第13話 本屋まで
「小説じゃないけど、お話の本」
綾音はそれだけ言って、楽しそうに前を向いた。
「それ、ヒントになってる?」
「なってるよ。けっこう大ヒント」
瀬戸亮介は娘の少し後ろを歩きながら、思いつくものを探した。
「昔話?」
「違う」
「伝記とか」
「もっと違う」
「じゃあ、分からないな」
「パパ、すぐ諦める」
綾音が振り返り、肩の高さで両手を広げた。
その拍子に、右側の髪留めが少し傾いた。
亮介はそれを教えようとして、やめた。本人は気にしていないらしいし、歩きながら直させるほどのことでもない。
学校の裏手から続く道は、大人が二人並べば少し肩を寄せる程度の幅だった。
塀の上から枝を伸ばした金木犀は花の盛りを過ぎ、道路の端に橙色の粒がいくつも散っている。午後三時を回った陽はまだ暖かかったが、建物の影へ入ると腕に薄い冷気が触れた。どこかの家から洗濯石鹸の匂いが漂い、遠くでは車の後退を知らせる電子音が繰り返されていた。
「絵本かな」
亮介が言うと、綾音が足を止めた。
「当たり!」
「絵本?」
「うん。そんなに変?」
「いや。ちょっと意外だっただけ」
綾音は再び歩き始めた。
「学校で一年生に読むんだよ。図書委員が」
「へえ、そういうことするんだ」
「前からやってるよ」
「ああ、そうか」
「パパ、知らなかった?」
「聞いたことはある気がする」
綾音がこちらを見た。
「それ、知らないときの言い方だよね」
亮介は笑った。
「そうだな。知らなかった」
「じゃあ、今日覚えたね」
娘はそれで納得したらしく、また前を向いた。
亮介も歩幅を少し広げた。
途中で向こうから来た女性が、門の前で郵便受けをのぞき込んだ。亮介はその動きを見たが、足を止めずに通り過ぎることができた。
女性は何かを取り出して、家の中へ戻っていった。
綾音は気づいていない。
気にする必要のない光景だった。
「学校の図書室にも絵本はあるんじゃないの?」
亮介が尋ねる。
「あるけど、みんな同じの選ぶんだもん。それに借りた本は日にちが来たら返さなきゃいけないし」
「自分のが欲しいのか」
「うん。何回も読んで練習したいから」
「なるほど」
「先生がね、字を読むのと、お話を聞かせるのは違うって言ってた」
綾音は、そこだけ少し声を変えた。
先生の真似をしているらしい。
「どう違うんだ?」
「えっとね」
娘は考え込んだ。
歩く速度がわずかに落ちる。
亮介はそれに合わせて歩幅を縮めた。
「読むだけだと、早く終わっちゃうんだって。ちゃんと聞いてる子の顔を見ないと」
「それは難しそうだな」
「だから練習するの」
綾音はそう言い、自分で納得したように頷いた。
亮介は娘の横顔を見た。
以前、家で宿題をしていた頃は、音読の途中で分からない漢字が出てくると、すぐこちらを見ていた。
今は人前で読むための練習を、自分からしようとしている。
知らないあいだに、ずいぶん変わったものだ。
そう思ってから、知らないのは自分が一緒にいない時間のほうが長いからだと気づいた。
綾音は毎日、昨日とは少し違うことを覚えているのだろう。
その一つひとつを、亮介が見ているわけではない。
*
「パパ、ここ曲がるんだよ」
綾音が指さしたのは、二階建ての古い住宅と小さな駐車場のあいだだった。
駅へ向かうなら、もう少しまっすぐ進んだほうが分かりやすい。
「こっち?」
「うん。公園の反対側に出られる」
「よく知ってるね」
「晴香と通ったことあるから」
亮介は道の先を確かめた。
曲がった先には低いフェンスが見え、その向こうに滑り台の屋根がのぞいている。
先日、綾音がメッセージで尋ねてきた公園だった。
亮介は、そのときのやり取りを思い出した。
学校の裏の小さな公園を知っているか。
あの辺りを歩くことがあるか。
たしか、そんなことを聞かれた。
「この公園、まだ遊ぶ子がいるんだな」
「そりゃいるよ」
「いや、前に来たときとあまり変わってないなと思って」
「ブランコは新しくなったよ」
「そうなの?」
「うん。前のは座るところが青だったけど、今は緑」
亮介はフェンスの向こうを見た。
確かに、ブランコの座面は緑色だった。
前に何色だったのかは覚えていない。
「よく覚えてるな」
「毎日見てたら覚えるよ」
綾音は何でもないことのように答えた。
フェンスに沿って歩くと、公園の中から小さな子どもの声が聞こえてきた。
三輪車を押している男の子と、その母親らしい女性がいる。男の子はハンドルを何度も左右へ切り、タイヤを砂の上で滑らせていた。
母親は少し離れたベンチに座り、スマートフォンを見ている。
やがて男の子が三輪車を止めた。
「ママ、こっち!」
母親が顔を上げる。
「はいはい。今行くよ」
女性はスマートフォンを鞄へしまい、立ち上がった。
亮介はその動きを見ていた。
足を止めた子ども。
立ち上がった母親。
何の問題もない光景だった。
子どもが呼んだから、母親が動いた。
それだけだ。
「パパ?」
綾音が呼んだ。
亮介は顔を上げた。
娘は少し先で待っていた。
「どうしたの。また何か見てる?」
「いや、公園が懐かしくて」
「ふうん」
綾音は納得したような、していないような顔だった。
亮介が追いつくと、再び歩き出す。
「ここ、春になると桜きれいなんだよ」
「そうだっけ」
「知らないことばっかりだね」
亮介は笑った。
「そうだな」
綾音も笑った。
嫌味で言ったわけではなさそうだった。
ただ、その言葉は思ったより長く胸に残った。
*
駅前の本屋は、亮介が覚えていた店と少し違っていた。
以前は入口の横に雑誌が積まれ、奥に文房具売り場があったはずだが、今は雑誌の棚が小さくなり、入口近くには児童書が並べられている。
明るい照明に照らされた店内には、新しい紙とインクの匂いが満ちていた。床には薄い木目模様があり、歩くたびに靴底がかすかな音を立てる。天井から流れる穏やかな音楽に混じって、奥のレジではバーコードを読み取る電子音が聞こえていた。
「あれ、こんなところに絵本の棚があったっけ」
亮介が言うと、綾音がこちらを見た。
「ずっと前からあるよ」
「そうなの?」
「パパ、いつぶり?」
「いつだろう」
「わたしが三年生のとき、一回来たよね」
「ああ、そうだったか」
「そのときは文房具見たんだよ。覚えてない?」
亮介は店内を見回した。
三年生のとき。
二年ほど前になるだろうか。
何を買ったのかまでは思い出せない。
「消しゴム?」
「違う。色ペン」
「そうだ、色ペンだ」
「今、思い出したでしょ」
綾音が笑った。
亮介も笑い返した。
ただ、確かな記憶が戻ってきたわけではなかった。
娘が色ペンを欲しがっていたことは覚えている。
けれど、この店で買ったのか、別の文房具店だったのか。
どちらだっただろう。
綾音はすでに絵本の棚へ向かっていた。
亮介はそのあとを追った。
棚の前には、小さな子どもと父親らしい男性が立っている。
子どもは本を一冊取り出し、床に座り込みそうになって父親に止められていた。
「ここじゃ読めないよ。立って見よう」
父親が言う。
子どもは本を抱えたまま立ち上がった。
亮介は少し離れて待った。
しかし、綾音は二人の横を通り、目的の棚へまっすぐ進んでいった。
「パパ、こっち」
「うん」
亮介もあとに続いた。
父親が子どもを少し自分の側へ寄せた。
亮介は反射的に歩調を緩めたが、相手の横には十分な幅がある。
そのまま通り過ぎた。
背後で子どもの声がした。
「これ買って」
「最後まで見てから決めよう」
やり取りが、すぐに店内の音楽へ紛れた。
*
綾音は棚の前で、三冊の絵本を抱えていた。
「この中から選ぼうと思うんだけど」
「どれがいいの?」
「それが分かんないから来たんじゃん」
「そうだった」
亮介は一冊を受け取った。
厚い表紙に、大きな青い鳥が描かれている。
ページを開くと、最初は短い文章だけだった。
次のページには、鳥が小さな島の上を飛ぶ絵があった。
「絵がきれいだな」
「うん。でも一年生には、ちょっと難しいかも」
「そうか」
「こっちは字が少ない」
綾音が別の本を見せた。
赤い屋根の家が描かれている。
ページをめくると、登場する動物が一匹ずつ増えていく仕掛けになっていた。
「楽しそうじゃない?」
「これなら分かりやすそうだね」
「でも、前に読んだ子がいるかも」
綾音は眉を寄せた。
亮介はもう一冊を手に取った。
表紙には、小さな船と夜の海が描かれている。
波の間に灯りがいくつも浮かんでいた。
「これは?」
「ちょっと長いんだよね」
綾音は絵本を受け取り、途中のページを開いた。
「でも、ここの絵が好き」
暗い海に、小さな灯りが一つある。
その先には、まだ何も描かれていなかった。
「きれいだね」
「うん」
綾音は絵を見つめた。
「でも、読む時間が足りなくなるかもしれない」
「何分くらいなの?」
「五分」
「じゃあ、一回声に出して読んでみたら?」
「ここで?」
「いや、家で」
綾音は少し考えた。
「そうだね」
三冊を見比べる。
どれも気に入っているらしい。
亮介は急かさずに待った。
最初のうちは、娘が自分で決めるまで待っていればいいと思っていた。
そのうち、時計を確かめたくなった。
店を出る時間。
駅まで歩く時間。
綾音を家へ送る時間。
頭の中で勝手に計算が始まる。
しかし今日は急いでいなかった。
恵子にも、夕方までに帰ると伝えてある。
何時何分に店を出なければならないという約束はない。
亮介は腕時計へ伸ばしかけた手を下ろした。
綾音がページをめくっている。
その指先を、しばらく眺めていた。
小さな頃は本をめくるとき、何枚もまとめてつまんでしまうことがあった。
今は一枚ずつ、丁寧にめくっている。
「パパは、どれがいいと思う?」
綾音が尋ねた。
「そうだな」
亮介は三冊を見比べた。
「一年生に読むなら、これがよさそうだけど」
赤い屋根の絵本を指さす。
「綾音が一番読みたいのは、どれ?」
娘は少し考えてから、夜の海の絵本へ手を伸ばした。
「これ」
「じゃあ、これにしたら?」
「でも、五分で読めないかも」
「練習してみて、難しかったら別のを選んでもいいんじゃないかな」
「また買うの?」
「いや、図書室で借りるとか」
綾音が笑った。
「パパ、最初に言ったこと忘れてる」
亮介も笑った。
「そうだった。自分の本が欲しいんだったな」
綾音は夜の海の絵本を胸に抱えた。
「これにする」
「決まった?」
「うん」
亮介は頷いた。
何を買うか決まるまで、二十分以上かかっていた。
けれど、不思議と長く感じなかった。
*
店を出た頃には、午後四時を過ぎていた。
駅前の通りには夕方の買い物客が増え、店先の明かりが少しずつ目立ち始めている。
綾音は紙袋を両手で持ち、歩きながら何度も中をのぞこうとしていた。
「歩きながら見なくても、家で読めるだろ」
「分かってるよ」
綾音は袋を胸の前へ戻した。
亮介は娘の歩幅に合わせて歩いた。
駅の近くでは人が多かったが、先ほどのように一人ひとりの足元を確かめる余裕はなかった。
綾音が話しかけてくるからだった。
学校の図書委員には六年生もいること。
発表の練習で友達が言葉を間違え、全員で笑ってしまったこと。
教室の窓から見える家で、最近猫を飼い始めたらしいこと。
話はあちこちへ飛んだ。
亮介は聞きながら歩いた。
相槌を打ち、ときどき尋ねる。
娘の話が別の話へ変わるたび、さっきまで何について話していたのか分からなくなることもあった。
けれど、綾音は気にしていないらしい。
「それでね、晴香が言ったの」
「何を?」
「だから、猫の名前」
「ああ、猫か」
「パパ、聞いてた?」
「聞いてたよ」
「じゃあ、名前は?」
「まだ聞いてないだろ」
「今から言うところだった」
綾音が笑った。
亮介も笑った。
そのとき、横道から一人の男性が出てきた。
細い道が合流する場所だった。
男性は片手でスマートフォンを持ち、もう一方の手で上着のポケットを探っている。
亮介と進路が重なる直前、男性の歩幅が小さくなった。
左手がポケットの奥へ入る。
鍵束のような金属音がした。
男性は道端へ寄り、何かを確かめ始めた。
亮介は、その動きに気づいた。
足が止まりかける。
しかし綾音が、すぐ隣で話し続けていた。
「それでね、名前が全然猫っぽくないんだよ」
「へえ」
「何だと思う?」
亮介は前を向いた。
道の端には男性がいる。
スマートフォンを片手に、ポケットから何かを取り出そうとしていた。
亮介が通るだけの場所は空いている。
娘は普通に歩いている。
「タマとか?」
「それ、猫っぽいじゃん」
「そうか」
「正解はね、社長」
「社長?」
「そう。猫なのに社長」
綾音が声を上げて笑った。
亮介もつられて笑った。
二人は男性の横を通り過ぎた。
男性は何も言わなかった。
亮介も声をかけなかった。
しばらく進んだところで、亮介は少しだけ振り返った。
男性はもう歩いている。
手には鍵束が握られていた。
その光景を見て、亮介は前を向いた。
いつもなら、何秒立ち止まっていたのかを考えただろう。
今は、綾音が次に何を話すのかを聞き逃したくなかった。
*
恵子の家が見えてきた頃、空は薄い青から灰色へ変わり始めていた。
住宅街の窓には明かりが灯り、夕食の支度をする匂いが流れている。遠くで犬が一度だけ吠え、そのあと静かになった。
綾音は玄関の前で足を止めた。
「今日はありがとう」
「どういたしまして」
「本、ちゃんと練習するね」
「うん。頑張って」
綾音は紙袋を持ち上げた。
「パパも読んでみる?」
「俺が?」
「うん。今度、どこがよかったか教えて」
亮介は少し驚いた。
買ってあげた本の感想を求められるとは思っていなかった。
「読んでみたいな」
「じゃあ、貸してあげる」
「綾音が練習終わったらでいいよ」
「うん」
娘は頷いた。
それから、玄関の鍵を取り出そうとポケットへ手を入れた。
鍵が見つからず、もう一方のポケットも探る。
「あれ?」
「鞄じゃない?」
「あ、そうだった」
綾音は肩に掛けた小さな鞄を開き、鍵を取り出した。
亮介はその一連の動きを見ていた。
ポケットを探る。
見つからない。
鞄を開く。
鍵が出てくる。
どこにでもある光景だった。
娘は亮介に向かって笑った。
「忘れてた」
「よくあるよ」
亮介も笑った。
綾音は鍵を差し込み、玄関の扉を開けた。
「じゃあね、パパ」
「うん。またね」
扉が閉まる。
亮介は、しばらくその前に立っていた。
娘が鍵を探した時間は、ほんの数秒だった。
あれを見ても、さっきまでは何も感じなかった。
けれど、一人になるとまた気になってきた。
自分の前で、誰かが小さな用事を思い出す。
その人は立ち止まり、用事を済ませる。
自分が通り過ぎると、また歩き出す。
綾音が鍵を探したのは、家へ入るためだった。
誰かとすれ違うためではない。
その違いは分かっている。
それでも、目の前で起きた動きを、どこまで普通として受け取ればいいのか分からなくなっていた。
亮介は玄関の明かりを見た。
扉の向こうで、綾音が恵子に何かを話しているらしい。
笑い声が聞こえた。
その声を聞いて、亮介はようやく歩き出した。
駅へ戻る道は、もう暗くなり始めている。
人通りは少なかった。
亮介はゆっくり歩いた。
今日は、何度も立ち止まらずに済んだ。
それが綾音と一緒だったからなのか、それともたまたまだったのかは分からない。
ただ、娘が隣にいるあいだ、自分がどの道を選んでいるのかを、ほとんど考えなかった。
綾音が曲がれば曲がり、止まれば止まり、話しかけられれば答えた。
それだけのことだった。
亮介は、駅へ向かう角で一度立ち止まった。
正面には、いつもの大通りがある。
左には、住宅街を抜ける細い道が続いている。
どちらからでも駅へ行ける。
少し考えて、いつもの大通りへ進んだ。
角を曲がったところで、向こうから来た男性が道の端へ寄った。
男性はスマートフォンを取り出し、画面を確認している。
亮介はその横を通り過ぎた。
少し先で振り返ると、男性はもう歩き始めていた。
亮介は、もう一度だけ娘の声を思い出した。
『パパ、聞いてた?』
聞いていた。
今日は、ちゃんと。
そう思いながら、駅へ向かって歩いた。




