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通らない道  作者: asnt2026


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17/30

第17話 歩きやすかった

木曜日の朝、浜野理沙は二枚の地図を机の上へ並べた。

 一枚は南倉市の市街地図。

 もう一枚は、瀬戸亮介が前夜に自分で書き込んだ通勤経路だった。

 駅から市役所。

 市役所から住宅街。

 仕事帰りに通る道。

 いくつかの線が、赤いペンで引かれている。

「ずいぶん同じ道を使ってますね」

 理沙が言った。

「そうだね。仕事でも通り慣れた場所だし」

「こっちの道は?」

 理沙が指さしたのは、昨日亮介が引き返して入った住宅街だった。

「ああ。文具店があった」

「文具店?」

「昔、娘と行ったことがある店だよ。まだ営業してた」

 理沙は地図を見た。

「その道、仕事では使わないんですか」

「たまには使うけど、最近はあまり」

「何か理由が?」

「特にないかな。いつもの道のほうが分かりやすいから」

 亮介はそう答えた。

 理沙は頷き、地図を見直した。

 窓の外には薄い雲が広がっていた。

 午前中の光は柔らかく、隣の建物の壁に淡い影を落としている。事務室にはコピー用紙と温まった機械の匂いが漂い、廊下からは台車の車輪が継ぎ目を越える音が聞こえていた。

「昨日のこと、少し考えてたんです」

 亮介が言った。

「はい」

「人が道を譲ると、俺は止まらずに進めるだろ」

 理沙は顔を上げた。

「ええ。そういう傾向はありましたね」

「それって、ただ歩きやすくなるだけじゃないのかもしれない」

 亮介は赤い線の上へ指を置いた。

「歩きやすいから、同じ道を使う。立ち止まる必要がないから、そのまま進む」

 理沙は黙って聞いていた。

「昨日、丁字路を通り過ぎたあとで、別の道が気になったんだ。戻ってみたら、前に娘と行った文具店があった」

「そうなんですか」

「もしあのとき、向こうから来た人が立ち止まらなかったら、俺も少し速度を落としてたかもしれない。そうしたら、左の道が目に入ったかもしれない」

 理沙は地図へ視線を落とした。

「でも、実際にそうなったかどうかは分からないですよね」

「うん」

 亮介は頷いた。

「それは分かってる」

 理沙は赤い線を指でなぞった。

「普通に歩いていても、いつも同じ道を選ぶ人は多いと思います。私も駅までの道は、ほとんど変えませんし」

「そうだね」

「それが全部、例の現象のせいだとは言えないです」

「うん」

 亮介は地図を見た。

 一本の赤い線が、何度も同じ角を通っている。

 昨日通った文具店の前には、線が引かれていない。

「でも、何も影響がなかったとも言えないんだよな」

 理沙は顔を上げた。

 少しだけ考え、頷いた。

「そうですね」

 二人はしばらく地図を見ていた。

 そこにあるのは道路の形だけだった。

 誰が歩いていたのか。

 どこで誰が立ち止まったのか。

 それは、地図には描かれていない。

     *

 昼休み、亮介は一人で庁舎の裏手を歩いた。

 今日は木曜日だった。

 午後五時半には、綾音の読み聞かせの練習が終わる。

 恵子には、仕事の都合で迎えに行けないかもしれないと伝えてある。

 そのあと、まだ訂正していなかった。

 亮介は腕時計を見た。

 午後零時二十二分。

 午後の仕事は、道路台帳の確認だけだった。

 急な対応が入らなければ、五時前には終わる。

 迎えに行こうと思えば、行けるはずだった。

 亮介はポケットからスマートフォンを取り出した。

 恵子とのやり取りを開く。

『木曜日は仕事の時間が読めなくて、ちょっと難しいかもしれない』

 自分の送った文章を見た。

 仕事の時間が読めない。

 確かに、現場の都合で予定が変わることはある。

 それでも、今日の予定を見れば、迎えに行けない理由はない。

 亮介は返信欄へ指を置いた。

『今日は早く終われそうだから』

 そこまで打って止まった。

 恵子はもう予定を調整しているかもしれない。

 綾音にも、母親が迎えに行くと伝えているだろう。

 今さら変更しても、かえって迷惑になるのではないか。

 そう考えて、文章を消した。

 また入力する。

『もしまだ間に合うなら、俺が迎えに行こうか』

 今度は送信した。

 画面が暗くなるまで、亮介はスマートフォンを見つめていた。

 向こうから若い職員が歩いてくる。

 片手には飲み物の紙カップを持っていた。

 亮介は道の端へ寄った。

 職員は普通に通り過ぎた。

 そのあと、恵子から返事が届いた。

『ありがとう。でも今日は私が迎えに行くことにしたよ。綾音にもそう話してる』

 亮介は文章を読んだ。

 続けて、もう一通。

『また別の日にお願いするね』

 責める言葉はなかった。

 予定を変更する必要もなくなった。

 それでよかったはずだった。

 亮介は『分かった。ありがとう』と返した。

 スマートフォンをしまう。

 歩き出そうとして、少し足が止まった。

 また別の日。

 それがいつなのか、今は分からない。

 しかし、次の機会があれば、最初から引き受けよう。

 そう思った。

 約束してから、どう歩くか考えればいい。

 道のほうを先に考えているから、何も決められなくなるのだ。

 亮介は歩き出した。

 向こうから人が来る。

 相手は少し道の端へ寄った。

 亮介も自然に肩を引く。

 二人はそのまますれ違った。

 何も起こらなかった。

 それでも、歩き終わるまで亮介は、今の動きを忘れないようにしていた。

     *

 午後三時過ぎ、理沙が道路維持課へ来た。

 亮介は机の上で書類を整理していた。

「瀬戸さん、今少し大丈夫ですか」

「うん」

 理沙は椅子を引き寄せた。

「さっきの話、ちょっと気になって」

「道のこと?」

「はい」

 理沙は手帳を開いた。

「歩きやすい道を選ぶって、誰でもすることですよね」

「そうだね」

「信号が少ないとか、坂がないとか。そういう理由で」

「うん」

「でも瀬戸さんの場合、周りの人が道を譲ってくれることも、歩きやすさの一つになっていたのかもしれません」

 亮介は顔を上げた。

 理沙は続けた。

「ただ、それがどのくらい影響してたかは、分からないです」

「そうだろうね」

「だから、過去の道を全部調べても、答えは出ないと思います」

 亮介は手元の書類へ目を落とした。

 そのとおりだった。

 昨日の丁字路も、文具店も、公園も。

 通らなかった道をいくら歩いても、そこに何があったかをすべて知ることはできない。

「でも、気になるんだよ」

 亮介が言った。

「何がですか」

「自分が今まで、どんなふうに歩いてきたのか」

 理沙は黙っていた。

「大したことじゃないんだ。毎日、駅から市役所へ行って、帰るだけで」

「はい」

「でも、その途中で、誰かがちょっと止まってたかもしれない。俺はそれに気づかず通り過ぎてた」

 亮介は机の上のペンを持ち上げた。

 指のあいだで一度回し、また置く。

「そのとき、何か違うことが起きてたらどうなってたんだろうって」

 理沙は手帳を閉じた。

「それは、誰にも分からないですよね」

「うん」

「たぶん、瀬戸さんだけじゃなくて、誰でも」

 亮介は彼女を見た。

 理沙は少し笑った。

「私だって、今朝違う道から来てたら、誰かに会ってたかもしれないし。何か見つけてたかもしれません」

「そうだね」

「でも、実際にはいつもの道を来ました」

 理沙は立ち上がった。

「ただ、瀬戸さんの場合は、道を譲られることが少し多い。それがどんな影響をしてたのか、気になるんですよね」

 亮介は頷いた。

 理沙は手帳を鞄へしまった。

「無理に全部調べなくてもいいと思います」

 そう言って、少し間を置いた。

「これから違う道を選ぶことは、できますから」

 亮介はその言葉を聞いていた。

 これから。

 その言葉が、思っていたよりも遠く感じられた。

 今まで通らなかった道。

 これから通る道。

 どちらも、地図の上では同じ線だった。

 けれど、そこに何があるのかは、歩いてみなければ分からない。

     *

 夕方、亮介は仕事を終えても、すぐには帰らなかった。

 窓の外では、空が少しずつ暗くなっている。

 庁舎の裏手を歩く人々の姿が、街灯の下に小さく見えた。

 午後五時二十分。

 綾音の練習が終わるまで、あと十分ほどだった。

 恵子はもう学校へ向かっているだろう。

 亮介はスマートフォンを取り出した。

 綾音とのメッセージを開く。

 最後のやり取りは、土曜日の本屋のあとだった。

『本、ありがとう!』

 娘はそう送ってきていた。

 亮介は、その文章を見た。

 読み聞かせの練習は、うまくいっただろうか。

 声を出して読むと、何分かかったのだろう。

 あの夜の海の絵本を、ちゃんと読めたのだろうか。

 聞いてみよう。

 亮介は入力した。

『今日の練習、どうだった?』

 送信すると、すぐには返事が来なかった。

 学校にいるのだから当然だった。

 亮介はスマートフォンを机へ置いた。

 しばらくして、画面が光った。

『まだ終わってない!』

 そのあとに、少し怒った顔のスタンプが送られてきた。

 亮介は思わず笑った。

『ごめん。終わったら教えて』

 返信する。

 数分後、綾音からもう一通届いた。

『うん。ママ来たら帰る』

 亮介は画面を見た。

 恵子が迎えに行く。

 自分は、ここにいる。

 それだけのことだった。

 自分で断ったのだから、仕方がない。

 亮介は窓の外を見た。

 人々が歩いている。

 誰かが立ち止まり、誰かが通り過ぎる。

 何でもない夕方だった。

 亮介は椅子から立ち上がった。

 今日は、いつもの道で帰ろうと思った。

 人の少ない道を探すのではなく。

 足を止める理由を探すのでもなく。

 自分が帰りたい道を歩いてみよう。

 そう決めて、鞄を持った。

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