ後ろまで来ていた男の袋が肘に触れた。

 何をしているのだろう。

 男が角を曲がって見えなくなると、亮介は歩道の端から一歩踏み出した。

 向こうから人が来る。

 足が止まりかけた。

 相手は道路の反対側を歩いていた。

 そもそも進路が重ならない。

 亮介はそのまま歩き続けた。

 数歩進んだところで、ようやく息を吐いた。

 こんなことを繰り返していては、いつまでたっても現場に着かない。

 分かっている。

 けれど、こちらへ向かってくる人間が視界に入るたびに、足の裏が舗装へ貼りつくようだった。

     *

 九時の立ち会いは、雨水桝の補修工事に関するものだった。

 道路の端に埋め込まれた桝の周囲で舗装が沈み、雨が降ると水がたまるという相談が寄せられていた。先週の確認で補修が必要と判断され、今日から作業に入ることになっている。

 市の担当者が施工箇所を確認し、業者と作業範囲を最終的に合わせる。

 難しい仕事ではない。

 資料も揃えてある。

 何度も経験してきた立ち会いだった。

 亮介は横断歩道の手前で止まった。

 信号は青だった。

 向かい側から人が渡ってくる。

 亮介が進めば、何人かとすれ違うことになる。

 すれ違う人のうち、誰かが急に止まるかもしれない。

 そう思った瞬間、足が動かなくなった。

 青信号が点滅し始める。

 向こうから来た最後の歩行者が渡り終え、亮介の横を通り過ぎた。

 道路には誰もいなくなった。

 渡ればよかった。

 そう思って一歩踏み出そうとしたとき、信号が赤に変わった。

 亮介は足を戻した。

 車が走り出す。

 横断歩道の白線を、次々とタイヤが横切っていった。

 腕時計を見る。

 八時五十二分。

 現場までは、まだ四百メートルほどある。

 早足で歩けば間に合う。

 次の青信号で渡ればいい。

 そう考えていると、背後から誰かが近づいてきた。

 自転車を押した男性だった。

 男性は亮介のすぐ横に並び、信号を見上げている。

 自転車の前輪が、亮介の靴先から少し離れたところで止まった。

 亮介はその位置を見た。

 自転車に乗っている人には、例の現象が起きないらしい。

 しかし、今の男性は自転車を押して歩いている。

 それならどうなのだろう。

 考え始めたところで信号が青になった。

 男性が自転車を押して横断歩道へ進む。

 亮介は、その後ろを歩き始めた。

 自転車の後輪が白線を横切る。

 亮介も渡る。

 前から人が来た。

 自転車の男性は自然に少し左へ寄った。

 向こうから来た女性も右へ寄る。

 誰も立ち止まらない。

 亮介はその動きを見ながら歩いた。

 何も起こらなかったことを確認するのに、こんなに注意を使っている。

 横断歩道を渡り終えたときには、肩のあたりが妙に凝っていた。

     *

 携帯電話が鳴ったのは、九時三分だった。

 亮介は道路脇へ寄り、鞄から電話を取り出した。

 画面には、道路維持課の高野という名前が表示されている。

「瀬戸です」

『高野です。瀬戸さん、今どちらですか』

「ごめん、もうすぐ着く」

『現場の方が揃ってまして。作業範囲だけ先に確認しても大丈夫ですか』

 亮介は道路の先を見た。

 目的地の角までは、もう二百メートルもない。

「うん。図面に赤で囲ったところを確認してもらって。最終判断は着いてからする」

『分かりました。何かありました?』

「いや、道が少し混んでて」

 言ったあとで、電話を持つ指に力が入った。

 道は混んでいなかった。

 人が多かっただけだ。

 通れないほどではない。

『そうですか。気をつけて来てください』

「ああ。申し訳ない」

 電話を切った。

 亮介はしばらく画面を見つめていたが、ようやく鞄へ戻した。

 高野に嘘をついた。

 正確には、すべて嘘だったわけではない。

 人が多くて歩きにくかった。

 それは本当だ。

 ただ、道路が混んでいたから遅れたのではない。

 自分が何度も止まったから遅れたのだ。

 区別しなければならないことだった。

 亮介は歩き出した。

 今度は前から人が来ても、なるべく歩幅を変えないようにした。

 しかし角の手前で、高齢の男性が靴の踵を直そうと足を緩めた。

 亮介はその動きを見てしまった。

 男性の右足が少し上がる。

 靴底が地面から離れ、踵を入れ直そうとする。

 左足だけで身体を支えた男性が、道路脇の壁へ片手を伸ばした。

 亮介は立ち止まった。

 男性は靴を直し終えると、壁から手を離して歩き始める。

 その横を、亮介は動けないまま見送った。

 足元に視線を落とす。

 自分の靴は、きちんと履けている。

 どこも直す必要はなかった。

     *

 現場に着いたのは九時十四分だった。

 道路脇には作業車が停まり、二人の作業員が保安用のカラーコーンを並べている。

 高野は舗装の沈んだ場所の前で、施工業者の男性と図面を見比べていた。

「遅れてすみません」

 亮介が声をかけると、二人が顔を上げた。

「あ、お疲れさまです」

 高野が言った。

 施工業者の男性も頭を下げた。

 日焼けした顔に深い皺があり、胸元には会社名の刺繍が入っている。

「お待たせして申し訳ありません」

「いえ。作業範囲は高野さんと確認させてもらいました」

 男性は落ち着いた声で答えた。

 しかし、その隣に置かれた工具箱の上には、すでに開かれた作業予定表がある。

 そこに書き込まれた時刻が、亮介の目に入った。

 九時開始。

 午前中に施工箇所の周囲を整え、昼前には仮復旧まで進める予定だった。

「この部分だけ確認していただけますか」

 高野が図面を差し出した。

 亮介はしゃがみ込み、沈んだ舗装の端へ指を伸ばした。

 雨水桝の縁から十数センチのところで、表面に細いひびが入っている。

 補修範囲を少し広げたほうがいい。

 そう判断して高野へ伝えると、施工業者の男性が頷いた。

「じゃあ、この線までですね」

「はい。お願いします」

「分かりました。午前中の作業時間が少し短くなりますけど、できるところまで進めます」

 責めるような口調ではなかった。

 むしろ、現場に慣れた人間の事務的な返事だった。

 亮介はその言葉を聞きながら、業者の腕時計に目をやった。

 九時十九分。

 自分が遅れた十四分に、確認の五分が加わっている。

 あとで作業員が少し急げば済むのかもしれない。

 しかし、作業を急がせること自体が、本来あってはならない。

「今日は無理に終わらせなくて結構です。安全を優先してください」

 亮介が言うと、業者の男性は頷いた。

「承知しました」

 高野が作業予定表へ何かを書き込んだ。

 亮介は図面を畳み、鞄へしまった。

 もう立ち会いは終わりだった。

 次の現場へ移動すればいい。

 いつもなら、そうしていた。

 ところが高野が声をかけた。

「瀬戸さん」

「何?」

「さっき電話したとき、すぐそこだったんですよね」

「ああ」

「何か、途中でありました?」

 亮介は高野を見た。

 高野は二十代後半の若い職員で、今年の春から道路維持課に配属されたばかりだった。

 普段は人の予定に口を出すようなことはない。

 それなのに、今日は少し遠慮がちに尋ねている。

「いや。どうして?」

「さっき、この通りの先で見かけたんです。瀬戸さんが立ち止まってたので、電話中だったのかなと思って」

 亮介は道路の向こうを見た。

 靴の踵を直していた男性がいた場所だった。

「ちょっと、気になることがあって」

「そうでしたか」

 高野はそれ以上尋ねなかった。

 しかし図面を畳もうとしたとき、もう一度だけ亮介を見た。

「体調は大丈夫ですか」

「大丈夫だよ」

 ほとんど考えずに答えていた。

「悪かったね。次は遅れないようにする」

「いえ、そういう意味じゃ」

 高野は困ったように笑った。

「最近、何となく歩くのが遅い気がしたので」

 亮介は手元の図面へ目を落とした。

 紙の端が少し折れていた。

 それを指で伸ばす。

 完全には戻らなかった。

「気をつけるよ」

 そう答えると、高野は軽く頭を下げて作業員のほうへ戻っていった。

     *

 昼過ぎ、亮介は道路維持課の机で午前中の報告書をまとめていた。

 高野が撮影した施工前の写真を開き、補修範囲を記入する。

 作業開始時刻の欄に、九時十九分と入力した。

 その数字を見たまま、しばらく手が止まった。

 九時の予定だった。

 十四分遅れて着いた。

 確認を終えたのが十九分。

 どこにも間違いはない。

 けれど、この報告書を読んだ人間には、どうして十九分になったのか分からない。

 理由を書く必要があるだろうか。

 交通事情による遅延。

 そう入力しかけて、消した。

 交通事情。

 それは、何を意味する言葉なのだろう。

 工事による渋滞か。

 電車の遅延か。

 歩行者が多かったことか。

 誰も悪くないのに、自分だけが進めなかったことまで含むのだろうか。

「瀬戸さん」

 横から声がした。

 理沙だった。

 亮介は画面から目を離した。

「浜野さん」

「午前の立ち会い、少し遅れたって聞きました」

「ああ。高野くんから?」

「はい。別件の書類を取りに行ったときに」

 理沙は亮介の机へ視線を落とした。

 開きかけた報告書が見えていた。

「何かありました?」

 亮介は椅子の背にもたれた。

「人が来るたびに止まってたら、時間がかかった」

 言葉にしてみると、ずいぶん馬鹿げた説明だった。

 理沙は黙っていた。

「最初は早く出たんだよ」

「はい」

「余裕もあった。なのに、いつの間にか時間がなくなってて」

 亮介は机の端に置いた腕時計へ目をやった。

 午後一時十二分。

 針は当たり前のように進んでいる。

「一度止まると、次の人が来るまで待とうとしてしまうんだ」

「それで?」

「また誰かが来る。そうすると、また止まる」

 理沙は少し考えてから、隣の空いている椅子を引いた。

「瀬戸さん。昨日の帰りも、そうでした?」

「うん」

「電車は間に合いました?」

 亮介は首を振った。

「一本逃した」

 理沙は小さく頷いた。

「そうですか」

 そのあと、しばらく黙っていた。

 亮介は報告書の画面へ目を戻した。

「歩いてるだけなのにね」

 独り言のように言った。

「人に道を譲られるだけなんだ。普通なら、何も困らないはずなのに」

 理沙は椅子に座ったまま、亮介の言葉を聞いていた。

「俺が気にしなければ済む話なのかな」

「分かりません」

 理沙はすぐに答えた。

「でも、瀬戸さんが足を止めることで困ってるのは、今は瀬戸さん自身ですよね」

 亮介は画面から目を離した。

「そうだね」

「それと、今日待ってた人たちも」

 理沙は穏やかな声で続けた。

 責めているようには聞こえなかった。

 ただ、事実を並べているだけだった。

 亮介は頷いた。

 高野。

 施工業者の男性。

 カラーコーンを並べていた作業員。

 みんな、自分が来るのを待っていた。

 誰も、彼の進路を塞いだわけではない。

 道はずっと空いていた。

 それなのに自分は、そこを通れなかった。

「明日の現地確認は、高野くんと一緒に行こうと思う」

 亮介が言った。

「そうですか」

「一人で移動して遅れるより、そのほうがいい」

 理沙は頷いた。

「いいと思います」

 少し間を置いて、続けた。

「でも、瀬戸さん」

「うん」

「高野さんが一緒でも、歩くのは瀬戸さんですよ」

 亮介は、何も言えなかった。

     *

 その日の帰りは、駅まで遠回りした。

 大通りを避け、住宅街の裏手へ回る。

 街灯の少ない道だったが、人通りはほとんどない。

 自転車が一台通り過ぎただけで、歩行者とは誰ともすれ違わなかった。

 亮介は歩いた。

 いつもより少し速いくらいだった。

 足が自然に前へ出る。

 角を曲がる。

 次の道へ進む。

 誰も近づいてこない。

 誰も立ち止まらない。

 家々の窓からは夕食の支度をする音が漏れ、換気扇の下を通るたびに煮物や炒め物の匂いが変わった。秋の空はすでに暗くなり始め、電線の向こうには細い月が見えていた。

 ようやく駅の明かりが見えたとき、亮介は腕時計を確かめた。

 いつもの道より、七分長くかかっていた。

 遠回りしたのだから当然だ。

 それでも、何度も立ち止まるよりはましだった。

 駅の入口へ近づく。

 そこには帰宅する人々が集まっていた。

 改札へ向かう人。

 駅から出てくる人。

 待ち合わせをしている人。

 亮介は入口の手前で立ち止まった。

 人の少ない道を歩いてきたのに、最後の数十メートルだけは避けられない。

 誰かがこちらへ向かってくる。

 亮介はその人が通り過ぎるのを待った。

 また別の人が来た。

 今度も待った。

 遠回りして稼いだはずの時間が、そこで少しずつ失われていく。

 駅の構内から、発車を知らせる音が聞こえた。

 亮介は顔を上げた。

 今日は、まだ間に合う。

 階段を上がればいい。

 改札を通ればいい。

 それだけだ。

 しかし、その前を歩いていた男性がポケットへ手を伸ばしたのを見て、亮介はまた足を止めてしまった。

 男性は定期券を取り出し、何の迷いもなく改札へ進んでいった。

 亮介は、その背中を見送った。

 今、自分を止めたのは誰だったのだろう。

 男が定期券を出したからか。

 それとも、自分がそれを見てしまったからか。

 もう区別がつかなくなっていた。

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