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通らない道  作者: asnt2026


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14/30

第14話 私も止まった

紙の角が、浜野理沙の腕から少しだけはみ出していた。

 クリップで留めたはずの資料だった。

 薄い透明なファイルの中に、道路使用に関する申請書が何枚か重なっている。上の一枚が斜めになり、風を受けるたびに端が小さく揺れていた。

 理沙はそれに気づいていた。

 ただ、庁舎へ戻ってから直せばいいと思っていた。

 別館での打ち合わせを終え、午後三時の会議に間に合わせようと歩いていたところだった。

 月曜日の午後二時四十七分。

 市役所の本館と別館のあいだには、小さな駐車場がある。

 職員が行き来する通路はその脇を通っており、花壇の端に置かれた低い柵のところで二つの動線が交わっていた。

 理沙は別館から本館へ向かって歩いていた。

 少し先では、瀬戸亮介が駐車場のほうからやってくる。

 彼も本館へ戻るところらしかった。

 理沙は片手を軽く上げた。

「瀬戸さん、お疲れさまです」

 亮介がこちらを見た。

「お疲れさま」

「もう戻られるんですか」

「うん。西町の現場が早く終わったから」

 二人の進む方向は違っていた。

 亮介は駐車場から本館の通用口へ直進しようとしている。

 理沙は花壇の角を斜めに横切って、同じ建物の正面側へ回るつもりだった。

 そのまま歩けば、二人は数歩先の柵の切れ目で進路を交えることになる。

 理沙は亮介の位置を確かめた。

 すれ違うというより、どちらかが先に通る形になりそうだった。

 ちょうどそのとき、腕に抱えた資料が風で少し持ち上がった。

 上の一枚が、ぱた、と音を立てる。

 理沙は視線を落とした。

 クリップが、紙の端まできちんと届いていない。

 さっきから気になっていたところだった。

 直しておこう。

 そう思い、理沙は足を止めた。

 左腕でファイルを支え、右手で紙の角を押さえる。

 紙が一枚、少しずれた。

 親指を入れて揃え直す。

 クリップを外し、もう一度深く留める。

 その横を、亮介が通り過ぎた。

 理沙は顔を上げた。

「あ、すみません」

「いや」

 亮介は足を緩めながら、こちらを見ていた。

「大丈夫?」

「はい。ちょっと紙がずれただけなので」

 理沙はファイルを胸に抱え直した。

 紙はもう揃っている。

 再び歩こうとしたところで、亮介がまだ動いていないことに気づいた。

「瀬戸さん?」

 彼は、理沙の手元を見ていた。

「今、止まったよね」

 理沙は瞬きをした。

「ええ」

「資料を直すために」

「はい」

 亮介は少しだけ視線を落とした。

 駐車場の端で、車のドアが閉まる音がした。

 そのあと、二人の間に短い沈黙が残った。

「俺が来る前から、気になってた?」

 亮介が尋ねた。

 理沙はファイルを見た。

 クリップの位置。

 少し折れた紙の角。

 上から二枚目には、赤い付箋が貼られている。

「気になってましたよ」

「そうか」

「別館を出たときから、少しずれてたので」

 亮介は頷いた。

 それ以上、何も言わなかった。

 しかし、歩き出そうともしなかった。

 理沙は腕時計を見た。

 午後二時四十九分。

 会議まで十一分ある。

 急げば十分に間に合う時間だった。

 それでも彼女は、すぐには歩き出さなかった。

「瀬戸さん」

「うん」

「私、今ここで止まりましたね」

 亮介は顔を上げた。

「そうだね」

「あなたと進路が重なるところで」

 言いながら、理沙はもう一度、自分が歩いてきた方向を振り返った。

 別館の出口から、柵の切れ目まで。

 資料がずれていたのは、もっと手前からだった。

 直すつもりもあった。

 けれど、実際に足を止めたのは、亮介が通る少し前だった。

「たまたまかもしれません」

 理沙は言った。

 亮介は頷いた。

「そうだね」

 その返事が、普段よりもずっと静かに聞こえた。

     *

 空は朝から晴れていた。

 十月の半ばに入り、昼間の陽射しにも少しずつ冬の硬さが混じり始めている。駐車場の白線は明るく照らされているのに、庁舎の影へ入ると足元が急に冷えた。植え込みから乾いた土の匂いが漂い、落ち葉が一枚、二人の間を転がっていった。

 理沙はその落ち葉を見送り、ファイルを持ち直した。

「先に戻りますね」

「ああ。会議だったよね」

「はい」

 亮介が通路の端へ寄った。

 今度は理沙が先に歩く。

 二人は互いに頭を下げ、別々の入口へ向かった。

 理沙は本館の自動ドアを通り、エレベーターの前まで歩いた。

 そこへ着いてから、ようやく資料をもう一度確かめた。

 クリップはきちんと留まっている。

 上の紙もずれていない。

 直してよかった。

 そう思った。

 そのはずだった。

 なのに、クリップを見ているうちに、別のことが気になり始めた。

 自分はあのとき、急いでいた。

 会議に間に合うように、本館へ向かっていた。

 資料の端が少しずれていたことには気づいていたが、歩きながらでも押さえられる程度だった。

 それなのに、わざわざ足を止めてクリップを外した。

 どうしてだろう。

 紙が落ちそうになったから。

 理由は、はっきりしている。

 クリップが浅く留まっていたから。

 それも、事実だった。

 理沙はファイルを開いた。

 上の紙には、右上に小さな折れ目がある。

 先ほど、自分の指で押さえた跡だった。

 何もおかしくない。

 むしろ、資料を落とさずに済んだのだから、正しい判断だった。

 エレベーターが到着する。

 扉が開き、中から二人の職員が出てきた。

 理沙は脇へ寄り、二人を先に通した。

 そのあとエレベーターへ乗る。

 扉が閉まりかけたとき、理沙は自分が今、自然に道を譲ったことに気づいた。

 亮介は近くにいない。

 相手が降りるのを待っただけだ。

 普通の行動だった。

 分かっている。

 それでも、すぐにそう考え直さなければならなかったことが、少し気にかかった。

     *

 会議が終わったのは午後四時十分だった。

 理沙は資料を整理し、使い終えたホワイトボードの文字を消した。

 黒いマーカーの跡が薄く残る。

 一度では消えず、布を折り直してもう一度拭いた。

 ほかの職員が会議室から出ていく。

 最後の一人が扉を閉めると、室内には空調の低い音だけが残った。

 理沙はファイルを開き、午後の打ち合わせで使った紙を抜き出した。

 そのとき、指が止まった。

 先ほどの折れ目が見えた。

 右上の小さな三角形。

 自分が押さえた跡だった。

 理沙は紙を机へ置いた。

 ポケットから手帳を取り出す。

 普段、打ち合わせの内容を記録しているものだった。

 新しいページを開き、時刻を書いた。

 十四時四十八分頃。

 それから少し考え、続きを記入する。

『本館・別館間の通路で、資料のずれを直すため停止』

 そこまで書いて、ペンが止まった。

 これは事実だ。

 間違っていない。

 では、その次に何を書くべきだろう。

『瀬戸さんが近づいていた』

 そのことも事実だった。

 理沙は一行下へ書き込んだ。

 二つの文章を見比べる。

 どちらも、それだけなら何の意味も持たない。

 しかし、並べると別のものに見えてくる。

 紙を直したために止まった。

 亮介が近づいたために止まった。

 どちらも同じ行動を説明しているようで、意味はまったく違う。

 理沙はペンを置いた。

 自分が止まった理由は、分かっている。

 資料を直したかった。

 それ以上のことはない。

 では、なぜあの場所で直そうと思ったのか。

 理沙は手帳を閉じた。

 どれほど考えても、答えが出るようには思えなかった。

     *

 亮介から電話があったのは、午後五時前だった。

 理沙は廊下の端へ移動し、電話に出た。

「浜野です」

『瀬戸です。今、少し大丈夫?』

「はい」

 亮介は少し黙っていた。

 電話の向こうから、紙をめくる音が聞こえる。

『さっきのことなんだけど』

「はい」

『資料を直したとき、本当に紙がずれてたんだよね』

 理沙は廊下の窓へ目を向けた。

 外はもう薄暗くなり始めていた。

「ずれてましたよ。折れ目も残ってます」

『そうか』

「何か気になります?」

 亮介はすぐに答えなかった。

『俺が近づいたから、止まったんじゃないかって』

 理沙は電話を持つ手に少し力を入れた。

 自分でも、同じことを考えていた。

 けれど、それを他人の口から聞くと、思っていたよりも重く感じられた。

「瀬戸さん」

『うん』

「それは、まだ分からないですよね」

『そうだね』

「私は、紙がずれてたから止まりました。それは本当です」

『うん』

「そこを疑われると、ちょっと困ります」

 電話の向こうが静かになった。

 理沙は、言い方が少し強かったかもしれないと思った。

 けれど、言い直す気にはなれなかった。

 自分がしたことを、全部ほかの原因で説明されるのは違う気がした。

 紙を直したのは自分だ。

 止まろうと思ったのも自分だった。

 その瞬間に何か別の力が働いていたとしても、少なくとも自分の中では、自然な行動だった。

『ごめん』

 亮介が言った。

『そういうつもりじゃなかった』

「分かってます」

 理沙は少し声を落とした。

「でも、私自身も何が起きてるのか分からないんです」

『うん』

「瀬戸さんのことを調べてるつもりだったのに、今度は自分の行動まで気になってしまって」

 窓の外で、駐車場の照明が一つ点いた。

 その下を男性職員が歩いていく。

 途中で足を止め、ポケットから鍵を取り出した。

 駐車場の車へ近づき、ドアを開ける。

 理沙はその動きを見ていた。

 自然な行動だった。

 何もおかしくなかった。

 それなのに、今は立ち止まった瞬間だけが妙に目につく。

「瀬戸さん」

『うん』

「私たち、少しやり方を考えたほうがいいと思います」

『やり方?』

「今までみたいに、歩いてる人を見て、何か変わったことがないか探すのは」

 理沙は言葉を選んだ。

「少なくとも、仕事のついでに続けることではない気がします」

 亮介は黙っていた。

 理沙は続けた。

「道路に危険があるなら調べる必要があります。でも、そうじゃないなら、誰かの行動をずっと観察していていいのか分かりません」

『そうだね』

「それに、私も自分が止まった理由を、どこまで信用していいのか分からなくなってます」

 理沙はそこで口を閉じた。

 言いたかったことは、もう十分に伝えた気がした。

 亮介が静かに息を吐く音がした。

『分かった。少し整理しよう』

「はい」

『今日は悪かった』

「いえ」

 理沙は少し迷ってから言った。

「瀬戸さんが悪いって話でもないと思います」

 電話の向こうで、短い笑い声がした。

『それが一番困るんだけどね』

 理沙も少し笑った。

 電話を切る。

 画面が暗くなる。

 理沙はしばらくスマートフォンを握ったまま、窓の外を見ていた。

     *

 帰宅する頃には、風が強くなっていた。

 駅へ向かう道路では、街路樹の葉が歩道へ散り、車が通るたびに乾いた音を立てている。店先の暖かい明かりが濡れてもいない舗装に落ち、夕食の支度をする匂いが風に乗って流れてきた。

 理沙は鞄を肩に掛け、歩いていた。

 向こうから人が来る。

 少し道の端へ寄る。

 相手も寄る。

 普通にすれ違う。

 そんなことを、何度も繰り返した。

 以前なら、何一つ覚えていなかっただろう。

 ところが今日は、誰がどちらへ寄ったのかを、つい確かめてしまう。

 気にするのをやめようと思っても、目が勝手に動いた。

 駅の手前で、若い女性が一人、歩道の端に立っていた。

 女性はスマートフォンを見ながら、鞄の中を探っている。

 理沙はその横を通り過ぎた。

 何も起こらなかった。

 それでも少し先まで歩いたところで、振り返ってしまった。

 女性はまだ鞄の中を探している。

 亮介はいない。

 近くにいるはずもない。

 それなのに理沙は、女性がいつ歩き出すのかを知りたくなった。

 しばらくして、女性が何かを取り出した。

 小さな鍵束だった。

 女性はそれを確認し、再び歩き始める。

 理沙は前を向いた。

 何も不思議なことはなかった。

 鍵を探していた人が、鍵を見つけて歩き出した。

 それだけだった。

 理沙は駅の階段へ向かった。

 しかし階段を上り始めたとき、ふと自分の足が止まった。

 後ろから人が来る。

 その人を先に行かせようとしたのだ。

 理沙は手すりを握り、脇へ寄った。

 男性が横を通り過ぎていく。

 何も起こらない。

 男性は軽く頭を下げ、階段を上がっていった。

 理沙はその背中を見送った。

 そして、自分が立ち止まった理由を考えた。

 相手を先に行かせたかった。

 それだけだった。

 その答えを、信じていいはずだった。

 けれど、信じていいと考えなければならないこと自体が、もう以前とは違っていた。

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