第14話 私も止まった
紙の角が、浜野理沙の腕から少しだけはみ出していた。
クリップで留めたはずの資料だった。
薄い透明なファイルの中に、道路使用に関する申請書が何枚か重なっている。上の一枚が斜めになり、風を受けるたびに端が小さく揺れていた。
理沙はそれに気づいていた。
ただ、庁舎へ戻ってから直せばいいと思っていた。
別館での打ち合わせを終え、午後三時の会議に間に合わせようと歩いていたところだった。
月曜日の午後二時四十七分。
市役所の本館と別館のあいだには、小さな駐車場がある。
職員が行き来する通路はその脇を通っており、花壇の端に置かれた低い柵のところで二つの動線が交わっていた。
理沙は別館から本館へ向かって歩いていた。
少し先では、瀬戸亮介が駐車場のほうからやってくる。
彼も本館へ戻るところらしかった。
理沙は片手を軽く上げた。
「瀬戸さん、お疲れさまです」
亮介がこちらを見た。
「お疲れさま」
「もう戻られるんですか」
「うん。西町の現場が早く終わったから」
二人の進む方向は違っていた。
亮介は駐車場から本館の通用口へ直進しようとしている。
理沙は花壇の角を斜めに横切って、同じ建物の正面側へ回るつもりだった。
そのまま歩けば、二人は数歩先の柵の切れ目で進路を交えることになる。
理沙は亮介の位置を確かめた。
すれ違うというより、どちらかが先に通る形になりそうだった。
ちょうどそのとき、腕に抱えた資料が風で少し持ち上がった。
上の一枚が、ぱた、と音を立てる。
理沙は視線を落とした。
クリップが、紙の端まできちんと届いていない。
さっきから気になっていたところだった。
直しておこう。
そう思い、理沙は足を止めた。
左腕でファイルを支え、右手で紙の角を押さえる。
紙が一枚、少しずれた。
親指を入れて揃え直す。
クリップを外し、もう一度深く留める。
その横を、亮介が通り過ぎた。
理沙は顔を上げた。
「あ、すみません」
「いや」
亮介は足を緩めながら、こちらを見ていた。
「大丈夫?」
「はい。ちょっと紙がずれただけなので」
理沙はファイルを胸に抱え直した。
紙はもう揃っている。
再び歩こうとしたところで、亮介がまだ動いていないことに気づいた。
「瀬戸さん?」
彼は、理沙の手元を見ていた。
「今、止まったよね」
理沙は瞬きをした。
「ええ」
「資料を直すために」
「はい」
亮介は少しだけ視線を落とした。
駐車場の端で、車のドアが閉まる音がした。
そのあと、二人の間に短い沈黙が残った。
「俺が来る前から、気になってた?」
亮介が尋ねた。
理沙はファイルを見た。
クリップの位置。
少し折れた紙の角。
上から二枚目には、赤い付箋が貼られている。
「気になってましたよ」
「そうか」
「別館を出たときから、少しずれてたので」
亮介は頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
しかし、歩き出そうともしなかった。
理沙は腕時計を見た。
午後二時四十九分。
会議まで十一分ある。
急げば十分に間に合う時間だった。
それでも彼女は、すぐには歩き出さなかった。
「瀬戸さん」
「うん」
「私、今ここで止まりましたね」
亮介は顔を上げた。
「そうだね」
「あなたと進路が重なるところで」
言いながら、理沙はもう一度、自分が歩いてきた方向を振り返った。
別館の出口から、柵の切れ目まで。
資料がずれていたのは、もっと手前からだった。
直すつもりもあった。
けれど、実際に足を止めたのは、亮介が通る少し前だった。
「たまたまかもしれません」
理沙は言った。
亮介は頷いた。
「そうだね」
その返事が、普段よりもずっと静かに聞こえた。
*
空は朝から晴れていた。
十月の半ばに入り、昼間の陽射しにも少しずつ冬の硬さが混じり始めている。駐車場の白線は明るく照らされているのに、庁舎の影へ入ると足元が急に冷えた。植え込みから乾いた土の匂いが漂い、落ち葉が一枚、二人の間を転がっていった。
理沙はその落ち葉を見送り、ファイルを持ち直した。
「先に戻りますね」
「ああ。会議だったよね」
「はい」
亮介が通路の端へ寄った。
今度は理沙が先に歩く。
二人は互いに頭を下げ、別々の入口へ向かった。
理沙は本館の自動ドアを通り、エレベーターの前まで歩いた。
そこへ着いてから、ようやく資料をもう一度確かめた。
クリップはきちんと留まっている。
上の紙もずれていない。
直してよかった。
そう思った。
そのはずだった。
なのに、クリップを見ているうちに、別のことが気になり始めた。
自分はあのとき、急いでいた。
会議に間に合うように、本館へ向かっていた。
資料の端が少しずれていたことには気づいていたが、歩きながらでも押さえられる程度だった。
それなのに、わざわざ足を止めてクリップを外した。
どうしてだろう。
紙が落ちそうになったから。
理由は、はっきりしている。
クリップが浅く留まっていたから。
それも、事実だった。
理沙はファイルを開いた。
上の紙には、右上に小さな折れ目がある。
先ほど、自分の指で押さえた跡だった。
何もおかしくない。
むしろ、資料を落とさずに済んだのだから、正しい判断だった。
エレベーターが到着する。
扉が開き、中から二人の職員が出てきた。
理沙は脇へ寄り、二人を先に通した。
そのあとエレベーターへ乗る。
扉が閉まりかけたとき、理沙は自分が今、自然に道を譲ったことに気づいた。
亮介は近くにいない。
相手が降りるのを待っただけだ。
普通の行動だった。
分かっている。
それでも、すぐにそう考え直さなければならなかったことが、少し気にかかった。
*
会議が終わったのは午後四時十分だった。
理沙は資料を整理し、使い終えたホワイトボードの文字を消した。
黒いマーカーの跡が薄く残る。
一度では消えず、布を折り直してもう一度拭いた。
ほかの職員が会議室から出ていく。
最後の一人が扉を閉めると、室内には空調の低い音だけが残った。
理沙はファイルを開き、午後の打ち合わせで使った紙を抜き出した。
そのとき、指が止まった。
先ほどの折れ目が見えた。
右上の小さな三角形。
自分が押さえた跡だった。
理沙は紙を机へ置いた。
ポケットから手帳を取り出す。
普段、打ち合わせの内容を記録しているものだった。
新しいページを開き、時刻を書いた。
十四時四十八分頃。
それから少し考え、続きを記入する。
『本館・別館間の通路で、資料のずれを直すため停止』
そこまで書いて、ペンが止まった。
これは事実だ。
間違っていない。
では、その次に何を書くべきだろう。
『瀬戸さんが近づいていた』
そのことも事実だった。
理沙は一行下へ書き込んだ。
二つの文章を見比べる。
どちらも、それだけなら何の意味も持たない。
しかし、並べると別のものに見えてくる。
紙を直したために止まった。
亮介が近づいたために止まった。
どちらも同じ行動を説明しているようで、意味はまったく違う。
理沙はペンを置いた。
自分が止まった理由は、分かっている。
資料を直したかった。
それ以上のことはない。
では、なぜあの場所で直そうと思ったのか。
理沙は手帳を閉じた。
どれほど考えても、答えが出るようには思えなかった。
*
亮介から電話があったのは、午後五時前だった。
理沙は廊下の端へ移動し、電話に出た。
「浜野です」
『瀬戸です。今、少し大丈夫?』
「はい」
亮介は少し黙っていた。
電話の向こうから、紙をめくる音が聞こえる。
『さっきのことなんだけど』
「はい」
『資料を直したとき、本当に紙がずれてたんだよね』
理沙は廊下の窓へ目を向けた。
外はもう薄暗くなり始めていた。
「ずれてましたよ。折れ目も残ってます」
『そうか』
「何か気になります?」
亮介はすぐに答えなかった。
『俺が近づいたから、止まったんじゃないかって』
理沙は電話を持つ手に少し力を入れた。
自分でも、同じことを考えていた。
けれど、それを他人の口から聞くと、思っていたよりも重く感じられた。
「瀬戸さん」
『うん』
「それは、まだ分からないですよね」
『そうだね』
「私は、紙がずれてたから止まりました。それは本当です」
『うん』
「そこを疑われると、ちょっと困ります」
電話の向こうが静かになった。
理沙は、言い方が少し強かったかもしれないと思った。
けれど、言い直す気にはなれなかった。
自分がしたことを、全部ほかの原因で説明されるのは違う気がした。
紙を直したのは自分だ。
止まろうと思ったのも自分だった。
その瞬間に何か別の力が働いていたとしても、少なくとも自分の中では、自然な行動だった。
『ごめん』
亮介が言った。
『そういうつもりじゃなかった』
「分かってます」
理沙は少し声を落とした。
「でも、私自身も何が起きてるのか分からないんです」
『うん』
「瀬戸さんのことを調べてるつもりだったのに、今度は自分の行動まで気になってしまって」
窓の外で、駐車場の照明が一つ点いた。
その下を男性職員が歩いていく。
途中で足を止め、ポケットから鍵を取り出した。
駐車場の車へ近づき、ドアを開ける。
理沙はその動きを見ていた。
自然な行動だった。
何もおかしくなかった。
それなのに、今は立ち止まった瞬間だけが妙に目につく。
「瀬戸さん」
『うん』
「私たち、少しやり方を考えたほうがいいと思います」
『やり方?』
「今までみたいに、歩いてる人を見て、何か変わったことがないか探すのは」
理沙は言葉を選んだ。
「少なくとも、仕事のついでに続けることではない気がします」
亮介は黙っていた。
理沙は続けた。
「道路に危険があるなら調べる必要があります。でも、そうじゃないなら、誰かの行動をずっと観察していていいのか分かりません」
『そうだね』
「それに、私も自分が止まった理由を、どこまで信用していいのか分からなくなってます」
理沙はそこで口を閉じた。
言いたかったことは、もう十分に伝えた気がした。
亮介が静かに息を吐く音がした。
『分かった。少し整理しよう』
「はい」
『今日は悪かった』
「いえ」
理沙は少し迷ってから言った。
「瀬戸さんが悪いって話でもないと思います」
電話の向こうで、短い笑い声がした。
『それが一番困るんだけどね』
理沙も少し笑った。
電話を切る。
画面が暗くなる。
理沙はしばらくスマートフォンを握ったまま、窓の外を見ていた。
*
帰宅する頃には、風が強くなっていた。
駅へ向かう道路では、街路樹の葉が歩道へ散り、車が通るたびに乾いた音を立てている。店先の暖かい明かりが濡れてもいない舗装に落ち、夕食の支度をする匂いが風に乗って流れてきた。
理沙は鞄を肩に掛け、歩いていた。
向こうから人が来る。
少し道の端へ寄る。
相手も寄る。
普通にすれ違う。
そんなことを、何度も繰り返した。
以前なら、何一つ覚えていなかっただろう。
ところが今日は、誰がどちらへ寄ったのかを、つい確かめてしまう。
気にするのをやめようと思っても、目が勝手に動いた。
駅の手前で、若い女性が一人、歩道の端に立っていた。
女性はスマートフォンを見ながら、鞄の中を探っている。
理沙はその横を通り過ぎた。
何も起こらなかった。
それでも少し先まで歩いたところで、振り返ってしまった。
女性はまだ鞄の中を探している。
亮介はいない。
近くにいるはずもない。
それなのに理沙は、女性がいつ歩き出すのかを知りたくなった。
しばらくして、女性が何かを取り出した。
小さな鍵束だった。
女性はそれを確認し、再び歩き始める。
理沙は前を向いた。
何も不思議なことはなかった。
鍵を探していた人が、鍵を見つけて歩き出した。
それだけだった。
理沙は駅の階段へ向かった。
しかし階段を上り始めたとき、ふと自分の足が止まった。
後ろから人が来る。
その人を先に行かせようとしたのだ。
理沙は手すりを握り、脇へ寄った。
男性が横を通り過ぎていく。
何も起こらない。
男性は軽く頭を下げ、階段を上がっていった。
理沙はその背中を見送った。
そして、自分が立ち止まった理由を考えた。
相手を先に行かせたかった。
それだけだった。
その答えを、信じていいはずだった。
けれど、信じていいと考えなければならないこと自体が、もう以前とは違っていた。




