第16話 曲がらなかった角
男が足を止めたとき、瀬戸亮介はその横を通り過ぎていた。
薄い灰色の上着を着た男だった。
右手にコンビニの袋を提げ、左手で上着の内ポケットを探っている。何かを思い出したらしく、歩く速度を落としてから道の端へ寄った。
亮介はその動きを横目で見た。
止まらないほうがいい。
最近は、なるべくそうすることにしていた。
相手が立ち止まっても、自分まで止まる必要はない。通れる場所があるなら通ればいいし、相手が進んでくるなら、自分が自然に端へ寄ればいい。
そう考えながら歩いた。
男の横を通り過ぎる。
数歩先には丁字路があった。
左へ曲がれば古い住宅街へ入る。まっすぐ進めば、駅へ続く大通りへ出られる。
亮介は迷わず直進した。
そのまま角を通り過ぎ、電柱の影を踏んだところで、ふと足が止まった。
何かを忘れた気がした。
鞄の中を確かめる。
財布もある。
市役所から持ち帰った書類も入っている。
スマートフォンは上着のポケットにあった。
忘れ物ではないらしい。
亮介は振り返った。
さっきの男は、まだ道の端に立っていた。
コンビニの袋を片手へ持ち替え、内ポケットから小さな手帳を取り出している。
その少し向こうに、丁字路がある。
亮介は左へ伸びる道を見た。
どうして今、曲がらなかったのだろう。
*
水曜日の午後四時過ぎ。
午前中からの雨は昼過ぎにやみ、南倉市の住宅街には濡れた舗装の匂いが残っていた。低い屋根の向こうから傾いた陽が差し、アスファルトの水たまりだけが白く光っている。塀に沿って流れる風は少し冷たく、どこかの家で煮ている醤油の匂いが、雨上がりの土の匂いに混じっていた。
亮介は仕事の帰りだった。
この日は市役所を早めに出て、近くの郵便局へ私用の書類を出しに行くつもりだった。郵便局へは大通りを使うのが分かりやすいが、住宅街の中を抜けても行ける。
どちらが近いのかは、正確には知らない。
以前なら、そこまで考えなかった。
歩き慣れた道を進み、いつもの角を曲がり、目的地へ着く。それだけだった。
しかし最近は、どの道を歩くか決めるのにも時間がかかる。
人が多い道か。
少ない道か。
向こうから歩行者が来たとき、自然にすれ違えるか。
そんなことを考えているうちに、かえって足が重くなる。
今日はなるべく考えずに歩こうと決めていた。
だから、丁字路でも迷わず直進した。
まっすぐ進めば郵便局へ行ける。
それで十分なはずだった。
亮介はもう一度、左側の道を見た。
特に変わったところはない。
塀の続く住宅街で、少し先には自動販売機が置かれている。電柱の下には小さな植木鉢が並び、古い自転車が一台、家の壁へ立てかけられていた。
その道を通ったことはある。
しかし、いつだっただろう。
仕事で近くの舗装を確認したときかもしれない。
綾音を公園へ連れていった頃にも、あの辺りを歩いたことがあるような気がした。
亮介は角まで引き返した。
さっきの男がこちらを見る。
「どうかしました?」
「あ、いえ」
亮介は軽く頭を下げた。
「ちょっと道を間違えまして」
「そうですか」
男はそれ以上尋ねず、手帳をポケットへ戻した。
そして亮介とは反対方向へ歩いていった。
亮介は、男の背中を少しだけ見送った。
道を間違えたわけではない。
自分で直進を選んだ。
それなのに、ほかの道も通れることを確かめたくなった。
理由を尋ねられると、うまく説明できない。
亮介は左へ曲がった。
*
細い住宅街へ入ると、通りの音が急に遠くなった。
両側には二階建ての家が並び、軒下には植木鉢や子ども用の自転車が置かれている。
塀の向こうから洗濯機の脱水音が聞こえた。
その隣の家では、換気扇が低い音を立てている。
亮介は歩く速度を少し落とした。
初めて来た場所ではない。
けれど、こんなに家が多かっただろうかと思った。
角を曲がると、小さな店があった。
白い看板には、青い文字で「こばやし文具」と書かれている。
店先には色画用紙やノートが並べられ、ガラス越しに鉛筆の箱が見えた。
亮介は立ち止まった。
この店を知っている。
ずいぶん前に、綾音と一緒に来たことがあった。
娘がまだ小さかった頃、学校で使う色鉛筆を買った記憶がある。
どの色がいいか決められず、店の棚の前で長いこと迷っていた。
たしか、赤と桃色を何度も見比べていた。
そのときは恵子も一緒だっただろうか。
亮介は記憶をたどった。
店内の照明。
棚に並んだ色鉛筆。
綾音が手にしていた小さな箱。
そこまでは思い出せる。
けれど、誰が会計をしたのかは曖昧だった。
店の入口が開いた。
白髪の女性が出てきて、外に置いていた看板を少し動かした。
亮介に気づき、軽く会釈する。
亮介も頭を下げた。
女性は看板の下にたまった落ち葉を掃き始めた。
店の前へ寄っていた亮介は、邪魔にならないよう一歩離れた。
何も起こらなかった。
ただ、店の人が掃除をしているだけだった。
亮介はその横を通り過ぎた。
少し先には小さな公園があった。
綾音と土曜日に通った場所とは別の、遊具が二つしかない公園だった。
低い滑り台と、鉄棒。
砂場には黄色いバケツが一つ置き忘れられている。
夕方の公園には誰もいなかった。
亮介は入口の前で足を止めた。
こんなところがあったのか。
そう思ってから、以前も通ったことがあるのを思い出した。
記憶から消えていたわけではない。
ただ、思い出す機会がなかった。
亮介は公園の中を見た。
砂場の端には雨水が少したまり、そこに細い木の枝が浮いている。
明日になれば、誰かがあのバケツを取りに来るのだろうか。
それとも、ずっと置きっぱなしのものなのだろうか。
そんなことを考えていると、背後から子どもの声がした。
「お母さん、あった!」
振り返ると、小学生くらいの男の子が母親と歩いてきた。
男の子は公園の砂場を指さしている。
「あれ、昨日置いてきちゃったやつ」
「そうなの? じゃあ取っておいで」
男の子は小走りで公園へ入っていった。
母親は入口の脇へ寄り、鞄からハンカチを取り出している。
亮介は二人の様子を見ていた。
男の子がバケツを拾う。
底にたまった水を捨てる。
母親がハンカチを差し出す。
男の子は濡れた手を拭き、バケツを持ち直した。
「ちゃんと自分で持って帰ってね」
「分かってるよ」
二人は公園を出て、反対側の道へ歩いていった。
亮介はその背中を見送った。
もし自分がここを通らなければ、こんな場面を見ることもなかった。
当たり前のことだった。
それでも、妙に心に残った。
*
郵便局へ着いたのは、午後四時四十三分だった。
大通りを使っていれば、もう少し早く来られただろう。
しかし、窓口はまだ開いていた。
亮介は書類を差し出し、必要な手続きを済ませた。
局員が封筒を受け取り、受付印を押す。
その音を聞きながら、亮介はさっきの丁字路を思い出していた。
男が足を止めた。
自分はその横を通り過ぎた。
その先には、まっすぐな道と左へ曲がる道があった。
自分は直進した。
男が止まらなかったとしても、直進したかもしれない。
もっとも、すれ違うために足を緩めていれば、角で立ち止まることになったかもしれない。
そうすれば、左へ続く道が目に入っただろうか。
文具店のことを思い出しただろうか。
公園のことを考えただろうか。
亮介は局員から控えを受け取り、鞄へしまった。
どれも分からない。
男が足を止めたことと、自分が直進したこと。
二つの出来事は続けて起きた。
ただ、それだけだった。
因果関係があるかどうかは、確かめようがない。
それでも亮介は、これまで何度も似たことが起きていたのではないかと思った。
誰かが少し道を譲る。
自分は歩き続ける。
立ち止まらず、迷わず、次の角へ進む。
その繰り返しの中で、通らなかった道があったのではないか。
亮介は郵便局を出た。
外では、夕暮れの光が一段と薄くなっていた。
道路の向こうから男性が歩いてくる。
男性は亮介の手前で少し歩幅を狭め、上着のポケットを探った。
何かを確かめようとしている。
亮介はその動きを見た。
足を止めそうになった。
けれど、今度はそのまま歩いた。
男性の横を通り過ぎる。
少し先に、小さな角があった。
右へ曲がれば駅へ近い。
まっすぐ進んでも帰れる。
亮介は角の手前で立ち止まった。
向こうから人が来たからではない。
何かが邪魔をしているわけでもない。
自分で道を選ぶためだった。
しばらく考え、右へ曲がった。
何も起こらなかった。
ただ、角を曲がった。
亮介は歩きながら、さっきの文具店のことを思い出した。
綾音は、あの店をまだ覚えているだろうか。
今度会ったら聞いてみよう。
そう思ったとき、ふと別のことが気になった。
以前、自分はどのくらいの頻度で、あの店の前を通っていたのだろう。
そして、いつから通らなくなったのだろう。




