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通らない道  作者: asnt2026


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12/30

第12話 門の向こう

校門の手前で、瀬戸亮介は足を止めた。

 時刻は午後一時三十二分。

 開場まで、あと八分ある。

 早く着きすぎたわけではなかった。

 むしろ、少し余裕を持って来られたことに、亮介はようやく胸を撫で下ろしていた。

 駅を出てから学校までの道では、何度か人とすれ違った。

 買い物袋を提げた女性が、住宅の前で立ち止まった。

 自転車を押していた男性が、道の端へ寄った。

 小学生くらいの男の子が、友達を呼ぶために振り返った。

 亮介は、そのたびに少しだけ歩幅を狭めたが、立ち止まらずに通り過ぎることができた。

 昨日、高野と歩いたときの感覚を思い出していた。

 先へ進む人がいる。

 その人が歩いている方向へ、自分も進む。

 たったそれだけのことだった。

 ところが学校が見えてくると、足の運び方が分からなくなった。

 正門の前には、保護者らしい人たちが十数人集まっていた。

 立ち話をしている人。

 腕時計を確かめている人。

 入口に貼られた案内を読んでいる人。

 小さな子どもを連れている人もいた。

 亮介は、その集まりから少し離れた場所に立った。

 校門の向こうには、黄色く色づき始めた銀杏の木が見えている。

 枝の間から差し込む午後の日差しが、校舎の壁に細かな影を落としていた。風は朝より穏やかで、日向に立つと上着が少し暖かい。校庭の土は乾いており、金属製の門扉の近くには鉄と埃の混じった匂いが漂っていた。

 建物の奥から、子どもたちの声が聞こえる。

 何人かが同時に何かを言い、誰かが笑った。

 そのあと、短い笛の音がした。

 学校だった。

 綾音が毎日通っている場所。

 自分も何度か来たことがある。

 以前、授業参観で訪れたときには、正門を入ってすぐの花壇に小さな札が立てられていた。

 児童たちが植えた花の名前を書いたものだった。

 綾音は、自分の担当した花をわざわざ教えてくれた。

 あの花壇は、今も残っているだろうか。

 亮介は門の奥をのぞいた。

 花壇らしい場所は見えるが、そこに何が植えられているのかまでは分からない。

「瀬戸さん?」

 声がした。

 亮介は振り返った。

 薄いベージュ色の上着を着た女性が、歩道の端に立っていた。

 瀬戸恵子だった。

 片手に小さな鞄を持ち、もう一方の手でスマートフォンをしまうところだった。

「早いね」

 亮介が言うと、恵子は少し笑った。

「そっちこそ。もう来てるとは思わなかった」

「今日は余裕を持って出たから」

「そうなんだ」

 恵子は学校の時計を見上げた。

 校舎の壁に取り付けられた丸い時計は、一時三十四分を指している。

「まだ入れないみたいね」

「うん。四十分からだって」

「綾音、昨日も時間を何回も確認してたよ」

「そんなに楽しみにしてるの?」

「楽しみっていうか、間違えたくないんでしょうね」

 恵子は肩に掛けた鞄の位置を直した。

「去年も、発表の前はあんな感じだったから」

 亮介は頷いた。

 綾音は何かを覚えるとき、間違えたところだけを何度も繰り返す癖がある。

 算数の計算をしていた頃も、できた問題には目もくれず、間違った問題ばかり解き直していた。

 恵子がもう十分だと言っても、納得するまでやめなかった。

 誰に似たのだろうと考えかけて、亮介はやめた。

 答えを聞かなくても、恵子に笑われる気がした。

「今日、五年生は何するんだっけ」

「合唱と朗読。案内にも書いてあったでしょう」

「ああ、そうだった」

「綾音は朗読のほうで、短いところを一人で読むらしいよ」

「そうなの?」

「知らなかったの?」

 恵子は少し驚いた顔をした。

「聞いてなかったな」

「本人、言ってなかった?」

「発表があるってことは聞いてたけど」

「そう」

 恵子はそれ以上何も言わなかった。

 責められたわけではない。

 ただ、綾音がどの部分を読むのか知らなかったという事実だけが、その場に残った。

 亮介は校舎の窓を見上げた。

 どの教室に娘がいるのか、今の自分には分からない。

 ここへ来れば会える。

 発表が始まれば姿も見られる。

 そう思っていたのに、娘が今日何をするのかさえ、きちんと聞いていなかった。

「本屋にも行くんだって?」

 恵子が言った。

「うん。約束した」

「何か欲しい本があるみたい」

「そうなんだ」

「まだタイトルは決めてないみたいだけどね。見てから選ぶって」

 亮介は頷いた。

 そのとき校門の前で、保護者たちが少し動き始めた。

 学校の職員らしい女性が門の内側に立ち、受付の準備をしている。

 何人かが先に並ぼうと歩き出した。

 亮介の視線が、その人たちへ移った。

     *

 校門の前にできた列は、ゆっくりと伸びていった。

 亮介と恵子は、少し離れたところからその様子を見ていた。

「並ぼうか」

 恵子が言った。

「そうだね」

 亮介は頷いた。

 しかし、すぐには動かなかった。

 前のほうでは母親らしい女性が子どもの上着を直している。

 その隣で、男性が肩に掛けた鞄を持ち直した。

 列の最後尾へ向かおうとする人が二人、こちらへ歩いてくる。

 亮介は、一歩引いた。

 相手の進路を空けるためだった。

 二人は普通に通り過ぎた。

 今度こそ列へ向かおうとしたところで、別の女性が歩いてきた。

 女性は亮介の少し手前で足を緩め、持っていた案内用紙を開いた。

 亮介は立ち止まった。

 女性は用紙を見たあと、また歩き始めた。

 その横を通り過ぎながら、亮介は自分の右足が地面へ触れた感覚を確かめた。

 何も起こらなかった。

 それなのに、もう次の一歩を出すのが遅れている。

「亮介?」

 恵子の声がした。

 亮介は顔を上げた。

「どうしたの」

「いや、ちょっと」

 恵子は亮介の視線の先を見た。

「誰か探してる?」

「違うよ」

「じゃあ、行こう。列が伸びちゃう」

 恵子は先へ歩き出した。

 亮介はその背中を見た。

 人と人のあいだを、恵子が自然に進んでいく。

 向こうから来た男性が少し身体を傾け、恵子も同じように肩を引いた。

 二人はそのまますれ違った。

 何でもない光景だった。

 亮介は恵子のあとを追った。

 数歩進んだところで、向こうから子どもを連れた女性が来た。

 亮介は足を緩めかけたが、恵子が振り返った。

「こっち」

 彼女は列の最後尾を指さしている。

 亮介は頷いた。

 女性と子どもが横を通り過ぎる。

 亮介は立ち止まらず、そのまま列へ向かった。

 恵子の後ろへ並ぶ。

 ようやく息を吐いた。

「どうしたの、本当に」

 恵子が小さな声で尋ねた。

「何でもないよ」

「最近、少し変じゃない?」

 亮介は彼女を見た。

「変?」

「歩くとき、周りばっかり見てる」

 恵子はそう言って、亮介の足元へ視線を落とした。

「前はそんなことなかったでしょう」

 亮介は答えられなかった。

 恵子はしばらく待っていたが、やがて列の前方へ目を向けた。

「仕事、忙しいの?」

「まあ、少し」

「そう」

 それ以上は聞かなかった。

 亮介は、少しだけ肩の力を抜いた。

 恵子は昔から、相手が話したくないことを無理に聞き出す人ではなかった。

 ただ、何も気づいていないわけでもない。

 そのことは、結婚していた頃からよく知っていた。

「綾音には、ちゃんと見てるって分かるようにしてあげてね」

 恵子が言った。

「え?」

「今日の発表。あの子、たぶん客席を探すから」

 亮介は校舎を見た。

 窓の向こうに、誰かの影が動いた。

「うん」

 少し遅れて答えた。

「分かってる」

     *

 体育館へ入ると、床に塗られたワックスの匂いがした。

 入口では教師が受付をしており、保護者が一人ずつ名前を伝えている。

 体育館の中には折り畳み椅子が並べられ、舞台には深い緑色の幕が下がっていた。天井近くの窓から午後の日差しが入り込み、床の上に細長い光の帯を作っている。

 亮介は恵子と並んで、中央より少し後ろの席へ座った。

 周囲では保護者たちが小さな声で話していた。

 誰かがスマートフォンの電源を切る。

 椅子の脚が床を擦る。

 隣の席では、小さな子どもが母親に抱かれて眠っている。

 普通の学校行事だった。

 亮介は舞台を見た。

 幕の向こうから子どもたちの声が聞こえてくる。

 何かを確認しているらしい。

 小さな笑い声が起こり、そのあと誰かが静かにするよう声をかけた。

「綾音、緊張してるかな」

 亮介が言った。

「してると思うよ」

 恵子は膝の上に案内用紙を置いた。

「昨日も家で何回も読んでたから」

「そうか」

「途中で言葉が出てこなくなったらどうしようって」

 亮介は舞台を見たまま頷いた。

 綾音が一人で読むところがある。

 さっき聞いたばかりのことだった。

「間違えても大丈夫なのにね」

 恵子が言った。

「そうだね」

「本人はそう思えないんでしょうけど」

 亮介は、自分の靴先を見た。

 朝から何度も確かめている足元だった。

 つま先が少し擦り減っている。

 革靴ではないので、光を反射するようなものでもない。

 何も変わっていない。

 明日になっても、この靴は同じ場所に置かれているのだろう。

 それなのに、履いて歩くことだけが難しくなっている。

 恵子が案内用紙をめくる音がした。

 亮介は顔を上げた。

 今は、靴のことを考える時間ではなかった。

     *

 午後二時。

 舞台の幕が開いた。

 最初に五年生の児童たちが並んで現れる。

 背の高い子もいれば、まだ小柄な子もいる。

 白いシャツに紺色のズボンやスカート。服装は揃っていないが、全体として似た色にまとまっていた。

 亮介は綾音を探した。

 前列の右から三番目。

 恵子が小さく肘で合図した。

「あそこ」

「うん、見えた」

 綾音は少し背筋を伸ばし、前を向いていた。

 髪は肩のあたりで揃えてあり、右側だけ小さな髪留めで留めている。

 いつの間にか、あんなものをつけるようになったのだろう。

 以前は髪留めを嫌がっていた。

 恵子が買ってきたものも、気に入らないと言って使わなかったことがある。

 そのときのことを思い出して、亮介は少し口元を緩めた。

 綾音が客席を見渡している。

 目が、前列から後列へ動いた。

 亮介は身を乗り出しかけた。

 しかし、すぐにやめた。

 周囲の人の邪魔になる。

 そう考えたからだった。

 綾音の視線が、こちらのほうへ移ってくる。

 亮介は背筋を伸ばした。

 舞台から自分の顔が見えるかどうかは分からない。

 それでも、何となく姿勢を正した。

 綾音の目が、一瞬止まった。

 亮介は小さく手を上げた。

 胸の高さまで。

 周りの人には気づかれない程度だった。

 綾音は、ほんの少しだけ口元を動かした。

 笑ったようにも見えた。

 すぐに前を向き直る。

 亮介は手を下ろした。

 恵子が隣で何か言いかけたが、ちょうど教師が舞台の前へ出てきたため、二人とも黙った。

 発表が始まった。

     *

 合唱は、思っていたよりもしっかりしたものだった。

 子どもたちは指揮をする教師の手元を見ながら、声を揃えて歌った。

 高い声と低い声が少しずつ重なり、体育館の天井へ広がっていく。

 何人かは緊張しているのだろう。肩に力が入っていた。

 歌いながら隣の子をちらりと見る児童もいる。

 しかし、全員が前を向いているわけではないところが、かえって自然に見えた。

 亮介は綾音を見つめていた。

 娘の口が動く。

 息を吸う。

 隣の子と同じところで声を出す。

 時折、少し遅れて音を合わせ直しているようにも見えた。

 その動きが、亮介には妙にはっきりと見えた。

 以前なら、全体の歌声を聞きながら、娘の姿を探すだけで終わっていただろう。

 今は、一人ひとりの小さな動きが目に入る。

 誰かが息を吸う。

 誰かが肩を下げる。

 隣の子が少し前へ出る。

 そのたびに、身体の中で何かが引っかかるようだった。

 けれど、ここでは誰も道を譲っていない。

 歩いてもいない。

 ただ、音楽に合わせて動いているだけだ。

 亮介は膝の上で組んでいた手をほどいた。

 自分が何を見ているのか、もう少し考えないようにしたかった。

 綾音の声が聞こえる。

 大勢の声に混ざっていて、どれが娘の声なのかは分からない。

 それでも、あの中に確かにいる。

 そのことだけでよかった。

 歌が終わると、拍手が起こった。

 亮介も手を叩いた。

 隣の恵子が、少し前のめりになって舞台を見ていた。

 綾音たちは一度お辞儀をし、次の発表の準備へ移った。

     *

 朗読は、数人ずつに分かれて行われた。

 児童たちが前へ出て、順番に短い文章を読む。

 それぞれの声が少しずつ違う。

 大きな声で読む子もいれば、緊張して早口になる子もいる。

 亮介は、綾音の順番が近づくにつれて、自分の指先が膝の上で動いていることに気づいた。

 娘よりも、自分のほうが落ち着かないのかもしれなかった。

 綾音の前にいた男子児童が読み終えた。

 次の子が一歩前へ出る。

 綾音だった。

 亮介は息を吸った。

 娘は用紙を持っていたが、最初からそれを見ていたわけではない。

 一度だけ客席へ目を向け、それから紙へ視線を落とした。

 短い沈黙。

 亮介は、その間に自分の心臓の音が聞こえる気がした。

 綾音が読み始めた。

 声は思っていたより大きかった。

 家で話すときとは少し違う。

 言葉を一つずつ確かめるように、ゆっくり読んでいる。

 途中で一度だけ、紙の端が指に引っかかった。

 綾音の右手が小さく動く。

 用紙が少しずれる。

 亮介は思わず身を乗り出しかけた。

 しかし、綾音はそのまま読み続けた。

 何も起こらなかった。

 言葉が途切れることもなく、最後まで読んだ。

 読み終えると、少しだけ頭を下げて元の位置へ戻る。

 亮介は手を叩いた。

 自分がいつから息を止めていたのか分からなかった。

「上手だったね」

 小さな声で言うと、恵子が頷いた。

「うん。よくできた」

 亮介は舞台を見た。

 綾音はもう次の子の発表を聞いている。

 少し肩の力が抜けたように見えた。

 あの子は、今どんなことを考えているのだろう。

 ちゃんと読めたと思っているのか。

 それとも、途中で紙がずれたことを気にしているのか。

 あとで聞いてみよう。

 亮介はそう思った。

 帰り道のことでも、駅までの距離でもない。

 娘が、今どう感じているのか。

 それを聞いてみたかった。

     *

 発表が終わったのは、午後二時四十分を少し過ぎた頃だった。

 体育館の外では、保護者たちが子どもを待っている。

 廊下の窓は少し開いており、校庭から乾いた土の匂いが入ってきた。午後の日差しは弱くなり始めていたが、校舎の白い壁にはまだ明るい光が残っている。

 亮介と恵子は、人の流れから少し離れたところで綾音を待っていた。

 やがて、五年生の児童たちが教室のほうから現れた。

 友達と笑いながら歩いている。

 亮介は綾音を探した。

 少し後ろのほうにいた。

 綾音は友達と何かを話していたが、亮介の姿に気づくと顔を上げた。

「あ、パパ」

 小走りで近づいてくる。

 亮介は、その姿を見た。

 娘がこちらへ向かってくる。

 まっすぐに。

 足を止めない。

 視線もそらさない。

 さっきまで舞台で緊張していたとは思えないほど、いつもの歩き方だった。

 亮介は、ほんの一瞬だけ足を止めた。

 いや、もともと立っていたのだから、止めたというのもおかしい。

 ただ、娘が近づいてくるのを見ていた。

「来てたんだ」

 綾音が言った。

「もちろん」

「見えたよ」

「そう?」

「うん。ママの隣にいた」

 綾音は少し得意そうに笑った。

「ちゃんと聞いてた?」

「聞いてたよ」

「どこ?」

「どこって?」

「わたしが読んだところ」

 亮介は笑った。

「全部聞いてた」

「ほんとに?」

「途中で紙が少しずれただろ」

 綾音の目が大きくなった。

「あ、見てたんだ」

「見てたよ」

「紙が手にくっついちゃって、ちょっと焦った」

「でも、ちゃんと読めてた」

「うん。先生にも言われた」

 綾音は嬉しそうに笑った。

 恵子が隣で頷いている。

「よかったね」

「うん」

 綾音はそれから亮介を見た。

「パパ、今日ちょっと変だった?」

 亮介は、思わず聞き返した。

「何が?」

「さっき、門のところにいたとき」

「門?」

「教室の窓から見えたの。ママが来る前かな。パパ、一人でずっと立ってたから」

 亮介は、校門の前に立っていたときのことを思い出した。

 保護者が何人も集まり、誰がどちらへ進むのかを気にしていた。

 列へ並ぼうとしても、向こうから人が来るたびに足が止まった。

 あの姿を、綾音は見ていたのか。

「ちょっと、開場まで時間があったから」

 亮介は答えた。

「そうなんだ」

 綾音はそれ以上気にしなかった。

 すぐに恵子へ向き直る。

「ねえ、わたし今日、途中で一回も間違えなかったよ」

「うん。上手だった」

「練習のときは二回間違えたんだけどね」

「そうなの?」

「そう。今日のほうがよかった」

 恵子と綾音が笑った。

 亮介も笑った。

 娘は、父親が校門の前で何を考えていたのか知らない。

 なぜ立ち止まっていたのかも知らない。

 それでも、ちゃんと見つけていた。

 教室の窓から、父親の姿を。

 亮介は、少し離れた校門のほうへ目を向けた。

 あのとき自分は、誰かが通り過ぎるのを待っていた。

 そのあいだに、娘は自分を見ていた。

 そんなこともあるのだと思った。

     *

「じゃあ、本屋行こうか」

 亮介が言うと、綾音の顔が明るくなった。

「うん!」

 恵子は腕時計を見た。

「私は買い物して帰るから。二人で行っておいで」

「いいの?」

 綾音が尋ねる。

「約束してたんでしょう」

「うん」

「じゃあ、夕方までには帰ってきてね」

 亮介は頷いた。

「分かった。送っていくよ」

「よろしく」

 恵子は綾音の髪を軽く整え、それから亮介を見た。

「今日は来てくれてありがとう」

「いや、約束してたから」

「そうだけど」

 恵子は少し笑った。

「綾音、朝から何回も時間を気にしてたから」

 亮介は娘を見た。

 綾音は、もう校門のほうを向いている。

 早く本屋へ行きたいらしい。

「じゃあ、また連絡する」

「うん。気をつけて」

 恵子は二人に手を振り、校舎の反対側へ歩いていった。

 亮介と綾音は並んで校門へ向かった。

 ほかの保護者たちも帰り始めている。

 小さな子どもを連れた人が前を歩き、別の家族がその横を通り過ぎる。

 亮介は一瞬、歩幅を緩めた。

 前から来た男性が、何かを探すように上着のポケットへ手を入れている。

 男性は道の端へ寄り、スマートフォンを取り出した。

 亮介は、その動きを見てしまった。

 足が止まりかける。

 しかし隣で、綾音が言った。

「パパ」

「ん?」

「あっちから行こう」

 娘が指さしたのは、学校の裏手へ続く細い道だった。

 小さな公園の横を通り、駅前の本屋へ抜けられる。

 亮介が普段、学校から駅へ戻るときにはあまり選ばない道だった。

「そっちのほうが近いの?」

「たぶん。今日、友達が教えてくれた」

 亮介は道の先を見た。

 向こうから、買い物袋を持った女性が歩いてくる。

 その少し後ろには、犬を連れた男性もいた。

 亮介は無意識に、足を止めようとした。

 しかし綾音が、もう歩き始めていた。

「ねえ、パパ。早く」

 娘の声がした。

 亮介は、その背中を見た。

 黄色い光が、綾音の髪留めに当たっていた。

 小さな髪留めが、歩くたびに少し揺れる。

 向こうから来る人たちは、まだ少し離れている。

 亮介は鞄を持ち直した。

「分かった。そっちから行こう」

 そう言って、娘のあとを追った。

 細い道へ入る直前、向こうから歩いてきた女性が足を緩めた。

 買い物袋の持ち手がねじれていたらしく、片手で直している。

 亮介はその動きに気づいた。

 女性は袋を持ち直し、道の端へ少し寄った。

 何も不自然ではない。

 よくある光景だった。

 亮介は、以前ならその場で足を止めていたかもしれないと思った。

 けれど綾音は、もう数歩先を歩いている。

 道の向こうから、娘の声が聞こえた。

「パパ、何の本買うか当ててみて」

 亮介は歩きながら考えた。

「漫画?」

「違う」

「じゃあ、小説かな」

「惜しい」

「惜しいって何だよ」

 綾音が笑った。

 亮介もつられて笑った。

 振り返ると、さっきの女性はもう歩き始めていた。

 買い物袋を提げ、何事もなかったように進んでいく。

 その後ろを、犬を連れた男性が歩いていた。

 誰もこちらを見ていない。

 亮介は前を向いた。

 綾音が、少し先で待っている。

「パパ、遅いよ」

「ああ、ごめん」

 亮介は歩幅を広げた。

 娘との距離が、少しずつ縮まる。

 その道を選んだのは、綾音だった。

 亮介はただ、娘のあとを歩いている。

 それだけなのに、今日はそのことが妙にありがたかった。

 校門のほうから、ほかの保護者たちの話し声が遠く聞こえてきた。

 道路の端には、金木犀の花がいくつか落ちている。

 踏まないように歩こうとして、亮介は少しだけ足の向きを変えた。

 自分で決めた、ほんの小さな動きだった。

 そのことを確かめるように、もう一歩進む。

 綾音が振り返った。

「ねえ、分かった?」

「まだ考えてる」

「ヒントあげようか」

「頼むよ」

 娘は少し得意そうに笑った。

 亮介はその顔を見ながら歩いた。

 向こうから誰かが来ていたことは、もう気にならなかった。

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