↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
通らない道  作者: asnt2026


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/30

第16話 曲がらなかった角

男が足を止めたとき、瀬戸亮介はその横を通り過ぎていた。

 薄い灰色の上着を着た男だった。

 右手にコンビニの袋を提げ、左手で上着の内ポケットを探っている。何かを思い出したらしく、歩く速度を落としてから道の端へ寄った。

 亮介はその動きを横目で見た。

 止まらないほうがいい。

 最近は、なるべくそうすることにしていた。

 相手が立ち止まっても、自分まで止まる必要はない。通れる場所があるなら通ればいいし、相手が進んでくるなら、自分が自然に端へ寄ればいい。

 そう考えながら歩いた。

 男の横を通り過ぎる。

 数歩先には丁字路があった。

 左へ曲がれば古い住宅街へ入る。まっすぐ進めば、駅へ続く大通りへ出られる。

 亮介は迷わず直進した。

 そのまま角を通り過ぎ、電柱の影を踏んだところで、ふと足が止まった。

 何かを忘れた気がした。

 鞄の中を確かめる。

 財布もある。

 市役所から持ち帰った書類も入っている。

 スマートフォンは上着のポケットにあった。

 忘れ物ではないらしい。

 亮介は振り返った。

 さっきの男は、まだ道の端に立っていた。

 コンビニの袋を片手へ持ち替え、内ポケットから小さな手帳を取り出している。

 その少し向こうに、丁字路がある。

 亮介は左へ伸びる道を見た。

 どうして今、曲がらなかったのだろう。

     *

 水曜日の午後四時過ぎ。

 午前中からの雨は昼過ぎにやみ、南倉市の住宅街には濡れた舗装の匂いが残っていた。低い屋根の向こうから傾いた陽が差し、アスファルトの水たまりだけが白く光っている。塀に沿って流れる風は少し冷たく、どこかの家で煮ている醤油の匂いが、雨上がりの土の匂いに混じっていた。

 亮介は仕事の帰りだった。

 この日は市役所を早めに出て、近くの郵便局へ私用の書類を出しに行くつもりだった。郵便局へは大通りを使うのが分かりやすいが、住宅街の中を抜けても行ける。

 どちらが近いのかは、正確には知らない。

 以前なら、そこまで考えなかった。

 歩き慣れた道を進み、いつもの角を曲がり、目的地へ着く。それだけだった。

 しかし最近は、どの道を歩くか決めるのにも時間がかかる。

 人が多い道か。

 少ない道か。

 向こうから歩行者が来たとき、自然にすれ違えるか。

 そんなことを考えているうちに、かえって足が重くなる。

 今日はなるべく考えずに歩こうと決めていた。

 だから、丁字路でも迷わず直進した。

 まっすぐ進めば郵便局へ行ける。

 それで十分なはずだった。

 亮介はもう一度、左側の道を見た。

 特に変わったところはない。

 塀の続く住宅街で、少し先には自動販売機が置かれている。電柱の下には小さな植木鉢が並び、古い自転車が一台、家の壁へ立てかけられていた。

 その道を通ったことはある。

 しかし、いつだっただろう。

 仕事で近くの舗装を確認したときかもしれない。

 綾音を公園へ連れていった頃にも、あの辺りを歩いたことがあるような気がした。

 亮介は角まで引き返した。

 さっきの男がこちらを見る。

「どうかしました?」

「あ、いえ」

 亮介は軽く頭を下げた。

「ちょっと道を間違えまして」

「そうですか」

 男はそれ以上尋ねず、手帳をポケットへ戻した。

 そして亮介とは反対方向へ歩いていった。

 亮介は、男の背中を少しだけ見送った。

 道を間違えたわけではない。

 自分で直進を選んだ。

 それなのに、ほかの道も通れることを確かめたくなった。

 理由を尋ねられると、うまく説明できない。

 亮介は左へ曲がった。

     *

 細い住宅街へ入ると、通りの音が急に遠くなった。

 両側には二階建ての家が並び、軒下には植木鉢や子ども用の自転車が置かれている。

 塀の向こうから洗濯機の脱水音が聞こえた。

 その隣の家では、換気扇が低い音を立てている。

 亮介は歩く速度を少し落とした。

 初めて来た場所ではない。

 けれど、こんなに家が多かっただろうかと思った。

 角を曲がると、小さな店があった。

 白い看板には、青い文字で「こばやし文具」と書かれている。

 店先には色画用紙やノートが並べられ、ガラス越しに鉛筆の箱が見えた。

 亮介は立ち止まった。

 この店を知っている。

 ずいぶん前に、綾音と一緒に来たことがあった。

 娘がまだ小さかった頃、学校で使う色鉛筆を買った記憶がある。

 どの色がいいか決められず、店の棚の前で長いこと迷っていた。

 たしか、赤と桃色を何度も見比べていた。

 そのときは恵子も一緒だっただろうか。

 亮介は記憶をたどった。

 店内の照明。

 棚に並んだ色鉛筆。

 綾音が手にしていた小さな箱。

 そこまでは思い出せる。

 けれど、誰が会計をしたのかは曖昧だった。

 店の入口が開いた。

 白髪の女性が出てきて、外に置いていた看板を少し動かした。

 亮介に気づき、軽く会釈する。

 亮介も頭を下げた。

 女性は看板の下にたまった落ち葉を掃き始めた。

 店の前へ寄っていた亮介は、邪魔にならないよう一歩離れた。

 何も起こらなかった。

 ただ、店の人が掃除をしているだけだった。

 亮介はその横を通り過ぎた。

 少し先には小さな公園があった。

 綾音と土曜日に通った場所とは別の、遊具が二つしかない公園だった。

 低い滑り台と、鉄棒。

 砂場には黄色いバケツが一つ置き忘れられている。

 夕方の公園には誰もいなかった。

 亮介は入口の前で足を止めた。

 こんなところがあったのか。

 そう思ってから、以前も通ったことがあるのを思い出した。

 記憶から消えていたわけではない。

 ただ、思い出す機会がなかった。

 亮介は公園の中を見た。

 砂場の端には雨水が少したまり、そこに細い木の枝が浮いている。

 明日になれば、誰かがあのバケツを取りに来るのだろうか。

 それとも、ずっと置きっぱなしのものなのだろうか。

 そんなことを考えていると、背後から子どもの声がした。

「お母さん、あった!」

 振り返ると、小学生くらいの男の子が母親と歩いてきた。

 男の子は公園の砂場を指さしている。

「あれ、昨日置いてきちゃったやつ」

「そうなの? じゃあ取っておいで」

 男の子は小走りで公園へ入っていった。

 母親は入口の脇へ寄り、鞄からハンカチを取り出している。

 亮介は二人の様子を見ていた。

 男の子がバケツを拾う。

 底にたまった水を捨てる。

 母親がハンカチを差し出す。

 男の子は濡れた手を拭き、バケツを持ち直した。

「ちゃんと自分で持って帰ってね」

「分かってるよ」

 二人は公園を出て、反対側の道へ歩いていった。

 亮介はその背中を見送った。

 もし自分がここを通らなければ、こんな場面を見ることもなかった。

 当たり前のことだった。

 それでも、妙に心に残った。

     *

 郵便局へ着いたのは、午後四時四十三分だった。

 大通りを使っていれば、もう少し早く来られただろう。

 しかし、窓口はまだ開いていた。

 亮介は書類を差し出し、必要な手続きを済ませた。

 局員が封筒を受け取り、受付印を押す。

 その音を聞きながら、亮介はさっきの丁字路を思い出していた。

 男が足を止めた。

 自分はその横を通り過ぎた。

 その先には、まっすぐな道と左へ曲がる道があった。

 自分は直進した。

 男が止まらなかったとしても、直進したかもしれない。

 もっとも、すれ違うために足を緩めていれば、角で立ち止まることになったかもしれない。

 そうすれば、左へ続く道が目に入っただろうか。

 文具店のことを思い出しただろうか。

 公園のことを考えただろうか。

 亮介は局員から控えを受け取り、鞄へしまった。

 どれも分からない。

 男が足を止めたことと、自分が直進したこと。

 二つの出来事は続けて起きた。

 ただ、それだけだった。

 因果関係があるかどうかは、確かめようがない。

 それでも亮介は、これまで何度も似たことが起きていたのではないかと思った。

 誰かが少し道を譲る。

 自分は歩き続ける。

 立ち止まらず、迷わず、次の角へ進む。

 その繰り返しの中で、通らなかった道があったのではないか。

 亮介は郵便局を出た。

 外では、夕暮れの光が一段と薄くなっていた。

 道路の向こうから男性が歩いてくる。

 男性は亮介の手前で少し歩幅を狭め、上着のポケットを探った。

 何かを確かめようとしている。

 亮介はその動きを見た。

 足を止めそうになった。

 けれど、今度はそのまま歩いた。

 男性の横を通り過ぎる。

 少し先に、小さな角があった。

 右へ曲がれば駅へ近い。

 まっすぐ進んでも帰れる。

 亮介は角の手前で立ち止まった。

 向こうから人が来たからではない。

 何かが邪魔をしているわけでもない。

 自分で道を選ぶためだった。

 しばらく考え、右へ曲がった。

 何も起こらなかった。

 ただ、角を曲がった。

 亮介は歩きながら、さっきの文具店のことを思い出した。

 綾音は、あの店をまだ覚えているだろうか。

 今度会ったら聞いてみよう。

 そう思ったとき、ふと別のことが気になった。

 以前、自分はどのくらいの頻度で、あの店の前を通っていたのだろう。

 そして、いつから通らなくなったのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。