第11話 お先にどうぞ
「じゃあ、お言葉に甘えて」
高齢の男性がそう言ったのは、瀬戸亮介が三度目の「どうぞ」を口にしかけたときだった。
男性は買い物袋を左手へ持ち替え、亮介の顔を一度確かめてから歩き出した。
黒い革靴がアスファルトを踏む。
一歩、もう一歩。
亮介が道の端に立ったままでいると、男性は何の問題もなく横を通り過ぎていった。
「どうもね」
「いえ、こちらこそ」
返事をした頃には、男性の背中が街灯の下へ差しかかっていた。
結局、先へ進んだのは相手だった。
それでよかったはずなのに、亮介はしばらく動けなかった。
男性が立っていた場所には何も残っていない。歩道を塞いでいた自転車もなければ、足元に障害物があるわけでもない。
二人が向かい合っていた時間は、せいぜい十数秒だったと思う。
ただ道を譲り合っただけ。
近所の人に話せば、気を遣いすぎたんですねと笑われて終わるような出来事だった。
亮介は鞄を持ち直した。
向こうの角を、一人の女性が曲がってくる。
右手に小さな紙袋を持っていた。
亮介は反射的に歩調を緩めかけ、まだ一歩も進んでいないことに気づいた。
自分は立ち止まったままだ。
女性はそのまま近づいてきて、亮介の横を通り過ぎた。
甘い菓子の匂いが一瞬だけ残る。
亮介はようやく足を前へ出した。
十月の夕暮れは早い。
住宅の屋根に隠れた太陽の光が雲の縁だけを薄く赤く染め、道路はすでに夜の色へ変わり始めていた。塀の内側から金木犀の匂いが漂い、近くの家では風呂を沸かしているらしく、換気口から湿った暖かい空気が流れていた。
少し先の交差点まで歩く。
角にはコンビニエンスストアがある。
亮介は自動ドアの前で足を止め、ガラスに映った自分の姿を見た。
作業服の上に薄い上着を羽織り、片手に仕事の鞄を提げた中年の男。
どこから見ても、仕事帰りの普通の会社員にしか見えなかった。
その男が、さっきから人とすれ違うたびに道端へ寄っている。
相手が来れば、動かずに待つ。
相手も譲ろうとすれば、さらに待つ。
他人の動きを気にしすぎているのだと、自分でも分かっていた。
けれど、どうすれば以前のように歩けるのかは分からない。
亮介は自動ドアから一歩離れた。
中へ入るつもりはなかった。
ただ、誰かが店から出てきたとき、自分が入口を塞いでいるのではないかと気になったのだ。
その瞬間、ガラスの向こうで若い男性が買い物袋を持ち上げた。
自動ドアが開く。
男性が外へ出てくる。
亮介はさらに脇へ寄った。
「すみません」
男性はそう言って、亮介の横を通り過ぎていった。
その声は、店を出るときに誰にでもかける程度のものだった。
亮介は自動ドアが閉まるまで見ていた。
何をしているのだろう。
さっきから、ずっと。
*
翌朝、亮介は高野と一緒に現場へ向かった。
金曜日の午前九時十分。
市役所の西側にある住宅街で、道路標識の支柱が傾いているという連絡があり、二人で確認することになっていた。
高野は歩くのが速い。
配属されたばかりの頃は亮介が速度を合わせてもらうこともあったが、最近では道路台帳を片手に、現場の場所を確かめながら先へ進んでいる。
「瀬戸さん、この先の角ですよね」
「うん。白い外壁の家のところ」
「了解です」
高野は歩幅を緩めずに進んだ。
亮介はその横を歩く。
朝の空気にはまだ冷たさが残っていた。昨夜の雨で湿った道路から土と落ち葉の匂いが上がり、低い雲の隙間から差した光が、家々の窓を一つずつ明るくしていた。近くのパン屋では換気扇が回っており、バターの匂いが風に乗って流れてきた。
前から自転車が一台来た。
高野はわずかに道の端へ寄った。
亮介もその動きに合わせる。
自転車はそのまま通り過ぎた。
続いて、郵便配達の男性が歩いてきた。
肩に大きな鞄を掛け、片手に数通の封筒を持っている。
亮介は歩幅を小さくした。
郵便配達員が、自分の進む側へ来る。
そのまま歩けば、数歩先ですれ違う。
亮介は足を止めようとした。
ところが、高野がすぐ隣で言った。
「あ、この標識です」
高野は立ち止まらず、道路の先を指さした。
亮介は顔を上げた。
郵便配達員は、もうすぐ目の前にいる。
相手は肩に掛けた鞄へ片手を添え、身体を少し傾けた。
亮介も反対側へ寄る。
二人は何事もなくすれ違った。
靴音が一度だけ近くで重なり、それから離れていく。
亮介は振り返らなかった。
そのまま高野について歩く。
しばらくして、ようやく息を吐いた。
「どうかしました?」
高野が顔を向けた。
「いや」
亮介は首を振った。
「何でもない」
高野は深く尋ねず、標識の位置を確かめ始めた。
支柱は根元からわずかに道路側へ傾いていた。
車が接触したような傷は見当たらない。
亮介は巻尺を取り出し、支柱と塀の距離を測った。
高野がメモを取る。
仕事を始めると、自然に手が動いた。
測る。
記録する。
写真を撮る。
何年も繰り返してきた作業には、余計な考えが入り込む隙間がなかった。
そのことが、少しありがたかった。
*
確認を終えた帰り道だった。
高野が先に歩いている。
亮介は数歩遅れて、その後ろをついていった。
住宅街を抜けると、古い商店の並ぶ通りへ出た。
八百屋の店先には大根と白菜が積まれ、道路の端には折り畳んだ段ボール箱が置かれている。
向こうから、台車を押した男性が歩いてきた。
台車には細長い箱が二つ積まれ、黒いゴム紐で固定されていた。
男性は作業服を着ている。
額には汗が浮かび、口元を少し開けていた。
台車の車輪が舗装の継ぎ目を通るたび、硬い音が鳴る。
高野は道路の端へ寄った。
亮介も、同じように寄ろうとした。
しかし、八百屋の前には野菜の箱が置かれている。
そのまま進むと、台車を押す男性とぶつかる位置だった。
亮介は足を止めた。
男性は止まらない。
車輪が近づいてくる。
ゴム紐の端が、箱の側面で小さく揺れていた。
亮介は、もう少し待てば相手が速度を落とすのではないかと思った。
けれど男性は台車をまっすぐ押し続けている。
「すみません、通ります」
声がした。
短い、はっきりした声だった。
亮介は身体を引いた。
高野がすぐ脇の空いている場所を指さす。
「瀬戸さん、こっちです」
亮介は八百屋の店先から一歩離れ、道路の反対側へ寄った。
台車が通り過ぎる。
車輪が砂粒を噛み、じゃり、と小さく鳴った。
男性は亮介の顔を見ることもなく、そのまま先へ進んでいった。
箱の上に貼られた配送票が、風で一度だけ浮き上がった。
亮介はその背中を見送った。
「結構大きい荷物でしたね」
高野が言った。
「そうだね」
「そこの設備屋さんの納品ですかね」
「かもしれない」
二人は再び歩き出した。
亮介は、今の男性の足元を思い出していた。
台車を押すために、一定の歩幅で進んでいた。
自分が立ち止まっても、速度を落とさなかった。
邪魔になると分かれば、通りますと声をかけた。
そして、必要な場所を通っていった。
相手が無理やり押し通ったわけではない。
こちらが避けられるだけの余地があった。
だから通った。
それだけだった。
「瀬戸さん」
高野が振り返った。
「今日、結構いいペースですね」
「そう?」
「はい。先週はちょっと歩きづらそうだったので」
亮介は笑った。
「高野くんが先に歩いてくれるからかもね」
「え、僕がですか」
「行く場所が分かってる人についていくと、楽なんだよ」
高野は少し照れたように笑った。
「じゃあ、もうちょっと先導します」
亮介も笑った。
ただ、そのあと自分の足元へ視線を落とした。
誰かについて歩いているときは、歩ける。
一人になると、難しい。
それは、あの現象とは別の問題なのだろうか。
それとも同じことなのだろうか。
答えは出なかった。
*
午後、市役所へ戻ると理沙が廊下にいた。
資料を何枚か抱え、会議室のほうへ向かっているところだった。
「瀬戸さん、お疲れさまです」
「お疲れさま」
「今日は高野さんと現場だったんですよね」
「うん。標識の確認」
「何かありました?」
亮介は一瞬、さっきの台車を思い出した。
「ああ。ちょっとね」
「道路のほうですか」
「いや、人のほう」
理沙は足を止めた。
亮介は廊下の端へ寄った。
「さっき台車を押した人とすれ違ったんだけど、俺が止まってても、その人は普通に来たんだ」
「台車ですか」
「うん。荷物を運んでた」
「それで?」
「通りますって言われたから、俺がよけた」
理沙は少し考えた。
「よけられたんですね」
「そう。向こうが止まるんじゃなくて、俺がよけた」
亮介は言いながら、廊下の向こうを見た。
職員が一人、書類を抱えて歩いてきた。
そのまま二人の横を通り過ぎる。
理沙は資料を持ち直した。
「それなら、相手の方は普通に行きたい場所へ進んだんですね」
「そうだね」
「瀬戸さんも、よけようと思えばよけられた」
「うん」
理沙は小さく頷いた。
「それだけでも、少し違いますね」
亮介は答えなかった。
少し違う。
確かに、そうだった。
昨日まで、自分が道を譲る側に回れば、何かがおかしくなるような気がしていた。
相手が止まる。
自分も止まる。
どちらも進めなくなる。
あの高齢の男性と向かい合った夕方のことが、頭に残っている。
けれど、すべての人が同じように動くわけではない。
急いでいる人は進む。
仕事で荷物を運んでいる人は、必要なら声をかける。
こちらがよければ、そのまま通り過ぎる。
それは、以前なら当たり前のことだった。
「浜野さん」
「はい」
「俺、少し考えすぎてたのかな」
理沙はすぐには答えなかった。
抱えていた資料の端を揃え、亮介の顔を見た。
「考えすぎた部分は、あるかもしれません」
「うん」
「でも、最初に見つけた変な動きまで、全部なかったことにしなくていいと思います」
亮介は頷いた。
「そうだね」
「それと」
理沙は少し笑った。
「瀬戸さんが毎回止まってたら、ほかの人が困ることもありますから」
「うん。昨日もそうだった」
「誰にでも道を譲ればいいってわけでもないんですよね」
亮介は笑った。
その言葉が、思ったより胸に残った。
誰にでも譲ればいいわけではない。
では、誰に譲るべきなのか。
その判断まで、毎回考えなければならないのだろうか。
理沙が会議室へ向かって歩き出す。
亮介はその背中を見送った。
彼女は資料を抱えたまま、角を曲がっていった。
途中で足を止めることはなかった。
*
その夜、亮介は食卓で学校の案内を読み直していた。
開場は午後一時四十分。
発表開始は二時。
保護者は正門から入り、受付で名前を確認する。
恵子から送られてきたメッセージには、少し早めに来てほしいと書かれていた。
亮介はスマートフォンの地図を開いた。
駅から学校までは、歩いて十分ほど。
途中に大きな横断歩道がある。
学校の裏手には、綾音が以前話していた小さな公園もあった。
亮介は画面を拡大した。
大通りをまっすぐ進む道。
住宅街を抜ける道。
公園の横を通る道。
どれも学校へつながっている。
画面の上では、線の長さが違うだけだった。
その線の上を何人が歩いているのかは分からない。
誰が立ち止まるのかも分からない。
亮介は、明日はどの道を通ろうかと考えた。
人の少ない道を選べばいい。
そう思いかけて、やめた。
学校へ行くのだ。
道を調べに行くのではない。
綾音の発表を見に行く。
それが目的だった。
亮介は地図を閉じた。
少し早く家を出よう。
もし途中で立ち止まってしまっても、時間に間に合うように。
そう決めて、目覚まし時計の設定を確認した。
それから玄関へ行き、靴を揃えた。
明日も履く靴だった。
かかとの部分が少し擦り減っている。
そろそろ買い替えたほうがいいかもしれない。
そんなことを考えながら、亮介は靴の向きを揃え直した。
どちらも、きちんと玄関の外へ向いていた。




