↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
通らない道  作者: asnt2026


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/30

第15話 人のいない道

駅へ向かう道を、瀬戸亮介は途中で曲がった。

 いつもなら、そのまま大通りへ出る。

 信号を二つ渡り、商店街を抜ければ駅前の広場に着く。距離も短く、店の明かりがあるため夜でも歩きやすい。

 けれど今日は、交差点の手前で左へ曲がった。

 川沿いへ続く細い道だった。

 人通りが少ないことを、以前から知っていた。

 その道を通る必要はなかった。

 駅へ行くのなら、遠回りになる。

 それでも亮介は、迷わずそちらへ足を向けた。

 火曜日の午後五時二十八分。

 市役所を出た頃には、まだ空に夕方の光が残っていた。しかし大きな道路から一本入ると、建物の影が重なり、街灯の下だけが少し明るく見えた。

 水路に沿った舗装道路には、ところどころ落ち葉がたまっている。冷たい風が水面を渡り、湿った土と枯れ草の匂いを運んできた。遠くで車が走る音は聞こえるものの、人の声はほとんど届かず、足元では自分の靴が地面を踏む音だけが一定の間隔で続いていた。

 亮介は歩いた。

 右足を出す。

 左足を出す。

 歩幅を変える必要はない。

 向こうから来る人はいない。

 後ろから近づいてくる足音もない。

 視線を上げれば、道路はしばらく先まで見通せた。

 亮介は肩に掛けた鞄を持ち直した。

 腕時計を見る。

 五時三十二分。

 いつもの道なら、そろそろ商店街へ差しかかっている頃だった。

 しかし今日は、まだ川沿いを歩いている。

 駅までの距離は、少し長くなる。

 それでも、足は止まらなかった。

 向こうに人がいない。

 それだけで、こんなにも歩きやすいのかと思った。

     *

 最初にこの道を覚えたのは、道路維持課へ配属されて間もない頃だった。

 大雨のあと、水路沿いの舗装が一部沈んだという相談があり、現地を確認しに来たことがある。

 そのときは雨上がりで、足元のあちこちに水たまりが残っていた。

 今回のような乾いた道とは違う。

 けれど、住宅の裏側に沿って長く続く風景は、あまり変わっていない。

 途中には小さな橋が一つある。

 欄干は低く、白い塗装のところどころが剥がれていた。

 亮介は橋へ近づいた。

 向こうから自転車が一台来た。

 制服姿の高校生だった。

 自転車は橋の中央を走ってくる。

 亮介は自然に端へ寄った。

 高校生も少しだけハンドルを切り、亮介の横を通り過ぎる。

 風が一度、上着の裾を揺らした。

 何も起こらなかった。

 亮介はその背中を見送った。

 自転車は現象の影響を直接受けないらしい。

 それは、これまで何度も確かめてきたことだった。

 いま通り過ぎた高校生も、特別なことはしていない。

 自分の進路を少し変えただけだ。

 亮介も同じように道を譲った。

 それで、問題なくすれ違えた。

 橋を渡る。

 欄干の下には、細い水の流れが見えた。

 雨が少なかったせいか、水位は低い。

 ところどころに小さな石が露出し、その周囲を水が避けるように流れていた。

 亮介は少しだけ足を緩めた。

 水の音が聞こえる。

 今まで、こんな音を聞きながら歩いたことがあっただろうか。

 道路の点検に来たときは、舗装の状態ばかり気にしていた。

 普段の帰り道では、電車の時間を確かめている。

 こうして一人で川沿いを歩くことなど、ほとんどなかった。

 橋を渡り終えると、道路はさらに細くなった。

 片側には住宅の裏塀が続き、もう片側には水路を囲うフェンスがある。

 街灯は少ない。

 しかし、見通しは悪くなかった。

 亮介は歩いた。

 誰もいない道を。

 いつもより少し速い歩幅で。

     *

 しばらく進んだところで、携帯電話が震えた。

 亮介は足を止めた。

 画面には、恵子の名前が表示されていた。

『木曜日、少しお願いしてもいい?』

 続けてメッセージが届く。

『綾音が図書委員の読み聞かせの練習で、いつもより遅くなるみたい。五時半ごろ学校へ迎えに行けそう?』

 亮介は画面を見つめた。

 土曜日、本屋で買った絵本のことを思い出した。

 夜の海と、小さな船の絵本。

 綾音は練習してみると言っていた。

 学校の一年生へ読むための本だった。

 たしか、何度も読んで練習したいと言っていた。

 木曜日。

 亮介は頭の中で予定を確かめた。

 午前中には現場の確認が一件ある。

 午後は、道路台帳の整理をする予定だった。

 急な対応が入らなければ、五時頃には仕事を終えられる。

 学校まで行くことも、できないわけではない。

 亮介は返信欄を開いた。

『分かった。迎えに行くよ』

 そこまで打って、指が止まった。

 学校までの道が浮かんだ。

 駅から大通りを進む。

 小さな公園の横を通る。

 夕方の学校の前には、子どもたちがいるだろう。

 迎えに来た保護者もいる。

 習い事へ向かう子どもや、買い物帰りの人も通るはずだった。

 その中を、一人で歩かなければならない。

 亮介は画面を見つめた。

 土曜日には、きちんと行けた。

 綾音の発表を見た。

 本屋にも一緒に行った。

 あのときは恵子が先に歩いてくれたし、帰りは綾音が道を選んでくれた。

 しかし木曜日は、一人で迎えに行かなければならない。

 学校まで歩くあいだ、誰かとすれ違う。

 その人が立ち止まるかもしれない。

 自分も止まるかもしれない。

 何度も止まれば、約束の時間に遅れる。

 綾音を待たせることになる。

 亮介は文章を消した。

 もう一度、入力する。

『木曜日は仕事の時間が読めなくて、ちょっと難しいかもしれない』

 送信する前に、画面を見つめた。

 仕事の時間が読めない。

 それは、完全な嘘ではない。

 急な対応が入ることはある。

 実際、このところ現場の予定がずれることもあった。

 ただ、木曜日に何か予定が詰まっているわけではなかった。

 亮介は送信ボタンを押した。

 画面に、自分の言葉が表示される。

 もう取り消せないわけではない。

 すぐに訂正することだってできる。

 しかし、亮介はそのままスマートフォンを握っていた。

 数分後、恵子から返事が届いた。

『分かった。こっちで調整するから大丈夫』

 続けて、もう一通。

『綾音には私から言っておくね』

 亮介は画面を見た。

 返信欄を開く。

『ごめん』

 短く打った。

 少し迷ってから、送信した。

 それだけだった。

 誰も怒っていない。

 恵子も責めていない。

 綾音がどう思うのかは、まだ分からない。

 それでも亮介は、なかなか歩き出せなかった。

 人のいない道を選んだはずだった。

 足を止めずに帰るために。

 なのに、今は自分から立ち止まっている。

     *

 スマートフォンをポケットへしまい、亮介は再び歩き始めた。

 水路沿いの道は、駅の北側へ抜ける。

 そこから少し大回りすれば、商店街を通らずに駅へ入ることができる。

 亮介はその道を選んだ。

 途中、古い倉庫の前を通った。

 シャッターには錆が浮き、隅には使われなくなった台車が置かれている。

 倉庫の脇には細い抜け道があり、そこを通れば、いつもの大通りへ戻れるようだった。

 亮介は足を止め、道の先を見た。

 大通りの明かりが見える。

 人の声も聞こえた。

 何人かが歩いているらしい。

 そこへ戻れば、駅までの距離は短くなる。

 腕時計を見る。

 午後五時五十二分。

 このまま川沿いを進めば、駅へ着くのは六時を過ぎるだろう。

 まだ遅い時間ではない。

 けれど、明日の仕事もある。

 できれば早く帰りたかった。

 亮介は抜け道へ一歩入った。

 その先に、若い女性が歩いているのが見えた。

 女性は片手に紙袋を持ち、もう一方の手でスマートフォンを操作していた。

 少し離れたところには、二人連れの学生がいる。

 女性と学生たちは、それぞれ違う方向へ歩いていた。

 別に混雑しているわけではない。

 十分に通れる。

 亮介はその光景を見た。

 女性が歩く。

 学生がすれ違う。

 誰も止まらない。

 何もおかしくない。

 それなのに、亮介の足はそこで動かなくなった。

 誰かが足を止めるかもしれない。

 自分が近づいたときに。

 そう考えた瞬間、道路の先が妙に遠く感じられた。

 亮介は後ろを振り返った。

 川沿いの道には、誰もいない。

 街灯が一つ点いている。

 その下を、風で飛ばされた落ち葉が転がっていった。

 亮介は、元の道へ戻った。

 ほんの数歩引き返しただけだった。

 大通りへ抜ける道は、すぐそこにある。

 誰も通るなとは言っていない。

 道が塞がれているわけでもない。

 亮介は、自分でその道を選ばなかった。

 それが分かっていた。

     *

 駅へ着いたのは、午後六時十三分だった。

 いつもより二十分近く遅い。

 しかし今日は、途中で人とすれ違うことがほとんどなかった。

 亮介は駅の北側にある小さな入口から構内へ入った。

 大きな改札口とは違い、こちらは利用する人が少ない。

 それでも、夕方の駅だった。

 何人かが階段を上り下りしている。

 亮介は一度立ち止まり、人の流れを見た。

 すぐ前を、学生らしい二人組が通り過ぎた。

 そのあと、スーツ姿の女性が一人、改札へ向かった。

 亮介は女性のあとを歩いた。

 少し距離を空ける。

 女性は振り返らず、そのまま改札を通った。

 亮介もカードをかざす。

 短い電子音が鳴った。

 扉が開く。

 亮介は通り抜けた。

 それだけのことだった。

 改札の向こうには、いつもの駅の風景が広がっている。

 ホームへ向かう階段。

 売店の明かり。

 行き交う人々。

 誰も、彼を気にしていなかった。

 亮介は階段の手前で足を止めた。

 目の前には、子どもを連れた男性がいた。

 男の子は父親の手を握り、階段を上っている。

 何かを話しているらしいが、声は周囲の雑音に紛れて聞こえなかった。

 男性が少し屈み、子どもの顔をのぞき込む。

 男の子が笑った。

 二人はそのまま階段を上がっていく。

 亮介はその姿を見ていた。

 土曜日、綾音と歩いたことを思い出した。

 娘は本屋から帰るあいだ、ずっと何かを話していた。

 学校のこと。

 友達のこと。

 猫の名前のこと。

 大した話ではなかった。

 けれど、ずいぶん楽しかった。

 亮介はポケットからスマートフォンを取り出した。

 恵子とのやり取りが残っている。

『こっちで調整するから大丈夫』

 その下に、自分が送った短い謝罪があった。

 亮介は画面を見つめた。

 木曜日は、まだ二日先だった。

 予定を調整し直せば、迎えに行けるかもしれない。

 恵子にそう伝えることもできる。

 しかし、指は動かなかった。

 また歩けなくなったら。

 また時間に遅れたら。

 娘を待たせたら。

 そんな考えばかりが浮かんでくる。

 亮介はスマートフォンをしまった。

 階段の上では、さっきの親子がもう見えなくなっていた。

 亮介は手すりへ手を伸ばした。

 一段上る。

 もう一段。

 後ろから誰かが近づいてくる。

 その足音が気になった。

 けれど、亮介は止まらずに上った。

 階段を上りきると、ホームには電車を待つ人々が並んでいた。

 亮介は列の最後尾へ向かった。

 人の少ない場所を探す。

 少し離れた位置に、空いているところがあった。

 そこへ立った。

 電車が来るまで、あと五分。

 亮介はホームの向こうを見た。

 線路の先は暗くなり、遠くの信号だけが赤く光っている。

 人のいない道を選べば、歩ける。

 そのことは、今日分かった。

 しかし、歩ける道を探しているあいだに、別のことを断ってしまった。

 木曜日の迎え。

 娘との、たった数十分かもしれない時間。

 亮介はポケットの上からスマートフォンを押さえた。

 恵子にもう一度連絡しようと思った。

 けれど、電車の到着を知らせる放送が流れ、ホームの人々が少しずつ動き始めた。

 亮介も列に合わせて前へ進む。

 ドアが開く。

 人が降りてくる。

 乗る人たちが、自然に左右へ分かれる。

 亮介はその動きを見ながら待った。

 降りる人がいなくなる。

 前の人が乗り込む。

 亮介も続いた。

 座席の前まで進み、つり革を握った。

 電車がゆっくり動き始める。

 窓の外で、駅の明かりが少しずつ後ろへ流れていった。

 亮介は鞄を足元へ寄せた。

 スマートフォンは、まだポケットの中にある。

 恵子へ連絡するなら、今でもできる。

 電車が次の駅へ向かって速度を上げる。

 亮介は窓に映った自分の顔を見た。

 今日は誰にも道を塞がれなかった。

 自分で道を選び、駅まで歩いてきた。

 それなのに、何かを置いてきたような気がしていた。

 まだ何も失っていないのかもしれない。

 取り戻せるものなのかもしれない。

 そう思ったが、確かめるためには、まず自分から連絡しなければならなかった。

 亮介はつり革から片手を離した。

 ポケットへ伸ばしかけた指が、途中で止まる。

 電車の窓には、暗い街並みが映っていた。

 亮介はもう一度、つり革を握った。

 次の駅の名前が、車内に静かに流れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。