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通らない道  作者: asnt2026


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18/30

第18話 戻ってみる

帰り道を変えたのは、駅へ向かう角を曲がる直前だった。

 亮介は、いつもの大通りへ続く道を見た。

 そこには、もう何年も通っている風景がある。

 背の低いビル。

 古い薬局。

 道路の反対側にある、小さなクリーニング店。

 いつもなら、迷わずそちらへ進む。

 しかし今日は、足を止めて考えた。

 左へ曲がれば、大通り。

 右へ曲がれば、住宅街の裏手。

 先日、綾音と歩いた公園の近くへ抜ける道もある。

 どこを通っても、駅へ着ける。

 亮介は右へ曲がった。

 木曜日の午後五時二十七分。

 低い雲が空を覆い、夕方の光はすでに薄くなっていた。家々の窓から漏れる明かりが、道路の端を柔らかく照らしている。近くの家では夕食を作っているらしく、味噌と焼き魚の匂いが風に乗って流れてきた。道端には乾いた落ち葉がたまり、靴で踏むと小さく砕ける音がした。

 亮介は、ゆっくり歩いた。

 今日は綾音を迎えに行かない。

 そのことは決まっていた。

 恵子が迎えに行く。

 娘も、そう聞いている。

 今さら学校へ行っても、二人を困らせるだけだろう。

 だから亮介は、学校ではない方向へ進んだ。

 ただ、いつもと違う道を歩いてみたかった。

 自分が曲がろうと思ったところで、曲がれるのか。

 それを確かめたかった。

     *

 住宅街へ入って間もなく、小さな公園が見えてきた。

 土曜日、綾音と通った公園だった。

 低いフェンスの向こうに滑り台があり、その隣には緑色の座面のブランコが二つ並んでいる。

 今は子どもの姿がなかった。

 風が吹くと、ブランコの鎖がわずかに揺れる。

 金具が触れ合う小さな音がした。

 亮介はフェンスに沿って歩いた。

 娘は、ブランコが新しくなったと教えてくれた。

 以前は青だった。

 今は緑。

 亮介には、前の色が思い出せなかった。

 毎日のように見ている綾音には、当たり前の違いなのだろう。

 自分はその変化を知らなかった。

 亮介は公園の入口で足を止めた。

 中には誰もいない。

 滑り台の下には、細かな砂がたまっている。

 ブランコの近くには、折れた木の枝が一本落ちていた。

 静かな公園だった。

 亮介は、ここへ入ろうかと考えた。

 特に用事はない。

 遊具を使うわけでもない。

 ただ、以前と変わったところを見てみたかった。

 入口の前で少し迷い、結局そのまま通り過ぎた。

 数歩進んだところで、足が止まる。

 どうして入らなかったのだろう。

 人がいなかったからか。

 いい年をした男が、一人で公園へ入るのは変だと思ったからか。

 それとも、何となく歩き続けたかっただけなのか。

 亮介は振り返った。

 公園の入口は、まだすぐそこにある。

 戻れば入れる。

 誰も止めない。

 亮介は来た道を引き返した。

 そして公園の中へ入った。

     *

 足元の砂は、思ったより柔らかかった。

 舗装された道路とは違い、踏むたびに靴底が少し沈む。

 亮介は滑り台の近くへ歩いた。

 鉄製の支柱には、小さな傷がいくつもついている。

 階段の下には、落ち葉が二、三枚たまっていた。

 少し離れた場所にベンチがある。

 木製の座面は一部の塗装が剥がれ、端には雨の染みが残っていた。

 亮介はベンチへ腰を下ろした。

 座面が少し冷たい。

 遠くから車の走る音が聞こえ、近くの家では食器の触れ合う音がした。

 風が吹くと、公園の隅に植えられた木の枝が揺れる。

 どこかの家の窓が開いた。

「ごはんできたよ」

 女性の声がした。

 少し遅れて、子どもの返事が聞こえる。

「はーい」

 そのあと、足音が遠ざかっていった。

 亮介はベンチに座ったまま、しばらく公園を眺めていた。

 何も起こらない。

 誰も来ない。

 ただ時間だけが過ぎていく。

 けれど、そこには自分が知らない暮らしがある。

 毎日、この公園で遊んでいる子どもたち。

 それを迎えに来る親。

 ここで休んでいく人。

 家へ帰る途中に立ち寄る人。

 亮介が通らなかった日にも、そうした時間はあったのだろう。

 自分が見ていなかっただけで。

 亮介は足元の砂を見た。

 靴先で小さな線を引く。

 細い溝ができた。

 もう一度、同じところをなぞる。

 砂が左右へ寄り、線が少し深くなった。

 そこへ風が吹いた。

 乾いた砂がわずかに動き、線の端を崩していく。

 亮介は靴を引いた。

 別に、何かを描きたかったわけではない。

 ただ、足元に線ができたから、もう一度なぞってみただけだった。

 そんなことにも、理由はある。

 しかし、それを誰かに説明しろと言われたら、うまく言葉にできないだろう。

 亮介は、自分がさっき曲がった角のことを思い出した。

 右へ曲がろうと思った。

 だから曲がった。

 それだけだった。

 その結果、今ここにいる。

 もし左へ曲がっていたら、もう駅へ着いていたかもしれない。

 けれど、どちらが正しかったのかは分からない。

 比べる方法がないからだった。

     *

 スマートフォンが震えた。

 綾音からだった。

『練習おわった!』

 亮介は画面を見た。

 午後五時四十一分。

 練習は予定より少し長引いたらしい。

『お疲れさま。どうだった?』

 すぐに返事が来た。

『六分ちょっとかかった』

 続けて、

『五分までにしないとだめなんだって』

 亮介は少し笑った。

 あの絵本を選んだとき、綾音は時間が足りなくなるかもしれないと言っていた。

『読むところを少し減らすの?』

『それはやだ』

 短い返事だった。

 亮介は画面を見つめた。

 娘は、本の一部を省略したくないらしい。

 買うときに気に入った絵があった。

 夜の海と、小さな船。

 あの場面を読むために、その絵本を選んだのかもしれない。

『先生には何て言われた?』

『もうちょっと練習してみてって』

『じゃあ、まだ時間あるんだね』

『うん』

 亮介は少し考えた。

 木曜日の迎えは断ってしまった。

 けれど、今からできることが何もないわけではない。

『今度、パパにも聞かせてくれる?』

 送信する。

 しばらくして返事が届いた。

『いいよ』

 そのあと、

『日曜日、電話できる?』

 亮介は腕時計を見た。

 日曜日の夕方には、特に予定がない。

『できるよ。何時がいい?』

『四時くらい』

『分かった。四時に電話する』

 少し間が空いた。

『ちゃんと聞いてね』

 亮介は画面を見て、口元を緩めた。

『もちろん』

 送信すると、笑っている猫のスタンプが届いた。

 亮介はスマートフォンを閉じた。

 公園には、もうほとんど明かりが残っていなかった。

 滑り台の金属部分が、街灯の光を薄く反射している。

 亮介はベンチから立ち上がった。

 日曜日の午後四時。

 娘の読み聞かせを聞く。

 それだけの約束だった。

 しかし今回は、駅までの道を考える必要がなかった。

 誰かとすれ違う心配もない。

 電話をかければいい。

 亮介は公園の出口へ向かった。

 そこで少し考え、立ち止まった。

 電話なら、確かに歩かなくてもできる。

 けれど、次に綾音と会うときも、ずっとそういう方法を選ぶつもりなのだろうか。

 娘と顔を合わせるためには、どこかへ行かなければならない。

 そのとき、自分はまた人の少ない道を探すのだろうか。

 亮介は出口の向こうを見た。

 住宅街には街灯が点き始めている。

 向こうから女性が一人歩いてきた。

 片手には買い物袋を提げていた。

 亮介は、女性の歩く方向を確かめた。

 公園の前を通り過ぎるらしい。

 自分が出口へ進めば、ちょうど近くですれ違うことになる。

 亮介は足を止めたまま、女性が通り過ぎるのを待とうとした。

 しかし途中で考え直した。

 今は、相手の進路を塞いでいるわけではない。

 少し端へ寄れば、普通に通れる。

 亮介は出口の右側へ寄り、公園から出た。

 女性も、わずかに道路の端へ身体を傾けた。

 二人はそのまますれ違った。

 女性は止まらなかった。

 亮介も止まらなかった。

 数歩進んでから、亮介は振り返った。

 女性はもう遠ざかっている。

 何も起こらなかった。

 そのことに、少しだけ肩の力が抜けた。

     *

 駅へ向かう途中、亮介は先日の文具店の前を通った。

 店はもう閉まっていた。

 シャッターの横には、小さな営業時間の札が掛かっている。

 ガラス越しに見えていた色鉛筆の棚は、暗くてよく分からなかった。

 亮介はその前で足を止めた。

 以前、綾音と来たことがある。

 その記憶は、まだ曖昧なままだった。

 店の中で娘が何を話したのか。

 どんな色を選んだのか。

 帰り道に、どこへ寄ったのか。

 どれも、はっきりしない。

 亮介はシャッターを見つめた。

 戻ってきたところで、昔の時間が戻るわけではない。

 同じ場所に立っても、あのとき何があったのかを、すべて思い出せるわけではない。

 それでも、文具店がまだ営業していることは分かった。

 公園のブランコが緑色になっていることも知った。

 綾音が読み聞かせの練習をしていることも、今は知っている。

 亮介は鞄を持ち直した。

 今日は、わざわざ違う道を歩いた。

 その結果、何か特別なものを見つけたわけではない。

 ただ、知らなかったことを少しだけ知った。

 それで十分なのかもしれなかった。

 亮介は駅へ向かって歩き出した。

 商店街へ続く道には、まだ何人かの歩行者がいた。

 その一人が、亮介の少し前で足を止めた。

 鞄の中を探っている。

 亮介はその横を通り過ぎた。

 背後で、鞄の留め具が閉まる音がした。

 振り返らなかった。

 何も起こらなかったかどうかを、もう一度確かめたい気持ちはあった。

 けれど今日は、そのまま歩いた。

 駅へ着いたら、綾音との日曜日の約束を予定表に入れておこう。

 そんなことを考えていた。

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