第18話 戻ってみる
帰り道を変えたのは、駅へ向かう角を曲がる直前だった。
亮介は、いつもの大通りへ続く道を見た。
そこには、もう何年も通っている風景がある。
背の低いビル。
古い薬局。
道路の反対側にある、小さなクリーニング店。
いつもなら、迷わずそちらへ進む。
しかし今日は、足を止めて考えた。
左へ曲がれば、大通り。
右へ曲がれば、住宅街の裏手。
先日、綾音と歩いた公園の近くへ抜ける道もある。
どこを通っても、駅へ着ける。
亮介は右へ曲がった。
木曜日の午後五時二十七分。
低い雲が空を覆い、夕方の光はすでに薄くなっていた。家々の窓から漏れる明かりが、道路の端を柔らかく照らしている。近くの家では夕食を作っているらしく、味噌と焼き魚の匂いが風に乗って流れてきた。道端には乾いた落ち葉がたまり、靴で踏むと小さく砕ける音がした。
亮介は、ゆっくり歩いた。
今日は綾音を迎えに行かない。
そのことは決まっていた。
恵子が迎えに行く。
娘も、そう聞いている。
今さら学校へ行っても、二人を困らせるだけだろう。
だから亮介は、学校ではない方向へ進んだ。
ただ、いつもと違う道を歩いてみたかった。
自分が曲がろうと思ったところで、曲がれるのか。
それを確かめたかった。
*
住宅街へ入って間もなく、小さな公園が見えてきた。
土曜日、綾音と通った公園だった。
低いフェンスの向こうに滑り台があり、その隣には緑色の座面のブランコが二つ並んでいる。
今は子どもの姿がなかった。
風が吹くと、ブランコの鎖がわずかに揺れる。
金具が触れ合う小さな音がした。
亮介はフェンスに沿って歩いた。
娘は、ブランコが新しくなったと教えてくれた。
以前は青だった。
今は緑。
亮介には、前の色が思い出せなかった。
毎日のように見ている綾音には、当たり前の違いなのだろう。
自分はその変化を知らなかった。
亮介は公園の入口で足を止めた。
中には誰もいない。
滑り台の下には、細かな砂がたまっている。
ブランコの近くには、折れた木の枝が一本落ちていた。
静かな公園だった。
亮介は、ここへ入ろうかと考えた。
特に用事はない。
遊具を使うわけでもない。
ただ、以前と変わったところを見てみたかった。
入口の前で少し迷い、結局そのまま通り過ぎた。
数歩進んだところで、足が止まる。
どうして入らなかったのだろう。
人がいなかったからか。
いい年をした男が、一人で公園へ入るのは変だと思ったからか。
それとも、何となく歩き続けたかっただけなのか。
亮介は振り返った。
公園の入口は、まだすぐそこにある。
戻れば入れる。
誰も止めない。
亮介は来た道を引き返した。
そして公園の中へ入った。
*
足元の砂は、思ったより柔らかかった。
舗装された道路とは違い、踏むたびに靴底が少し沈む。
亮介は滑り台の近くへ歩いた。
鉄製の支柱には、小さな傷がいくつもついている。
階段の下には、落ち葉が二、三枚たまっていた。
少し離れた場所にベンチがある。
木製の座面は一部の塗装が剥がれ、端には雨の染みが残っていた。
亮介はベンチへ腰を下ろした。
座面が少し冷たい。
遠くから車の走る音が聞こえ、近くの家では食器の触れ合う音がした。
風が吹くと、公園の隅に植えられた木の枝が揺れる。
どこかの家の窓が開いた。
「ごはんできたよ」
女性の声がした。
少し遅れて、子どもの返事が聞こえる。
「はーい」
そのあと、足音が遠ざかっていった。
亮介はベンチに座ったまま、しばらく公園を眺めていた。
何も起こらない。
誰も来ない。
ただ時間だけが過ぎていく。
けれど、そこには自分が知らない暮らしがある。
毎日、この公園で遊んでいる子どもたち。
それを迎えに来る親。
ここで休んでいく人。
家へ帰る途中に立ち寄る人。
亮介が通らなかった日にも、そうした時間はあったのだろう。
自分が見ていなかっただけで。
亮介は足元の砂を見た。
靴先で小さな線を引く。
細い溝ができた。
もう一度、同じところをなぞる。
砂が左右へ寄り、線が少し深くなった。
そこへ風が吹いた。
乾いた砂がわずかに動き、線の端を崩していく。
亮介は靴を引いた。
別に、何かを描きたかったわけではない。
ただ、足元に線ができたから、もう一度なぞってみただけだった。
そんなことにも、理由はある。
しかし、それを誰かに説明しろと言われたら、うまく言葉にできないだろう。
亮介は、自分がさっき曲がった角のことを思い出した。
右へ曲がろうと思った。
だから曲がった。
それだけだった。
その結果、今ここにいる。
もし左へ曲がっていたら、もう駅へ着いていたかもしれない。
けれど、どちらが正しかったのかは分からない。
比べる方法がないからだった。
*
スマートフォンが震えた。
綾音からだった。
『練習おわった!』
亮介は画面を見た。
午後五時四十一分。
練習は予定より少し長引いたらしい。
『お疲れさま。どうだった?』
すぐに返事が来た。
『六分ちょっとかかった』
続けて、
『五分までにしないとだめなんだって』
亮介は少し笑った。
あの絵本を選んだとき、綾音は時間が足りなくなるかもしれないと言っていた。
『読むところを少し減らすの?』
『それはやだ』
短い返事だった。
亮介は画面を見つめた。
娘は、本の一部を省略したくないらしい。
買うときに気に入った絵があった。
夜の海と、小さな船。
あの場面を読むために、その絵本を選んだのかもしれない。
『先生には何て言われた?』
『もうちょっと練習してみてって』
『じゃあ、まだ時間あるんだね』
『うん』
亮介は少し考えた。
木曜日の迎えは断ってしまった。
けれど、今からできることが何もないわけではない。
『今度、パパにも聞かせてくれる?』
送信する。
しばらくして返事が届いた。
『いいよ』
そのあと、
『日曜日、電話できる?』
亮介は腕時計を見た。
日曜日の夕方には、特に予定がない。
『できるよ。何時がいい?』
『四時くらい』
『分かった。四時に電話する』
少し間が空いた。
『ちゃんと聞いてね』
亮介は画面を見て、口元を緩めた。
『もちろん』
送信すると、笑っている猫のスタンプが届いた。
亮介はスマートフォンを閉じた。
公園には、もうほとんど明かりが残っていなかった。
滑り台の金属部分が、街灯の光を薄く反射している。
亮介はベンチから立ち上がった。
日曜日の午後四時。
娘の読み聞かせを聞く。
それだけの約束だった。
しかし今回は、駅までの道を考える必要がなかった。
誰かとすれ違う心配もない。
電話をかければいい。
亮介は公園の出口へ向かった。
そこで少し考え、立ち止まった。
電話なら、確かに歩かなくてもできる。
けれど、次に綾音と会うときも、ずっとそういう方法を選ぶつもりなのだろうか。
娘と顔を合わせるためには、どこかへ行かなければならない。
そのとき、自分はまた人の少ない道を探すのだろうか。
亮介は出口の向こうを見た。
住宅街には街灯が点き始めている。
向こうから女性が一人歩いてきた。
片手には買い物袋を提げていた。
亮介は、女性の歩く方向を確かめた。
公園の前を通り過ぎるらしい。
自分が出口へ進めば、ちょうど近くですれ違うことになる。
亮介は足を止めたまま、女性が通り過ぎるのを待とうとした。
しかし途中で考え直した。
今は、相手の進路を塞いでいるわけではない。
少し端へ寄れば、普通に通れる。
亮介は出口の右側へ寄り、公園から出た。
女性も、わずかに道路の端へ身体を傾けた。
二人はそのまますれ違った。
女性は止まらなかった。
亮介も止まらなかった。
数歩進んでから、亮介は振り返った。
女性はもう遠ざかっている。
何も起こらなかった。
そのことに、少しだけ肩の力が抜けた。
*
駅へ向かう途中、亮介は先日の文具店の前を通った。
店はもう閉まっていた。
シャッターの横には、小さな営業時間の札が掛かっている。
ガラス越しに見えていた色鉛筆の棚は、暗くてよく分からなかった。
亮介はその前で足を止めた。
以前、綾音と来たことがある。
その記憶は、まだ曖昧なままだった。
店の中で娘が何を話したのか。
どんな色を選んだのか。
帰り道に、どこへ寄ったのか。
どれも、はっきりしない。
亮介はシャッターを見つめた。
戻ってきたところで、昔の時間が戻るわけではない。
同じ場所に立っても、あのとき何があったのかを、すべて思い出せるわけではない。
それでも、文具店がまだ営業していることは分かった。
公園のブランコが緑色になっていることも知った。
綾音が読み聞かせの練習をしていることも、今は知っている。
亮介は鞄を持ち直した。
今日は、わざわざ違う道を歩いた。
その結果、何か特別なものを見つけたわけではない。
ただ、知らなかったことを少しだけ知った。
それで十分なのかもしれなかった。
亮介は駅へ向かって歩き出した。
商店街へ続く道には、まだ何人かの歩行者がいた。
その一人が、亮介の少し前で足を止めた。
鞄の中を探っている。
亮介はその横を通り過ぎた。
背後で、鞄の留め具が閉まる音がした。
振り返らなかった。
何も起こらなかったかどうかを、もう一度確かめたい気持ちはあった。
けれど今日は、そのまま歩いた。
駅へ着いたら、綾音との日曜日の約束を予定表に入れておこう。
そんなことを考えていた。




