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通らない道  作者: asnt2026


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第10話 急いでいるのに

母親は、子どもへ何度も同じことを言っていた。

「ほら、早く。もう時間ないよ」

 男の子は母親に手を引かれ、小さな歩幅で懸命についていく。

 黄色い帽子をかぶり、紺色の上着の下には白いシャツが見えていた。片方の靴下が少しずり落ちているが、本人は気にしていないらしい。

 母親は左肩に大きな布製の鞄を掛け、右手で子どもの手を握っている。

 鞄の口からは薄い水色のタオルがのぞいていた。

「だって、ぼく走ってるよ」

「走らなくていいから、ちゃんと前見て」

「じゃあ早くって言わないでよ」

「そうだね、ごめん。普通に歩こう」

 男の子は納得したのか、少し歩幅を広げた。

 母親も速度を合わせる。

 二人は、瀬戸亮介のほうへ向かって歩いてきた。

     *

 木曜日の午後四時二十分。

 亮介は市役所から頼まれた書類を届けた帰りだった。

 今日の午前中は、高野と一緒に二か所の現場を回った。

 歩いて移動する区間もあったが、隣に高野がいたせいか、前日ほど何度も立ち止まらずに済んだ。

 途中で向こうから来た人が歩調を緩めても、高野は気にする様子もなく歩いている。

 その横で亮介だけが立ち止まると、かえって二人の足並みが乱れた。

「瀬戸さん、何か落としました?」

 一度だけ、高野にそう尋ねられた。

「いや、大丈夫」

 亮介が答えると、高野は何事もなかったように歩き出した。

 そのあと亮介は、なるべく高野の歩幅に合わせるようにしていた。

 午後になって一人で外出すると、その感覚はすぐに失われた。

 人が来れば、足が止まりそうになる。

 相手が立ち止まれば、理由を探してしまう。

 今朝はあんなに自然に歩けたのに。

 そう考えてから、自然に歩けたというのも、自分だけの判断なのだと思い直した。

 亮介は住宅街の細い通りを歩いていた。

 片側には背の低いブロック塀が続き、反対側には昔からあるらしい木造の家が並んでいる。塀の上からは金木犀の枝が伸び、甘い匂いが風に混じっていた。陽はすでに屋根の近くまで傾き、道路の半分だけが明るく照らされている。日陰に入ると上着の袖から冷気が忍び込み、遠くの学校からは運動部の掛け声がかすかに聞こえてきた。

 道幅は四メートルほど。

 すぐ先に、古い家の塀が少し道路へ張り出した場所がある。

 そこだけ、歩行者同士がすれ違うには少し窮屈だった。

 向こうから来る母親と男の子は、ちょうどその場所へ差しかかろうとしていた。

 亮介は歩調を落としかけた。

 しかし、そのまま歩けば問題なくすれ違える距離でもあった。

 自分が端へ寄ればいい。

 そう思い、塀の側へ少し身体を移した。

 母親もこちらを見た。

 ほんの一瞬、目が合った。

 亮介は会釈しかけたが、その前に母親の左肩が小さく動いた。

 鞄の持ち手が、肩先から滑り始めていた。

 布地が上着の表面を擦り、肩の丸みに沿ってゆっくり下がっていく。

 母親は子どもの手を握ったまま、左肘を身体へ寄せた。

 鞄を支えようとしたのだろう。

 しかし持ち手はもう肘の近くまで落ちていた。

「あ」

 母親が声を漏らす。

 左手が鞄の持ち手を掴んだ。

 その瞬間、足が止まった。

 男の子だけが、もう一歩進もうとしていた。

 小さなスニーカーがアスファルトを踏む。

 母親とつないだ右手が後ろへ引かれ、男の子の肩が少し上がった。

 身体が斜めになる。

 男の子は足を踏ん張り、母親を振り返った。

「お母さん」

「ちょっと待って」

 母親は鞄を肩へ掛け直している。

 持ち手の位置を確かめ、もう一度、奥まで引き上げた。

 そのあいだ男の子は、手をつながれたまま立っていた。

 亮介は二人の前で足を止めた。

 母親が鞄を直す。

 子どもが待つ。

 数秒後には終わる、ごくありふれた出来事だった。

 それなのに亮介は、男の子の肩が引かれた瞬間から、目を離せなくなっていた。

「お母さん、早く」

「はいはい、行くよ」

「さっきから早くって言ってるのに」

「鞄が落ちそうだったの」

「でも、急ぐんでしょ」

「急ぐよ」

 母親は笑った。

「だから行こう」

 男の子は、母親を見上げた。

 何か言いたそうに口を開きかけたが、すぐに前を向いた。

「うん」

 母親が歩き始める。

 男の子もついていく。

 二人は亮介の横を通り過ぎた。

 母親は軽く頭を下げた。

「すみません」

「いえ」

 亮介は答えた。

 そのあいだも、男の子は母親の手を握っていた。

 小さな指が、母親の親指の付け根に引っかかっている。

 母親は先ほどと同じ速さで歩き始めていた。

 男の子も、もう引っ張られていない。

 後ろから、二人の話し声が聞こえてきた。

「間に合う?」

「大丈夫。まだ間に合うよ」

「ほんと?」

「ほんと」

 そのやり取りは、角を曲がるまで続いていた。

     *

 亮介は、塀のそばに立ったまま二人の姿を見送った。

 金木犀の匂いが、さっきより濃く感じられた。

 風が吹いたのだろう。

 塀の向こうで葉が擦れ、乾いた音がした。

 亮介は自分の右手を見た。

 鞄を持っている。

 左手は空いていた。

 何もしていない。

 誰にも触れていない。

 声をかけたわけでもなければ、道を塞いだわけでもない。

 それなのに、母親は立ち止まった。

 子どもを急がせていた人が、自分の目の前で歩くのをやめた。

 鞄の持ち手が滑ったからだ。

 それは見ていた。

 最初から肩に浅く掛かっていて、いつ落ちてもおかしくない状態だった。

 だから母親が直したことに、不自然なところはない。

 ただ、あの瞬間でなければならなかったのだろうか。

 亮介は母親の左肩を思い出した。

 持ち手が滑る。

 肘が寄る。

 手が鞄を掴む。

 足が止まる。

 子どもの身体が、手をつないだまま斜めになる。

 小さな靴底が地面を擦る。

 動きの順番まで、妙にはっきり思い出せた。

 犬を連れた女性のときは、リードが伸びた。

 今度は、母親と子どもの腕だった。

 違うものなのに、よく似た形をしていた。

 亮介は目を閉じた。

 あの母親は、自分が近づかなかったとしても鞄を直しただろうか。

 どこか別の場所で直したのかもしれない。

 あるいは、もう少し先まで気づかなかったかもしれない。

 考えても分からなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 男の子は急いでいた。

 母親も急いでいた。

 そして、二人とも一度立ち止まった。

 その理由を聞かれれば、母親は鞄がずれたからだと答えるだろう。

 男の子も、きっとそう答える。

 それで何も間違っていない。

 亮介は、二人が消えた角を見た。

 こんなことを、毎日のように起こしているのだろうか。

 自分が歩くたびに。

 街のどこかで。

 誰かの足が、ほんの少しだけ止まる。

 その人は、自分で選んで止まったと思っている。

 理由もある。

 何も困っていない。

 けれど、隣を歩いている誰かは、別のことを考えているかもしれない。

 男の子の声が、まだ耳に残っていた。

『でも、急ぐんでしょ』

 亮介は、ようやく歩き出した。

     *

 市役所へ戻る途中、小さな児童公園の前を通った。

 鉄棒の下には細かな砂が敷かれ、隅には二人乗りのブランコがある。

 小学生くらいの女の子たちが、地面にチョークで線を引いて遊んでいた。

 その一人が友達を呼び、二人で線をまたぐ。

 右へ跳ぶ。

 左へ跳ぶ。

 足が揃わず、一人が笑い出す。

 亮介はその様子を少しだけ眺めた。

 綾音も、小さい頃はこういう遊びが好きだった。

 公園へ連れていくと、誰もいないところで一人、地面に線を引いていたことがある。

 何をしているのか尋ねると、綾音は「ここから出ちゃ駄目なんだよ」と教えてくれた。

 亮介が線をまたごうとすると、慌てて両手を広げて止めた。

 あのときの綾音は、まだ亮介の膝くらいの高さしかなかった。

 今は、もうあんなふうには止めてくれないだろう。

 亮介はポケットからスマートフォンを取り出した。

 土曜日の予定を確認する。

 午後二時から学校で発表がある。

 終わったら本屋へ行く。

 それだけだった。

 学校までの道を思い浮かべる。

 駅から大通りを進み、小さな公園の横を通って校門へ向かう。

 途中には、子どもたちがよく利用する横断歩道がある。

 保護者も多いだろう。

 今日の母親と男の子のように、手をつないで歩く人たちもいるかもしれない。

 亮介は画面を閉じた。

 まだ木曜日だった。

 土曜日までに何とかすればいい。

 何をどうすればいいのかは、分からなかった。

     *

 道路維持課へ戻ると、理沙が窓際の机で資料を整理していた。

 亮介は鞄を置き、少し迷ってから声をかけた。

「浜野さん、今いいかな」

 理沙が顔を上げる。

「はい。どうしました?」

「ちょっと聞いてほしいことがあって」

 二人は給湯室の隣にある小さな打ち合わせスペースへ移動した。

 テーブルには使用済みの紙コップが一つ残っており、椅子の背には誰かが忘れたらしい紺色の上着が掛かっている。

 窓を少し開けると、外から冷たい風が入ってきた。

 亮介は椅子に座らず、窓のそばに立った。

「さっき、親子連れとすれ違ったんだ」

「はい」

「母親が、子どもを急がせてた」

 理沙は黙って聞いていた。

「それが俺とすれ違う直前で、急に鞄を直そうとして止まったんだ」

「鞄がずれたんですか」

「うん。本当に落ちかけてた」

「そうですか」

「でも、子どもは歩こうとしてた。手をつながれてたから、少し引っ張られる形になって」

 亮介は自分の右手を持ち上げた。

 子どもの手を握っているつもりで指を曲げる。

「こんなふうに、腕が伸びて」

 理沙はその手を見た。

「転んだりは?」

「いや。大丈夫だった」

「それならよかったです」

 亮介は頷いた。

 しかし、指はすぐには開かなかった。

「その子、母親に言ったんだよ。急ぐんじゃなかったのって」

 理沙は顔を上げた。

「そう言ったんですか」

「うん。母親は急ぐつもりだった。子どももそうだった。でも、止まった」

 亮介は手を下ろした。

「鞄を直すこと自体は普通なんだ。誰でもする。でも」

 言葉が続かなかった。

 何を疑っているのか、正確には説明できない。

 母親が鞄を直したことか。

 子どもを急がせていたのに足を止めたことか。

 それとも、その場所に自分がいたことか。

「瀬戸さん」

 理沙が静かに言った。

「その方は、自分で鞄を直したんですよね」

「そう」

「誰かに止められたわけじゃない」

「うん」

「でも、私たちが見てきたことと同じなら、足を止めるタイミングに何か偏りがあったのかもしれない」

 亮介は理沙を見た。

 彼女は机の上に視線を落としている。

「そこまでは考えられます。でも、それ以上はまだ分からないです」

「そうだね」

「ただ」

 理沙は少しだけ言葉を探した。

「その子は、お母さんが急いでいることを知ってたんですよね」

「うん」

「だったら、何で今止まるんだろうって思ったのかもしれません」

 亮介は、ゆっくり頷いた。

 自分が感じたものを、初めて誰かが同じ場所から見てくれたような気がした。

 しかし理沙の言葉は、そこで終わらなかった。

「瀬戸さんがいなかったら、お母さんが止まらなかったかどうかは、分からないですけどね」

「分かってる」

 亮介は答えた。

「そこなんだよ」

 窓から風が入り、テーブルに置かれた紙が一枚めくれた。

 理沙が手を伸ばして押さえる。

 その動きを見た亮介は、一瞬だけ息を止めた。

 理沙は紙を元に戻した。

 それから亮介を見る。

「どうかしました?」

「いや」

 亮介は首を振った。

「何でもない」

 しかし、彼女が紙を押さえた瞬間に、自分の足が動かなかったことに気づいていた。

 今は椅子の横に立っているだけだ。

 理沙も立ち止まったわけではない。

 ただ紙を押さえた。

 それだけのことだった。

 亮介は、自分がどこまで普通の行動を疑うようになっているのか、分からなくなった。

     *

 夕方、恵子からメッセージが届いた。

『土曜日の発表、開場は一時四十分だって。綾音が見つけやすいように、できれば少し早く来てくれる?』

 亮介は時計を見た。

 午後五時二十二分。

 土曜日まで、まだ一日以上ある。

『分かった。早めに行くよ』

 送信すると、間を置かずに返事があった。

『ありがとう。終わったあと、本屋にも行くって聞いてるよ』

『うん。約束した』

『楽しみにしてるみたい』

 亮介は画面を見つめた。

 綾音が楽しみにしている。

 それは、嬉しいことだった。

 同時に、今日の母親と男の子の姿が浮かんだ。

 急いでいたのに、立ち止まった人。

 手を引かれ、足を止めざるを得なかった子ども。

 自分も綾音と歩いているとき、同じようなことが起きるのだろうか。

 綾音が先へ進もうとしているのに、自分だけが立ち止まる。

 あるいは、綾音のほうが何かを直そうとして立ち止まる。

 考え始めると、いくらでも想像できた。

 亮介はスマートフォンを机へ置いた。

 発表の時間も、学校までの道も、分かっている。

 何時に家を出ればいいのかも計算できる。

 それなのに、間に合うと簡単には言えなかった。

 駅から学校まで歩くあいだに、何人の人間とすれ違うのだろう。

 何人が足を止めるのだろう。

 そして、そのたびに自分が止まっていたら、どのくらい時間がかかるのだろう。

 亮介は机の端を指でなぞった。

 高野に言われたことを思い出す。

 最近、歩くのが遅い気がする。

 確かにそうだった。

 以前の自分なら、こんなことは考えなかった。

 歩くことは、ただ歩くことだった。

 今は違う。

 亮介は鞄を持って立ち上がった。

 帰ろう。

 今日は、なるべく止まらずに歩いてみよう。

 そう決めて事務室を出た。

     *

 庁舎の外では、夕方の風が少し強くなっていた。

 街灯の下に落ち葉が集まり、風が吹くたびに乾いた音を立てている。西の空には細い橙色の光が残っていたが、道路の大部分はすでに薄暗く、帰宅する人々の足元だけが店の明かりに照らされていた。

 亮介は駅へ向かって歩き始めた。

 向こうから男性が一人来た。

 右手に鞄を持ち、左手でスマートフォンを操作している。

 亮介は少し速度を落とした。

 しかし、止まらなかった。

 男性も、そのまま歩いてくる。

 二人の距離が縮まる。

 男性は亮介とすれ違う直前、スマートフォンをポケットへしまいかけた。

 その動きを見た亮介は、思わず足を止めそうになった。

 けれど、今度は自分から道の端へ寄った。

 男性が進める場所を空ける。

 相手も少し身体を傾け、亮介の横を通り過ぎていった。

 何も起こらなかった。

 亮介は小さく息を吐いた。

 できるじゃないか。

 自分から譲ればいい。

 それだけのことだった。

 少し先まで歩くと、向こうから高齢の男性が来た。

 男性は買い物袋を提げ、歩幅を小さくして進んでいる。

 亮介は先ほどと同じように、道の端へ寄った。

 そして立ち止まり、男性が通るのを待った。

「どうぞ」

 亮介が言う。

 男性は顔を上げた。

 それから一歩だけ道の端へ寄り、軽く頭を下げた。

「いえいえ、お先にどうぞ」

 亮介は動かなかった。

 男性も動かなかった。

 二人の間には、一人が通るには十分な道幅が空いている。

「いえ、どうぞ」

 亮介はもう一度言った。

 男性は困ったように笑った。

「いや、そちらが先に」

 相手は親切で言っている。

 亮介も親切のつもりだった。

 互いに道を譲り合っているだけだった。

 しかし、先に進む人間が決まらない。

 亮介は、男性の足元を見た。

 男性もこちらを見ている。

 どちらかが歩き出せば、それで終わる。

 分かっている。

 けれど、その最初の一歩を、亮介はどうしても出せなかった。

 男性がもう一度、軽く頭を下げる。

「遠慮なさらず」

 亮介は笑おうとした。

 口元が、少しだけ引きつった。

 道は空いていた。

 誰も通行を妨げていない。

 それなのに二人は、向かい合ったまま、しばらく動かなかった。

 亮介はそこで初めて、自分が人に道を譲ることさえ、普通にはできなくなっていると気づいた。

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