第12話 門の向こう
校門の手前で、瀬戸亮介は足を止めた。
時刻は午後一時三十二分。
開場まで、あと八分ある。
早く着きすぎたわけではなかった。
むしろ、少し余裕を持って来られたことに、亮介はようやく胸を撫で下ろしていた。
駅を出てから学校までの道では、何度か人とすれ違った。
買い物袋を提げた女性が、住宅の前で立ち止まった。
自転車を押していた男性が、道の端へ寄った。
小学生くらいの男の子が、友達を呼ぶために振り返った。
亮介は、そのたびに少しだけ歩幅を狭めたが、立ち止まらずに通り過ぎることができた。
昨日、高野と歩いたときの感覚を思い出していた。
先へ進む人がいる。
その人が歩いている方向へ、自分も進む。
たったそれだけのことだった。
ところが学校が見えてくると、足の運び方が分からなくなった。
正門の前には、保護者らしい人たちが十数人集まっていた。
立ち話をしている人。
腕時計を確かめている人。
入口に貼られた案内を読んでいる人。
小さな子どもを連れている人もいた。
亮介は、その集まりから少し離れた場所に立った。
校門の向こうには、黄色く色づき始めた銀杏の木が見えている。
枝の間から差し込む午後の日差しが、校舎の壁に細かな影を落としていた。風は朝より穏やかで、日向に立つと上着が少し暖かい。校庭の土は乾いており、金属製の門扉の近くには鉄と埃の混じった匂いが漂っていた。
建物の奥から、子どもたちの声が聞こえる。
何人かが同時に何かを言い、誰かが笑った。
そのあと、短い笛の音がした。
学校だった。
綾音が毎日通っている場所。
自分も何度か来たことがある。
以前、授業参観で訪れたときには、正門を入ってすぐの花壇に小さな札が立てられていた。
児童たちが植えた花の名前を書いたものだった。
綾音は、自分の担当した花をわざわざ教えてくれた。
あの花壇は、今も残っているだろうか。
亮介は門の奥をのぞいた。
花壇らしい場所は見えるが、そこに何が植えられているのかまでは分からない。
「瀬戸さん?」
声がした。
亮介は振り返った。
薄いベージュ色の上着を着た女性が、歩道の端に立っていた。
瀬戸恵子だった。
片手に小さな鞄を持ち、もう一方の手でスマートフォンをしまうところだった。
「早いね」
亮介が言うと、恵子は少し笑った。
「そっちこそ。もう来てるとは思わなかった」
「今日は余裕を持って出たから」
「そうなんだ」
恵子は学校の時計を見上げた。
校舎の壁に取り付けられた丸い時計は、一時三十四分を指している。
「まだ入れないみたいね」
「うん。四十分からだって」
「綾音、昨日も時間を何回も確認してたよ」
「そんなに楽しみにしてるの?」
「楽しみっていうか、間違えたくないんでしょうね」
恵子は肩に掛けた鞄の位置を直した。
「去年も、発表の前はあんな感じだったから」
亮介は頷いた。
綾音は何かを覚えるとき、間違えたところだけを何度も繰り返す癖がある。
算数の計算をしていた頃も、できた問題には目もくれず、間違った問題ばかり解き直していた。
恵子がもう十分だと言っても、納得するまでやめなかった。
誰に似たのだろうと考えかけて、亮介はやめた。
答えを聞かなくても、恵子に笑われる気がした。
「今日、五年生は何するんだっけ」
「合唱と朗読。案内にも書いてあったでしょう」
「ああ、そうだった」
「綾音は朗読のほうで、短いところを一人で読むらしいよ」
「そうなの?」
「知らなかったの?」
恵子は少し驚いた顔をした。
「聞いてなかったな」
「本人、言ってなかった?」
「発表があるってことは聞いてたけど」
「そう」
恵子はそれ以上何も言わなかった。
責められたわけではない。
ただ、綾音がどの部分を読むのか知らなかったという事実だけが、その場に残った。
亮介は校舎の窓を見上げた。
どの教室に娘がいるのか、今の自分には分からない。
ここへ来れば会える。
発表が始まれば姿も見られる。
そう思っていたのに、娘が今日何をするのかさえ、きちんと聞いていなかった。
「本屋にも行くんだって?」
恵子が言った。
「うん。約束した」
「何か欲しい本があるみたい」
「そうなんだ」
「まだタイトルは決めてないみたいだけどね。見てから選ぶって」
亮介は頷いた。
そのとき校門の前で、保護者たちが少し動き始めた。
学校の職員らしい女性が門の内側に立ち、受付の準備をしている。
何人かが先に並ぼうと歩き出した。
亮介の視線が、その人たちへ移った。
*
校門の前にできた列は、ゆっくりと伸びていった。
亮介と恵子は、少し離れたところからその様子を見ていた。
「並ぼうか」
恵子が言った。
「そうだね」
亮介は頷いた。
しかし、すぐには動かなかった。
前のほうでは母親らしい女性が子どもの上着を直している。
その隣で、男性が肩に掛けた鞄を持ち直した。
列の最後尾へ向かおうとする人が二人、こちらへ歩いてくる。
亮介は、一歩引いた。
相手の進路を空けるためだった。
二人は普通に通り過ぎた。
今度こそ列へ向かおうとしたところで、別の女性が歩いてきた。
女性は亮介の少し手前で足を緩め、持っていた案内用紙を開いた。
亮介は立ち止まった。
女性は用紙を見たあと、また歩き始めた。
その横を通り過ぎながら、亮介は自分の右足が地面へ触れた感覚を確かめた。
何も起こらなかった。
それなのに、もう次の一歩を出すのが遅れている。
「亮介?」
恵子の声がした。
亮介は顔を上げた。
「どうしたの」
「いや、ちょっと」
恵子は亮介の視線の先を見た。
「誰か探してる?」
「違うよ」
「じゃあ、行こう。列が伸びちゃう」
恵子は先へ歩き出した。
亮介はその背中を見た。
人と人のあいだを、恵子が自然に進んでいく。
向こうから来た男性が少し身体を傾け、恵子も同じように肩を引いた。
二人はそのまますれ違った。
何でもない光景だった。
亮介は恵子のあとを追った。
数歩進んだところで、向こうから子どもを連れた女性が来た。
亮介は足を緩めかけたが、恵子が振り返った。
「こっち」
彼女は列の最後尾を指さしている。
亮介は頷いた。
女性と子どもが横を通り過ぎる。
亮介は立ち止まらず、そのまま列へ向かった。
恵子の後ろへ並ぶ。
ようやく息を吐いた。
「どうしたの、本当に」
恵子が小さな声で尋ねた。
「何でもないよ」
「最近、少し変じゃない?」
亮介は彼女を見た。
「変?」
「歩くとき、周りばっかり見てる」
恵子はそう言って、亮介の足元へ視線を落とした。
「前はそんなことなかったでしょう」
亮介は答えられなかった。
恵子はしばらく待っていたが、やがて列の前方へ目を向けた。
「仕事、忙しいの?」
「まあ、少し」
「そう」
それ以上は聞かなかった。
亮介は、少しだけ肩の力を抜いた。
恵子は昔から、相手が話したくないことを無理に聞き出す人ではなかった。
ただ、何も気づいていないわけでもない。
そのことは、結婚していた頃からよく知っていた。
「綾音には、ちゃんと見てるって分かるようにしてあげてね」
恵子が言った。
「え?」
「今日の発表。あの子、たぶん客席を探すから」
亮介は校舎を見た。
窓の向こうに、誰かの影が動いた。
「うん」
少し遅れて答えた。
「分かってる」
*
体育館へ入ると、床に塗られたワックスの匂いがした。
入口では教師が受付をしており、保護者が一人ずつ名前を伝えている。
体育館の中には折り畳み椅子が並べられ、舞台には深い緑色の幕が下がっていた。天井近くの窓から午後の日差しが入り込み、床の上に細長い光の帯を作っている。
亮介は恵子と並んで、中央より少し後ろの席へ座った。
周囲では保護者たちが小さな声で話していた。
誰かがスマートフォンの電源を切る。
椅子の脚が床を擦る。
隣の席では、小さな子どもが母親に抱かれて眠っている。
普通の学校行事だった。
亮介は舞台を見た。
幕の向こうから子どもたちの声が聞こえてくる。
何かを確認しているらしい。
小さな笑い声が起こり、そのあと誰かが静かにするよう声をかけた。
「綾音、緊張してるかな」
亮介が言った。
「してると思うよ」
恵子は膝の上に案内用紙を置いた。
「昨日も家で何回も読んでたから」
「そうか」
「途中で言葉が出てこなくなったらどうしようって」
亮介は舞台を見たまま頷いた。
綾音が一人で読むところがある。
さっき聞いたばかりのことだった。
「間違えても大丈夫なのにね」
恵子が言った。
「そうだね」
「本人はそう思えないんでしょうけど」
亮介は、自分の靴先を見た。
朝から何度も確かめている足元だった。
つま先が少し擦り減っている。
革靴ではないので、光を反射するようなものでもない。
何も変わっていない。
明日になっても、この靴は同じ場所に置かれているのだろう。
それなのに、履いて歩くことだけが難しくなっている。
恵子が案内用紙をめくる音がした。
亮介は顔を上げた。
今は、靴のことを考える時間ではなかった。
*
午後二時。
舞台の幕が開いた。
最初に五年生の児童たちが並んで現れる。
背の高い子もいれば、まだ小柄な子もいる。
白いシャツに紺色のズボンやスカート。服装は揃っていないが、全体として似た色にまとまっていた。
亮介は綾音を探した。
前列の右から三番目。
恵子が小さく肘で合図した。
「あそこ」
「うん、見えた」
綾音は少し背筋を伸ばし、前を向いていた。
髪は肩のあたりで揃えてあり、右側だけ小さな髪留めで留めている。
いつの間にか、あんなものをつけるようになったのだろう。
以前は髪留めを嫌がっていた。
恵子が買ってきたものも、気に入らないと言って使わなかったことがある。
そのときのことを思い出して、亮介は少し口元を緩めた。
綾音が客席を見渡している。
目が、前列から後列へ動いた。
亮介は身を乗り出しかけた。
しかし、すぐにやめた。
周囲の人の邪魔になる。
そう考えたからだった。
綾音の視線が、こちらのほうへ移ってくる。
亮介は背筋を伸ばした。
舞台から自分の顔が見えるかどうかは分からない。
それでも、何となく姿勢を正した。
綾音の目が、一瞬止まった。
亮介は小さく手を上げた。
胸の高さまで。
周りの人には気づかれない程度だった。
綾音は、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったようにも見えた。
すぐに前を向き直る。
亮介は手を下ろした。
恵子が隣で何か言いかけたが、ちょうど教師が舞台の前へ出てきたため、二人とも黙った。
発表が始まった。
*
合唱は、思っていたよりもしっかりしたものだった。
子どもたちは指揮をする教師の手元を見ながら、声を揃えて歌った。
高い声と低い声が少しずつ重なり、体育館の天井へ広がっていく。
何人かは緊張しているのだろう。肩に力が入っていた。
歌いながら隣の子をちらりと見る児童もいる。
しかし、全員が前を向いているわけではないところが、かえって自然に見えた。
亮介は綾音を見つめていた。
娘の口が動く。
息を吸う。
隣の子と同じところで声を出す。
時折、少し遅れて音を合わせ直しているようにも見えた。
その動きが、亮介には妙にはっきりと見えた。
以前なら、全体の歌声を聞きながら、娘の姿を探すだけで終わっていただろう。
今は、一人ひとりの小さな動きが目に入る。
誰かが息を吸う。
誰かが肩を下げる。
隣の子が少し前へ出る。
そのたびに、身体の中で何かが引っかかるようだった。
けれど、ここでは誰も道を譲っていない。
歩いてもいない。
ただ、音楽に合わせて動いているだけだ。
亮介は膝の上で組んでいた手をほどいた。
自分が何を見ているのか、もう少し考えないようにしたかった。
綾音の声が聞こえる。
大勢の声に混ざっていて、どれが娘の声なのかは分からない。
それでも、あの中に確かにいる。
そのことだけでよかった。
歌が終わると、拍手が起こった。
亮介も手を叩いた。
隣の恵子が、少し前のめりになって舞台を見ていた。
綾音たちは一度お辞儀をし、次の発表の準備へ移った。
*
朗読は、数人ずつに分かれて行われた。
児童たちが前へ出て、順番に短い文章を読む。
それぞれの声が少しずつ違う。
大きな声で読む子もいれば、緊張して早口になる子もいる。
亮介は、綾音の順番が近づくにつれて、自分の指先が膝の上で動いていることに気づいた。
娘よりも、自分のほうが落ち着かないのかもしれなかった。
綾音の前にいた男子児童が読み終えた。
次の子が一歩前へ出る。
綾音だった。
亮介は息を吸った。
娘は用紙を持っていたが、最初からそれを見ていたわけではない。
一度だけ客席へ目を向け、それから紙へ視線を落とした。
短い沈黙。
亮介は、その間に自分の心臓の音が聞こえる気がした。
綾音が読み始めた。
声は思っていたより大きかった。
家で話すときとは少し違う。
言葉を一つずつ確かめるように、ゆっくり読んでいる。
途中で一度だけ、紙の端が指に引っかかった。
綾音の右手が小さく動く。
用紙が少しずれる。
亮介は思わず身を乗り出しかけた。
しかし、綾音はそのまま読み続けた。
何も起こらなかった。
言葉が途切れることもなく、最後まで読んだ。
読み終えると、少しだけ頭を下げて元の位置へ戻る。
亮介は手を叩いた。
自分がいつから息を止めていたのか分からなかった。
「上手だったね」
小さな声で言うと、恵子が頷いた。
「うん。よくできた」
亮介は舞台を見た。
綾音はもう次の子の発表を聞いている。
少し肩の力が抜けたように見えた。
あの子は、今どんなことを考えているのだろう。
ちゃんと読めたと思っているのか。
それとも、途中で紙がずれたことを気にしているのか。
あとで聞いてみよう。
亮介はそう思った。
帰り道のことでも、駅までの距離でもない。
娘が、今どう感じているのか。
それを聞いてみたかった。
*
発表が終わったのは、午後二時四十分を少し過ぎた頃だった。
体育館の外では、保護者たちが子どもを待っている。
廊下の窓は少し開いており、校庭から乾いた土の匂いが入ってきた。午後の日差しは弱くなり始めていたが、校舎の白い壁にはまだ明るい光が残っている。
亮介と恵子は、人の流れから少し離れたところで綾音を待っていた。
やがて、五年生の児童たちが教室のほうから現れた。
友達と笑いながら歩いている。
亮介は綾音を探した。
少し後ろのほうにいた。
綾音は友達と何かを話していたが、亮介の姿に気づくと顔を上げた。
「あ、パパ」
小走りで近づいてくる。
亮介は、その姿を見た。
娘がこちらへ向かってくる。
まっすぐに。
足を止めない。
視線もそらさない。
さっきまで舞台で緊張していたとは思えないほど、いつもの歩き方だった。
亮介は、ほんの一瞬だけ足を止めた。
いや、もともと立っていたのだから、止めたというのもおかしい。
ただ、娘が近づいてくるのを見ていた。
「来てたんだ」
綾音が言った。
「もちろん」
「見えたよ」
「そう?」
「うん。ママの隣にいた」
綾音は少し得意そうに笑った。
「ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ」
「どこ?」
「どこって?」
「わたしが読んだところ」
亮介は笑った。
「全部聞いてた」
「ほんとに?」
「途中で紙が少しずれただろ」
綾音の目が大きくなった。
「あ、見てたんだ」
「見てたよ」
「紙が手にくっついちゃって、ちょっと焦った」
「でも、ちゃんと読めてた」
「うん。先生にも言われた」
綾音は嬉しそうに笑った。
恵子が隣で頷いている。
「よかったね」
「うん」
綾音はそれから亮介を見た。
「パパ、今日ちょっと変だった?」
亮介は、思わず聞き返した。
「何が?」
「さっき、門のところにいたとき」
「門?」
「教室の窓から見えたの。ママが来る前かな。パパ、一人でずっと立ってたから」
亮介は、校門の前に立っていたときのことを思い出した。
保護者が何人も集まり、誰がどちらへ進むのかを気にしていた。
列へ並ぼうとしても、向こうから人が来るたびに足が止まった。
あの姿を、綾音は見ていたのか。
「ちょっと、開場まで時間があったから」
亮介は答えた。
「そうなんだ」
綾音はそれ以上気にしなかった。
すぐに恵子へ向き直る。
「ねえ、わたし今日、途中で一回も間違えなかったよ」
「うん。上手だった」
「練習のときは二回間違えたんだけどね」
「そうなの?」
「そう。今日のほうがよかった」
恵子と綾音が笑った。
亮介も笑った。
娘は、父親が校門の前で何を考えていたのか知らない。
なぜ立ち止まっていたのかも知らない。
それでも、ちゃんと見つけていた。
教室の窓から、父親の姿を。
亮介は、少し離れた校門のほうへ目を向けた。
あのとき自分は、誰かが通り過ぎるのを待っていた。
そのあいだに、娘は自分を見ていた。
そんなこともあるのだと思った。
*
「じゃあ、本屋行こうか」
亮介が言うと、綾音の顔が明るくなった。
「うん!」
恵子は腕時計を見た。
「私は買い物して帰るから。二人で行っておいで」
「いいの?」
綾音が尋ねる。
「約束してたんでしょう」
「うん」
「じゃあ、夕方までには帰ってきてね」
亮介は頷いた。
「分かった。送っていくよ」
「よろしく」
恵子は綾音の髪を軽く整え、それから亮介を見た。
「今日は来てくれてありがとう」
「いや、約束してたから」
「そうだけど」
恵子は少し笑った。
「綾音、朝から何回も時間を気にしてたから」
亮介は娘を見た。
綾音は、もう校門のほうを向いている。
早く本屋へ行きたいらしい。
「じゃあ、また連絡する」
「うん。気をつけて」
恵子は二人に手を振り、校舎の反対側へ歩いていった。
亮介と綾音は並んで校門へ向かった。
ほかの保護者たちも帰り始めている。
小さな子どもを連れた人が前を歩き、別の家族がその横を通り過ぎる。
亮介は一瞬、歩幅を緩めた。
前から来た男性が、何かを探すように上着のポケットへ手を入れている。
男性は道の端へ寄り、スマートフォンを取り出した。
亮介は、その動きを見てしまった。
足が止まりかける。
しかし隣で、綾音が言った。
「パパ」
「ん?」
「あっちから行こう」
娘が指さしたのは、学校の裏手へ続く細い道だった。
小さな公園の横を通り、駅前の本屋へ抜けられる。
亮介が普段、学校から駅へ戻るときにはあまり選ばない道だった。
「そっちのほうが近いの?」
「たぶん。今日、友達が教えてくれた」
亮介は道の先を見た。
向こうから、買い物袋を持った女性が歩いてくる。
その少し後ろには、犬を連れた男性もいた。
亮介は無意識に、足を止めようとした。
しかし綾音が、もう歩き始めていた。
「ねえ、パパ。早く」
娘の声がした。
亮介は、その背中を見た。
黄色い光が、綾音の髪留めに当たっていた。
小さな髪留めが、歩くたびに少し揺れる。
向こうから来る人たちは、まだ少し離れている。
亮介は鞄を持ち直した。
「分かった。そっちから行こう」
そう言って、娘のあとを追った。
細い道へ入る直前、向こうから歩いてきた女性が足を緩めた。
買い物袋の持ち手がねじれていたらしく、片手で直している。
亮介はその動きに気づいた。
女性は袋を持ち直し、道の端へ少し寄った。
何も不自然ではない。
よくある光景だった。
亮介は、以前ならその場で足を止めていたかもしれないと思った。
けれど綾音は、もう数歩先を歩いている。
道の向こうから、娘の声が聞こえた。
「パパ、何の本買うか当ててみて」
亮介は歩きながら考えた。
「漫画?」
「違う」
「じゃあ、小説かな」
「惜しい」
「惜しいって何だよ」
綾音が笑った。
亮介もつられて笑った。
振り返ると、さっきの女性はもう歩き始めていた。
買い物袋を提げ、何事もなかったように進んでいく。
その後ろを、犬を連れた男性が歩いていた。
誰もこちらを見ていない。
亮介は前を向いた。
綾音が、少し先で待っている。
「パパ、遅いよ」
「ああ、ごめん」
亮介は歩幅を広げた。
娘との距離が、少しずつ縮まる。
その道を選んだのは、綾音だった。
亮介はただ、娘のあとを歩いている。
それだけなのに、今日はそのことが妙にありがたかった。
校門のほうから、ほかの保護者たちの話し声が遠く聞こえてきた。
道路の端には、金木犀の花がいくつか落ちている。
踏まないように歩こうとして、亮介は少しだけ足の向きを変えた。
自分で決めた、ほんの小さな動きだった。
そのことを確かめるように、もう一歩進む。
綾音が振り返った。
「ねえ、分かった?」
「まだ考えてる」
「ヒントあげようか」
「頼むよ」
娘は少し得意そうに笑った。
亮介はその顔を見ながら歩いた。
向こうから誰かが来ていたことは、もう気にならなかった。




