第17話 歩きやすかった
木曜日の朝、浜野理沙は二枚の地図を机の上へ並べた。
一枚は南倉市の市街地図。
もう一枚は、瀬戸亮介が前夜に自分で書き込んだ通勤経路だった。
駅から市役所。
市役所から住宅街。
仕事帰りに通る道。
いくつかの線が、赤いペンで引かれている。
「ずいぶん同じ道を使ってますね」
理沙が言った。
「そうだね。仕事でも通り慣れた場所だし」
「こっちの道は?」
理沙が指さしたのは、昨日亮介が引き返して入った住宅街だった。
「ああ。文具店があった」
「文具店?」
「昔、娘と行ったことがある店だよ。まだ営業してた」
理沙は地図を見た。
「その道、仕事では使わないんですか」
「たまには使うけど、最近はあまり」
「何か理由が?」
「特にないかな。いつもの道のほうが分かりやすいから」
亮介はそう答えた。
理沙は頷き、地図を見直した。
窓の外には薄い雲が広がっていた。
午前中の光は柔らかく、隣の建物の壁に淡い影を落としている。事務室にはコピー用紙と温まった機械の匂いが漂い、廊下からは台車の車輪が継ぎ目を越える音が聞こえていた。
「昨日のこと、少し考えてたんです」
亮介が言った。
「はい」
「人が道を譲ると、俺は止まらずに進めるだろ」
理沙は顔を上げた。
「ええ。そういう傾向はありましたね」
「それって、ただ歩きやすくなるだけじゃないのかもしれない」
亮介は赤い線の上へ指を置いた。
「歩きやすいから、同じ道を使う。立ち止まる必要がないから、そのまま進む」
理沙は黙って聞いていた。
「昨日、丁字路を通り過ぎたあとで、別の道が気になったんだ。戻ってみたら、前に娘と行った文具店があった」
「そうなんですか」
「もしあのとき、向こうから来た人が立ち止まらなかったら、俺も少し速度を落としてたかもしれない。そうしたら、左の道が目に入ったかもしれない」
理沙は地図へ視線を落とした。
「でも、実際にそうなったかどうかは分からないですよね」
「うん」
亮介は頷いた。
「それは分かってる」
理沙は赤い線を指でなぞった。
「普通に歩いていても、いつも同じ道を選ぶ人は多いと思います。私も駅までの道は、ほとんど変えませんし」
「そうだね」
「それが全部、例の現象のせいだとは言えないです」
「うん」
亮介は地図を見た。
一本の赤い線が、何度も同じ角を通っている。
昨日通った文具店の前には、線が引かれていない。
「でも、何も影響がなかったとも言えないんだよな」
理沙は顔を上げた。
少しだけ考え、頷いた。
「そうですね」
二人はしばらく地図を見ていた。
そこにあるのは道路の形だけだった。
誰が歩いていたのか。
どこで誰が立ち止まったのか。
それは、地図には描かれていない。
*
昼休み、亮介は一人で庁舎の裏手を歩いた。
今日は木曜日だった。
午後五時半には、綾音の読み聞かせの練習が終わる。
恵子には、仕事の都合で迎えに行けないかもしれないと伝えてある。
そのあと、まだ訂正していなかった。
亮介は腕時計を見た。
午後零時二十二分。
午後の仕事は、道路台帳の確認だけだった。
急な対応が入らなければ、五時前には終わる。
迎えに行こうと思えば、行けるはずだった。
亮介はポケットからスマートフォンを取り出した。
恵子とのやり取りを開く。
『木曜日は仕事の時間が読めなくて、ちょっと難しいかもしれない』
自分の送った文章を見た。
仕事の時間が読めない。
確かに、現場の都合で予定が変わることはある。
それでも、今日の予定を見れば、迎えに行けない理由はない。
亮介は返信欄へ指を置いた。
『今日は早く終われそうだから』
そこまで打って止まった。
恵子はもう予定を調整しているかもしれない。
綾音にも、母親が迎えに行くと伝えているだろう。
今さら変更しても、かえって迷惑になるのではないか。
そう考えて、文章を消した。
また入力する。
『もしまだ間に合うなら、俺が迎えに行こうか』
今度は送信した。
画面が暗くなるまで、亮介はスマートフォンを見つめていた。
向こうから若い職員が歩いてくる。
片手には飲み物の紙カップを持っていた。
亮介は道の端へ寄った。
職員は普通に通り過ぎた。
そのあと、恵子から返事が届いた。
『ありがとう。でも今日は私が迎えに行くことにしたよ。綾音にもそう話してる』
亮介は文章を読んだ。
続けて、もう一通。
『また別の日にお願いするね』
責める言葉はなかった。
予定を変更する必要もなくなった。
それでよかったはずだった。
亮介は『分かった。ありがとう』と返した。
スマートフォンをしまう。
歩き出そうとして、少し足が止まった。
また別の日。
それがいつなのか、今は分からない。
しかし、次の機会があれば、最初から引き受けよう。
そう思った。
約束してから、どう歩くか考えればいい。
道のほうを先に考えているから、何も決められなくなるのだ。
亮介は歩き出した。
向こうから人が来る。
相手は少し道の端へ寄った。
亮介も自然に肩を引く。
二人はそのまますれ違った。
何も起こらなかった。
それでも、歩き終わるまで亮介は、今の動きを忘れないようにしていた。
*
午後三時過ぎ、理沙が道路維持課へ来た。
亮介は机の上で書類を整理していた。
「瀬戸さん、今少し大丈夫ですか」
「うん」
理沙は椅子を引き寄せた。
「さっきの話、ちょっと気になって」
「道のこと?」
「はい」
理沙は手帳を開いた。
「歩きやすい道を選ぶって、誰でもすることですよね」
「そうだね」
「信号が少ないとか、坂がないとか。そういう理由で」
「うん」
「でも瀬戸さんの場合、周りの人が道を譲ってくれることも、歩きやすさの一つになっていたのかもしれません」
亮介は顔を上げた。
理沙は続けた。
「ただ、それがどのくらい影響してたかは、分からないです」
「そうだろうね」
「だから、過去の道を全部調べても、答えは出ないと思います」
亮介は手元の書類へ目を落とした。
そのとおりだった。
昨日の丁字路も、文具店も、公園も。
通らなかった道をいくら歩いても、そこに何があったかをすべて知ることはできない。
「でも、気になるんだよ」
亮介が言った。
「何がですか」
「自分が今まで、どんなふうに歩いてきたのか」
理沙は黙っていた。
「大したことじゃないんだ。毎日、駅から市役所へ行って、帰るだけで」
「はい」
「でも、その途中で、誰かがちょっと止まってたかもしれない。俺はそれに気づかず通り過ぎてた」
亮介は机の上のペンを持ち上げた。
指のあいだで一度回し、また置く。
「そのとき、何か違うことが起きてたらどうなってたんだろうって」
理沙は手帳を閉じた。
「それは、誰にも分からないですよね」
「うん」
「たぶん、瀬戸さんだけじゃなくて、誰でも」
亮介は彼女を見た。
理沙は少し笑った。
「私だって、今朝違う道から来てたら、誰かに会ってたかもしれないし。何か見つけてたかもしれません」
「そうだね」
「でも、実際にはいつもの道を来ました」
理沙は立ち上がった。
「ただ、瀬戸さんの場合は、道を譲られることが少し多い。それがどんな影響をしてたのか、気になるんですよね」
亮介は頷いた。
理沙は手帳を鞄へしまった。
「無理に全部調べなくてもいいと思います」
そう言って、少し間を置いた。
「これから違う道を選ぶことは、できますから」
亮介はその言葉を聞いていた。
これから。
その言葉が、思っていたよりも遠く感じられた。
今まで通らなかった道。
これから通る道。
どちらも、地図の上では同じ線だった。
けれど、そこに何があるのかは、歩いてみなければ分からない。
*
夕方、亮介は仕事を終えても、すぐには帰らなかった。
窓の外では、空が少しずつ暗くなっている。
庁舎の裏手を歩く人々の姿が、街灯の下に小さく見えた。
午後五時二十分。
綾音の練習が終わるまで、あと十分ほどだった。
恵子はもう学校へ向かっているだろう。
亮介はスマートフォンを取り出した。
綾音とのメッセージを開く。
最後のやり取りは、土曜日の本屋のあとだった。
『本、ありがとう!』
娘はそう送ってきていた。
亮介は、その文章を見た。
読み聞かせの練習は、うまくいっただろうか。
声を出して読むと、何分かかったのだろう。
あの夜の海の絵本を、ちゃんと読めたのだろうか。
聞いてみよう。
亮介は入力した。
『今日の練習、どうだった?』
送信すると、すぐには返事が来なかった。
学校にいるのだから当然だった。
亮介はスマートフォンを机へ置いた。
しばらくして、画面が光った。
『まだ終わってない!』
そのあとに、少し怒った顔のスタンプが送られてきた。
亮介は思わず笑った。
『ごめん。終わったら教えて』
返信する。
数分後、綾音からもう一通届いた。
『うん。ママ来たら帰る』
亮介は画面を見た。
恵子が迎えに行く。
自分は、ここにいる。
それだけのことだった。
自分で断ったのだから、仕方がない。
亮介は窓の外を見た。
人々が歩いている。
誰かが立ち止まり、誰かが通り過ぎる。
何でもない夕方だった。
亮介は椅子から立ち上がった。
今日は、いつもの道で帰ろうと思った。
人の少ない道を探すのではなく。
足を止める理由を探すのでもなく。
自分が帰りたい道を歩いてみよう。
そう決めて、鞄を持った。




