第10話 急いでいるのに
母親は、子どもへ何度も同じことを言っていた。
「ほら、早く。もう時間ないよ」
男の子は母親に手を引かれ、小さな歩幅で懸命についていく。
黄色い帽子をかぶり、紺色の上着の下には白いシャツが見えていた。片方の靴下が少しずり落ちているが、本人は気にしていないらしい。
母親は左肩に大きな布製の鞄を掛け、右手で子どもの手を握っている。
鞄の口からは薄い水色のタオルがのぞいていた。
「だって、ぼく走ってるよ」
「走らなくていいから、ちゃんと前見て」
「じゃあ早くって言わないでよ」
「そうだね、ごめん。普通に歩こう」
男の子は納得したのか、少し歩幅を広げた。
母親も速度を合わせる。
二人は、瀬戸亮介のほうへ向かって歩いてきた。
*
木曜日の午後四時二十分。
亮介は市役所から頼まれた書類を届けた帰りだった。
今日の午前中は、高野と一緒に二か所の現場を回った。
歩いて移動する区間もあったが、隣に高野がいたせいか、前日ほど何度も立ち止まらずに済んだ。
途中で向こうから来た人が歩調を緩めても、高野は気にする様子もなく歩いている。
その横で亮介だけが立ち止まると、かえって二人の足並みが乱れた。
「瀬戸さん、何か落としました?」
一度だけ、高野にそう尋ねられた。
「いや、大丈夫」
亮介が答えると、高野は何事もなかったように歩き出した。
そのあと亮介は、なるべく高野の歩幅に合わせるようにしていた。
午後になって一人で外出すると、その感覚はすぐに失われた。
人が来れば、足が止まりそうになる。
相手が立ち止まれば、理由を探してしまう。
今朝はあんなに自然に歩けたのに。
そう考えてから、自然に歩けたというのも、自分だけの判断なのだと思い直した。
亮介は住宅街の細い通りを歩いていた。
片側には背の低いブロック塀が続き、反対側には昔からあるらしい木造の家が並んでいる。塀の上からは金木犀の枝が伸び、甘い匂いが風に混じっていた。陽はすでに屋根の近くまで傾き、道路の半分だけが明るく照らされている。日陰に入ると上着の袖から冷気が忍び込み、遠くの学校からは運動部の掛け声がかすかに聞こえてきた。
道幅は四メートルほど。
すぐ先に、古い家の塀が少し道路へ張り出した場所がある。
そこだけ、歩行者同士がすれ違うには少し窮屈だった。
向こうから来る母親と男の子は、ちょうどその場所へ差しかかろうとしていた。
亮介は歩調を落としかけた。
しかし、そのまま歩けば問題なくすれ違える距離でもあった。
自分が端へ寄ればいい。
そう思い、塀の側へ少し身体を移した。
母親もこちらを見た。
ほんの一瞬、目が合った。
亮介は会釈しかけたが、その前に母親の左肩が小さく動いた。
鞄の持ち手が、肩先から滑り始めていた。
布地が上着の表面を擦り、肩の丸みに沿ってゆっくり下がっていく。
母親は子どもの手を握ったまま、左肘を身体へ寄せた。
鞄を支えようとしたのだろう。
しかし持ち手はもう肘の近くまで落ちていた。
「あ」
母親が声を漏らす。
左手が鞄の持ち手を掴んだ。
その瞬間、足が止まった。
男の子だけが、もう一歩進もうとしていた。
小さなスニーカーがアスファルトを踏む。
母親とつないだ右手が後ろへ引かれ、男の子の肩が少し上がった。
身体が斜めになる。
男の子は足を踏ん張り、母親を振り返った。
「お母さん」
「ちょっと待って」
母親は鞄を肩へ掛け直している。
持ち手の位置を確かめ、もう一度、奥まで引き上げた。
そのあいだ男の子は、手をつながれたまま立っていた。
亮介は二人の前で足を止めた。
母親が鞄を直す。
子どもが待つ。
数秒後には終わる、ごくありふれた出来事だった。
それなのに亮介は、男の子の肩が引かれた瞬間から、目を離せなくなっていた。
「お母さん、早く」
「はいはい、行くよ」
「さっきから早くって言ってるのに」
「鞄が落ちそうだったの」
「でも、急ぐんでしょ」
「急ぐよ」
母親は笑った。
「だから行こう」
男の子は、母親を見上げた。
何か言いたそうに口を開きかけたが、すぐに前を向いた。
「うん」
母親が歩き始める。
男の子もついていく。
二人は亮介の横を通り過ぎた。
母親は軽く頭を下げた。
「すみません」
「いえ」
亮介は答えた。
そのあいだも、男の子は母親の手を握っていた。
小さな指が、母親の親指の付け根に引っかかっている。
母親は先ほどと同じ速さで歩き始めていた。
男の子も、もう引っ張られていない。
後ろから、二人の話し声が聞こえてきた。
「間に合う?」
「大丈夫。まだ間に合うよ」
「ほんと?」
「ほんと」
そのやり取りは、角を曲がるまで続いていた。
*
亮介は、塀のそばに立ったまま二人の姿を見送った。
金木犀の匂いが、さっきより濃く感じられた。
風が吹いたのだろう。
塀の向こうで葉が擦れ、乾いた音がした。
亮介は自分の右手を見た。
鞄を持っている。
左手は空いていた。
何もしていない。
誰にも触れていない。
声をかけたわけでもなければ、道を塞いだわけでもない。
それなのに、母親は立ち止まった。
子どもを急がせていた人が、自分の目の前で歩くのをやめた。
鞄の持ち手が滑ったからだ。
それは見ていた。
最初から肩に浅く掛かっていて、いつ落ちてもおかしくない状態だった。
だから母親が直したことに、不自然なところはない。
ただ、あの瞬間でなければならなかったのだろうか。
亮介は母親の左肩を思い出した。
持ち手が滑る。
肘が寄る。
手が鞄を掴む。
足が止まる。
子どもの身体が、手をつないだまま斜めになる。
小さな靴底が地面を擦る。
動きの順番まで、妙にはっきり思い出せた。
犬を連れた女性のときは、リードが伸びた。
今度は、母親と子どもの腕だった。
違うものなのに、よく似た形をしていた。
亮介は目を閉じた。
あの母親は、自分が近づかなかったとしても鞄を直しただろうか。
どこか別の場所で直したのかもしれない。
あるいは、もう少し先まで気づかなかったかもしれない。
考えても分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
男の子は急いでいた。
母親も急いでいた。
そして、二人とも一度立ち止まった。
その理由を聞かれれば、母親は鞄がずれたからだと答えるだろう。
男の子も、きっとそう答える。
それで何も間違っていない。
亮介は、二人が消えた角を見た。
こんなことを、毎日のように起こしているのだろうか。
自分が歩くたびに。
街のどこかで。
誰かの足が、ほんの少しだけ止まる。
その人は、自分で選んで止まったと思っている。
理由もある。
何も困っていない。
けれど、隣を歩いている誰かは、別のことを考えているかもしれない。
男の子の声が、まだ耳に残っていた。
『でも、急ぐんでしょ』
亮介は、ようやく歩き出した。
*
市役所へ戻る途中、小さな児童公園の前を通った。
鉄棒の下には細かな砂が敷かれ、隅には二人乗りのブランコがある。
小学生くらいの女の子たちが、地面にチョークで線を引いて遊んでいた。
その一人が友達を呼び、二人で線をまたぐ。
右へ跳ぶ。
左へ跳ぶ。
足が揃わず、一人が笑い出す。
亮介はその様子を少しだけ眺めた。
綾音も、小さい頃はこういう遊びが好きだった。
公園へ連れていくと、誰もいないところで一人、地面に線を引いていたことがある。
何をしているのか尋ねると、綾音は「ここから出ちゃ駄目なんだよ」と教えてくれた。
亮介が線をまたごうとすると、慌てて両手を広げて止めた。
あのときの綾音は、まだ亮介の膝くらいの高さしかなかった。
今は、もうあんなふうには止めてくれないだろう。
亮介はポケットからスマートフォンを取り出した。
土曜日の予定を確認する。
午後二時から学校で発表がある。
終わったら本屋へ行く。
それだけだった。
学校までの道を思い浮かべる。
駅から大通りを進み、小さな公園の横を通って校門へ向かう。
途中には、子どもたちがよく利用する横断歩道がある。
保護者も多いだろう。
今日の母親と男の子のように、手をつないで歩く人たちもいるかもしれない。
亮介は画面を閉じた。
まだ木曜日だった。
土曜日までに何とかすればいい。
何をどうすればいいのかは、分からなかった。
*
道路維持課へ戻ると、理沙が窓際の机で資料を整理していた。
亮介は鞄を置き、少し迷ってから声をかけた。
「浜野さん、今いいかな」
理沙が顔を上げる。
「はい。どうしました?」
「ちょっと聞いてほしいことがあって」
二人は給湯室の隣にある小さな打ち合わせスペースへ移動した。
テーブルには使用済みの紙コップが一つ残っており、椅子の背には誰かが忘れたらしい紺色の上着が掛かっている。
窓を少し開けると、外から冷たい風が入ってきた。
亮介は椅子に座らず、窓のそばに立った。
「さっき、親子連れとすれ違ったんだ」
「はい」
「母親が、子どもを急がせてた」
理沙は黙って聞いていた。
「それが俺とすれ違う直前で、急に鞄を直そうとして止まったんだ」
「鞄がずれたんですか」
「うん。本当に落ちかけてた」
「そうですか」
「でも、子どもは歩こうとしてた。手をつながれてたから、少し引っ張られる形になって」
亮介は自分の右手を持ち上げた。
子どもの手を握っているつもりで指を曲げる。
「こんなふうに、腕が伸びて」
理沙はその手を見た。
「転んだりは?」
「いや。大丈夫だった」
「それならよかったです」
亮介は頷いた。
しかし、指はすぐには開かなかった。
「その子、母親に言ったんだよ。急ぐんじゃなかったのって」
理沙は顔を上げた。
「そう言ったんですか」
「うん。母親は急ぐつもりだった。子どももそうだった。でも、止まった」
亮介は手を下ろした。
「鞄を直すこと自体は普通なんだ。誰でもする。でも」
言葉が続かなかった。
何を疑っているのか、正確には説明できない。
母親が鞄を直したことか。
子どもを急がせていたのに足を止めたことか。
それとも、その場所に自分がいたことか。
「瀬戸さん」
理沙が静かに言った。
「その方は、自分で鞄を直したんですよね」
「そう」
「誰かに止められたわけじゃない」
「うん」
「でも、私たちが見てきたことと同じなら、足を止めるタイミングに何か偏りがあったのかもしれない」
亮介は理沙を見た。
彼女は机の上に視線を落としている。
「そこまでは考えられます。でも、それ以上はまだ分からないです」
「そうだね」
「ただ」
理沙は少しだけ言葉を探した。
「その子は、お母さんが急いでいることを知ってたんですよね」
「うん」
「だったら、何で今止まるんだろうって思ったのかもしれません」
亮介は、ゆっくり頷いた。
自分が感じたものを、初めて誰かが同じ場所から見てくれたような気がした。
しかし理沙の言葉は、そこで終わらなかった。
「瀬戸さんがいなかったら、お母さんが止まらなかったかどうかは、分からないですけどね」
「分かってる」
亮介は答えた。
「そこなんだよ」
窓から風が入り、テーブルに置かれた紙が一枚めくれた。
理沙が手を伸ばして押さえる。
その動きを見た亮介は、一瞬だけ息を止めた。
理沙は紙を元に戻した。
それから亮介を見る。
「どうかしました?」
「いや」
亮介は首を振った。
「何でもない」
しかし、彼女が紙を押さえた瞬間に、自分の足が動かなかったことに気づいていた。
今は椅子の横に立っているだけだ。
理沙も立ち止まったわけではない。
ただ紙を押さえた。
それだけのことだった。
亮介は、自分がどこまで普通の行動を疑うようになっているのか、分からなくなった。
*
夕方、恵子からメッセージが届いた。
『土曜日の発表、開場は一時四十分だって。綾音が見つけやすいように、できれば少し早く来てくれる?』
亮介は時計を見た。
午後五時二十二分。
土曜日まで、まだ一日以上ある。
『分かった。早めに行くよ』
送信すると、間を置かずに返事があった。
『ありがとう。終わったあと、本屋にも行くって聞いてるよ』
『うん。約束した』
『楽しみにしてるみたい』
亮介は画面を見つめた。
綾音が楽しみにしている。
それは、嬉しいことだった。
同時に、今日の母親と男の子の姿が浮かんだ。
急いでいたのに、立ち止まった人。
手を引かれ、足を止めざるを得なかった子ども。
自分も綾音と歩いているとき、同じようなことが起きるのだろうか。
綾音が先へ進もうとしているのに、自分だけが立ち止まる。
あるいは、綾音のほうが何かを直そうとして立ち止まる。
考え始めると、いくらでも想像できた。
亮介はスマートフォンを机へ置いた。
発表の時間も、学校までの道も、分かっている。
何時に家を出ればいいのかも計算できる。
それなのに、間に合うと簡単には言えなかった。
駅から学校まで歩くあいだに、何人の人間とすれ違うのだろう。
何人が足を止めるのだろう。
そして、そのたびに自分が止まっていたら、どのくらい時間がかかるのだろう。
亮介は机の端を指でなぞった。
高野に言われたことを思い出す。
最近、歩くのが遅い気がする。
確かにそうだった。
以前の自分なら、こんなことは考えなかった。
歩くことは、ただ歩くことだった。
今は違う。
亮介は鞄を持って立ち上がった。
帰ろう。
今日は、なるべく止まらずに歩いてみよう。
そう決めて事務室を出た。
*
庁舎の外では、夕方の風が少し強くなっていた。
街灯の下に落ち葉が集まり、風が吹くたびに乾いた音を立てている。西の空には細い橙色の光が残っていたが、道路の大部分はすでに薄暗く、帰宅する人々の足元だけが店の明かりに照らされていた。
亮介は駅へ向かって歩き始めた。
向こうから男性が一人来た。
右手に鞄を持ち、左手でスマートフォンを操作している。
亮介は少し速度を落とした。
しかし、止まらなかった。
男性も、そのまま歩いてくる。
二人の距離が縮まる。
男性は亮介とすれ違う直前、スマートフォンをポケットへしまいかけた。
その動きを見た亮介は、思わず足を止めそうになった。
けれど、今度は自分から道の端へ寄った。
男性が進める場所を空ける。
相手も少し身体を傾け、亮介の横を通り過ぎていった。
何も起こらなかった。
亮介は小さく息を吐いた。
できるじゃないか。
自分から譲ればいい。
それだけのことだった。
少し先まで歩くと、向こうから高齢の男性が来た。
男性は買い物袋を提げ、歩幅を小さくして進んでいる。
亮介は先ほどと同じように、道の端へ寄った。
そして立ち止まり、男性が通るのを待った。
「どうぞ」
亮介が言う。
男性は顔を上げた。
それから一歩だけ道の端へ寄り、軽く頭を下げた。
「いえいえ、お先にどうぞ」
亮介は動かなかった。
男性も動かなかった。
二人の間には、一人が通るには十分な道幅が空いている。
「いえ、どうぞ」
亮介はもう一度言った。
男性は困ったように笑った。
「いや、そちらが先に」
相手は親切で言っている。
亮介も親切のつもりだった。
互いに道を譲り合っているだけだった。
しかし、先に進む人間が決まらない。
亮介は、男性の足元を見た。
男性もこちらを見ている。
どちらかが歩き出せば、それで終わる。
分かっている。
けれど、その最初の一歩を、亮介はどうしても出せなかった。
男性がもう一度、軽く頭を下げる。
「遠慮なさらず」
亮介は笑おうとした。
口元が、少しだけ引きつった。
道は空いていた。
誰も通行を妨げていない。
それなのに二人は、向かい合ったまま、しばらく動かなかった。
亮介はそこで初めて、自分が人に道を譲ることさえ、普通にはできなくなっていると気づいた。




