第15話 人のいない道
駅へ向かう道を、瀬戸亮介は途中で曲がった。
いつもなら、そのまま大通りへ出る。
信号を二つ渡り、商店街を抜ければ駅前の広場に着く。距離も短く、店の明かりがあるため夜でも歩きやすい。
けれど今日は、交差点の手前で左へ曲がった。
川沿いへ続く細い道だった。
人通りが少ないことを、以前から知っていた。
その道を通る必要はなかった。
駅へ行くのなら、遠回りになる。
それでも亮介は、迷わずそちらへ足を向けた。
火曜日の午後五時二十八分。
市役所を出た頃には、まだ空に夕方の光が残っていた。しかし大きな道路から一本入ると、建物の影が重なり、街灯の下だけが少し明るく見えた。
水路に沿った舗装道路には、ところどころ落ち葉がたまっている。冷たい風が水面を渡り、湿った土と枯れ草の匂いを運んできた。遠くで車が走る音は聞こえるものの、人の声はほとんど届かず、足元では自分の靴が地面を踏む音だけが一定の間隔で続いていた。
亮介は歩いた。
右足を出す。
左足を出す。
歩幅を変える必要はない。
向こうから来る人はいない。
後ろから近づいてくる足音もない。
視線を上げれば、道路はしばらく先まで見通せた。
亮介は肩に掛けた鞄を持ち直した。
腕時計を見る。
五時三十二分。
いつもの道なら、そろそろ商店街へ差しかかっている頃だった。
しかし今日は、まだ川沿いを歩いている。
駅までの距離は、少し長くなる。
それでも、足は止まらなかった。
向こうに人がいない。
それだけで、こんなにも歩きやすいのかと思った。
*
最初にこの道を覚えたのは、道路維持課へ配属されて間もない頃だった。
大雨のあと、水路沿いの舗装が一部沈んだという相談があり、現地を確認しに来たことがある。
そのときは雨上がりで、足元のあちこちに水たまりが残っていた。
今回のような乾いた道とは違う。
けれど、住宅の裏側に沿って長く続く風景は、あまり変わっていない。
途中には小さな橋が一つある。
欄干は低く、白い塗装のところどころが剥がれていた。
亮介は橋へ近づいた。
向こうから自転車が一台来た。
制服姿の高校生だった。
自転車は橋の中央を走ってくる。
亮介は自然に端へ寄った。
高校生も少しだけハンドルを切り、亮介の横を通り過ぎる。
風が一度、上着の裾を揺らした。
何も起こらなかった。
亮介はその背中を見送った。
自転車は現象の影響を直接受けないらしい。
それは、これまで何度も確かめてきたことだった。
いま通り過ぎた高校生も、特別なことはしていない。
自分の進路を少し変えただけだ。
亮介も同じように道を譲った。
それで、問題なくすれ違えた。
橋を渡る。
欄干の下には、細い水の流れが見えた。
雨が少なかったせいか、水位は低い。
ところどころに小さな石が露出し、その周囲を水が避けるように流れていた。
亮介は少しだけ足を緩めた。
水の音が聞こえる。
今まで、こんな音を聞きながら歩いたことがあっただろうか。
道路の点検に来たときは、舗装の状態ばかり気にしていた。
普段の帰り道では、電車の時間を確かめている。
こうして一人で川沿いを歩くことなど、ほとんどなかった。
橋を渡り終えると、道路はさらに細くなった。
片側には住宅の裏塀が続き、もう片側には水路を囲うフェンスがある。
街灯は少ない。
しかし、見通しは悪くなかった。
亮介は歩いた。
誰もいない道を。
いつもより少し速い歩幅で。
*
しばらく進んだところで、携帯電話が震えた。
亮介は足を止めた。
画面には、恵子の名前が表示されていた。
『木曜日、少しお願いしてもいい?』
続けてメッセージが届く。
『綾音が図書委員の読み聞かせの練習で、いつもより遅くなるみたい。五時半ごろ学校へ迎えに行けそう?』
亮介は画面を見つめた。
土曜日、本屋で買った絵本のことを思い出した。
夜の海と、小さな船の絵本。
綾音は練習してみると言っていた。
学校の一年生へ読むための本だった。
たしか、何度も読んで練習したいと言っていた。
木曜日。
亮介は頭の中で予定を確かめた。
午前中には現場の確認が一件ある。
午後は、道路台帳の整理をする予定だった。
急な対応が入らなければ、五時頃には仕事を終えられる。
学校まで行くことも、できないわけではない。
亮介は返信欄を開いた。
『分かった。迎えに行くよ』
そこまで打って、指が止まった。
学校までの道が浮かんだ。
駅から大通りを進む。
小さな公園の横を通る。
夕方の学校の前には、子どもたちがいるだろう。
迎えに来た保護者もいる。
習い事へ向かう子どもや、買い物帰りの人も通るはずだった。
その中を、一人で歩かなければならない。
亮介は画面を見つめた。
土曜日には、きちんと行けた。
綾音の発表を見た。
本屋にも一緒に行った。
あのときは恵子が先に歩いてくれたし、帰りは綾音が道を選んでくれた。
しかし木曜日は、一人で迎えに行かなければならない。
学校まで歩くあいだ、誰かとすれ違う。
その人が立ち止まるかもしれない。
自分も止まるかもしれない。
何度も止まれば、約束の時間に遅れる。
綾音を待たせることになる。
亮介は文章を消した。
もう一度、入力する。
『木曜日は仕事の時間が読めなくて、ちょっと難しいかもしれない』
送信する前に、画面を見つめた。
仕事の時間が読めない。
それは、完全な嘘ではない。
急な対応が入ることはある。
実際、このところ現場の予定がずれることもあった。
ただ、木曜日に何か予定が詰まっているわけではなかった。
亮介は送信ボタンを押した。
画面に、自分の言葉が表示される。
もう取り消せないわけではない。
すぐに訂正することだってできる。
しかし、亮介はそのままスマートフォンを握っていた。
数分後、恵子から返事が届いた。
『分かった。こっちで調整するから大丈夫』
続けて、もう一通。
『綾音には私から言っておくね』
亮介は画面を見た。
返信欄を開く。
『ごめん』
短く打った。
少し迷ってから、送信した。
それだけだった。
誰も怒っていない。
恵子も責めていない。
綾音がどう思うのかは、まだ分からない。
それでも亮介は、なかなか歩き出せなかった。
人のいない道を選んだはずだった。
足を止めずに帰るために。
なのに、今は自分から立ち止まっている。
*
スマートフォンをポケットへしまい、亮介は再び歩き始めた。
水路沿いの道は、駅の北側へ抜ける。
そこから少し大回りすれば、商店街を通らずに駅へ入ることができる。
亮介はその道を選んだ。
途中、古い倉庫の前を通った。
シャッターには錆が浮き、隅には使われなくなった台車が置かれている。
倉庫の脇には細い抜け道があり、そこを通れば、いつもの大通りへ戻れるようだった。
亮介は足を止め、道の先を見た。
大通りの明かりが見える。
人の声も聞こえた。
何人かが歩いているらしい。
そこへ戻れば、駅までの距離は短くなる。
腕時計を見る。
午後五時五十二分。
このまま川沿いを進めば、駅へ着くのは六時を過ぎるだろう。
まだ遅い時間ではない。
けれど、明日の仕事もある。
できれば早く帰りたかった。
亮介は抜け道へ一歩入った。
その先に、若い女性が歩いているのが見えた。
女性は片手に紙袋を持ち、もう一方の手でスマートフォンを操作していた。
少し離れたところには、二人連れの学生がいる。
女性と学生たちは、それぞれ違う方向へ歩いていた。
別に混雑しているわけではない。
十分に通れる。
亮介はその光景を見た。
女性が歩く。
学生がすれ違う。
誰も止まらない。
何もおかしくない。
それなのに、亮介の足はそこで動かなくなった。
誰かが足を止めるかもしれない。
自分が近づいたときに。
そう考えた瞬間、道路の先が妙に遠く感じられた。
亮介は後ろを振り返った。
川沿いの道には、誰もいない。
街灯が一つ点いている。
その下を、風で飛ばされた落ち葉が転がっていった。
亮介は、元の道へ戻った。
ほんの数歩引き返しただけだった。
大通りへ抜ける道は、すぐそこにある。
誰も通るなとは言っていない。
道が塞がれているわけでもない。
亮介は、自分でその道を選ばなかった。
それが分かっていた。
*
駅へ着いたのは、午後六時十三分だった。
いつもより二十分近く遅い。
しかし今日は、途中で人とすれ違うことがほとんどなかった。
亮介は駅の北側にある小さな入口から構内へ入った。
大きな改札口とは違い、こちらは利用する人が少ない。
それでも、夕方の駅だった。
何人かが階段を上り下りしている。
亮介は一度立ち止まり、人の流れを見た。
すぐ前を、学生らしい二人組が通り過ぎた。
そのあと、スーツ姿の女性が一人、改札へ向かった。
亮介は女性のあとを歩いた。
少し距離を空ける。
女性は振り返らず、そのまま改札を通った。
亮介もカードをかざす。
短い電子音が鳴った。
扉が開く。
亮介は通り抜けた。
それだけのことだった。
改札の向こうには、いつもの駅の風景が広がっている。
ホームへ向かう階段。
売店の明かり。
行き交う人々。
誰も、彼を気にしていなかった。
亮介は階段の手前で足を止めた。
目の前には、子どもを連れた男性がいた。
男の子は父親の手を握り、階段を上っている。
何かを話しているらしいが、声は周囲の雑音に紛れて聞こえなかった。
男性が少し屈み、子どもの顔をのぞき込む。
男の子が笑った。
二人はそのまま階段を上がっていく。
亮介はその姿を見ていた。
土曜日、綾音と歩いたことを思い出した。
娘は本屋から帰るあいだ、ずっと何かを話していた。
学校のこと。
友達のこと。
猫の名前のこと。
大した話ではなかった。
けれど、ずいぶん楽しかった。
亮介はポケットからスマートフォンを取り出した。
恵子とのやり取りが残っている。
『こっちで調整するから大丈夫』
その下に、自分が送った短い謝罪があった。
亮介は画面を見つめた。
木曜日は、まだ二日先だった。
予定を調整し直せば、迎えに行けるかもしれない。
恵子にそう伝えることもできる。
しかし、指は動かなかった。
また歩けなくなったら。
また時間に遅れたら。
娘を待たせたら。
そんな考えばかりが浮かんでくる。
亮介はスマートフォンをしまった。
階段の上では、さっきの親子がもう見えなくなっていた。
亮介は手すりへ手を伸ばした。
一段上る。
もう一段。
後ろから誰かが近づいてくる。
その足音が気になった。
けれど、亮介は止まらずに上った。
階段を上りきると、ホームには電車を待つ人々が並んでいた。
亮介は列の最後尾へ向かった。
人の少ない場所を探す。
少し離れた位置に、空いているところがあった。
そこへ立った。
電車が来るまで、あと五分。
亮介はホームの向こうを見た。
線路の先は暗くなり、遠くの信号だけが赤く光っている。
人のいない道を選べば、歩ける。
そのことは、今日分かった。
しかし、歩ける道を探しているあいだに、別のことを断ってしまった。
木曜日の迎え。
娘との、たった数十分かもしれない時間。
亮介はポケットの上からスマートフォンを押さえた。
恵子にもう一度連絡しようと思った。
けれど、電車の到着を知らせる放送が流れ、ホームの人々が少しずつ動き始めた。
亮介も列に合わせて前へ進む。
ドアが開く。
人が降りてくる。
乗る人たちが、自然に左右へ分かれる。
亮介はその動きを見ながら待った。
降りる人がいなくなる。
前の人が乗り込む。
亮介も続いた。
座席の前まで進み、つり革を握った。
電車がゆっくり動き始める。
窓の外で、駅の明かりが少しずつ後ろへ流れていった。
亮介は鞄を足元へ寄せた。
スマートフォンは、まだポケットの中にある。
恵子へ連絡するなら、今でもできる。
電車が次の駅へ向かって速度を上げる。
亮介は窓に映った自分の顔を見た。
今日は誰にも道を塞がれなかった。
自分で道を選び、駅まで歩いてきた。
それなのに、何かを置いてきたような気がしていた。
まだ何も失っていないのかもしれない。
取り戻せるものなのかもしれない。
そう思ったが、確かめるためには、まず自分から連絡しなければならなかった。
亮介はつり革から片手を離した。
ポケットへ伸ばしかけた指が、途中で止まる。
電車の窓には、暗い街並みが映っていた。
亮介はもう一度、つり革を握った。
次の駅の名前が、車内に静かに流れた。




