第19話 説明できないこと
「瀬戸さん、これ、来週から高野さんにお願いしてもいいですか」
係長が差し出したのは、道路補修工事の立ち会い予定表だった。
金曜日の午前十時。
道路維持課の事務室では、電話の音とプリンターの作動音が重なっていた。窓の外には低い雲が広がり、隣の建物の壁に淡い光が落ちている。室内には紙とコーヒーの匂いが混じり、暖房を入れるには早いが窓を開けておくには少し寒い、そんな気温だった。
亮介は予定表を受け取った。
月曜日の午前九時。
西町の道路補修工事。
自分が担当していた案件だった。
「高野くんにですか」
「ええ。先方との連絡も、今週は高野さんがやってくれてましたよね」
「はい」
「現場に詳しい人が行ったほうがいいと思って」
係長は穏やかな口調で言った。
亮介は予定表を見た。
自分の名前が書かれていた欄に、細い赤線が引かれている。
その横に、高野の名前が追記されていた。
「分かりました」
亮介は答えた。
係長は少し頷いた。
「瀬戸さんには、別の確認をお願いしたいんです。最近、少し外へ出るのが大変そうでしたから」
亮介は顔を上げた。
「大変というほどでは」
「そうですか」
係長は少し間を置いた。
「ならいいんですけど。無理しなくていいですよ」
それだけ言って、自分の席へ戻っていった。
亮介は予定表を机へ置いた。
高野へ担当が替わった。
仕事の割り振りが変わることは珍しくない。
誰かが忙しければ、別の職員が対応する。
それだけのことだった。
けれど、今週自分が何度か現場へ遅れたことも、歩く速度が遅くなっていることも、係長は見ていたのだろう。
亮介は机の端へ置いた鞄を見た。
外出用の資料が入っている。
今日も午後には現場へ行く予定だった。
それを開こうとして、手が止まった。
自分が歩くのをためらっていることが、仕事の予定まで変え始めている。
そう考えると、予定表に引かれた細い赤線が、妙に目についた。
*
昼休み、亮介は理沙を呼び止めた。
廊下の奥にある小さな休憩スペースだった。
理沙は自動販売機で温かいお茶を買ったところで、缶を両手で包むように持っている。
「浜野さん、少し話せる?」
「はい」
二人は窓際の椅子へ座った。
外では、風に飛ばされた落ち葉が駐車場の隅へ集まっている。
「来週の立ち会い、高野くんに替わったんだ」
亮介が言った。
「そうなんですか」
「俺が最近、外へ出るのをためらってるからだと思う」
理沙は缶を膝の上へ置いた。
「係長から何か言われたんですか」
「無理しなくていいって」
「それなら、仕事の調整をしてくれたんじゃないですか」
「そうだと思う」
亮介は頷いた。
しかし、言葉が続かなかった。
理沙はしばらく待っていたが、やがて口を開いた。
「瀬戸さん、最近ずっと気にしてますよね」
「何を?」
「歩くこともそうですけど、誰かが止まった理由とか、自分がどの道を選んだかとか」
「うん」
「私も気になります。自分で止まったときのことも、まだ考えてます」
理沙は缶を見た。
温かいお茶の表面に、細かな水滴がついている。
「でも、どこまで確かめても、全部は分からないと思うんです」
亮介は窓の外を見た。
職員が一人、駐車場を歩いている。
手には書類を持っていた。
男性は途中で立ち止まり、車の鍵を取り出した。
そのあと、また歩き始める。
亮介はその動きを目で追っていた。
「分かってるんだけどね」
小さく答えた。
「気づくと、見てるんだよ」
理沙は頷いた。
「私もです」
「何でもない動きまで、気になる」
「はい」
「それで、何か理由があると安心する。でも、理由があるのは当たり前なんだよな」
理沙は缶を持ち上げ、少しだけ飲んだ。
「瀬戸さん」
「うん」
「もう、歩いている人の観察は、仕事として続けないほうがいいと思います」
亮介は彼女を見た。
「どうして?」
「道路に危険があるかどうかの確認は、もう終わっていますよね」
「うん」
「今やっているのは、瀬戸さん自身のことを確かめるための調査です」
亮介は黙った。
理沙は続けた。
「それが悪いってことじゃないです。でも、市役所の仕事とは分けたほうがいいと思います」
「そうだね」
「深見さんの映像も、あの道路の相談について確認するために見せてもらったものですし」
亮介は頷いた。
そこは、自分でも気になっていた。
道路に異常があるかどうか調べる。
それが最初の目的だった。
今は、自分が歩くことで人々がどう動くのかを確かめようとしている。
同じ場所で起きていることでも、意味が違う。
「これ以上、深見さんにお願いするのはやめよう」
亮介が言った。
「はい」
理沙は少しほっとしたように頷いた。
「そのほうがいいと思います」
亮介は椅子から立ち上がった。
しかし、すぐには歩き出さなかった。
「浜野さん」
「はい」
「じゃあ、俺はどうしたらいいんだろう」
理沙は顔を上げた。
亮介は笑おうとした。
「仕事として調べられないなら、誰に聞けばいいのかなって」
理沙は少し考えた。
「分かりません」
短い返事だった。
「でも、瀬戸さんが歩くこと自体に困っているなら、その困りごとは別に考えていいと思います」
亮介は頷いた。
確かにそうだった。
道を譲る人のことと、自分が歩けなくなっていること。
二つはつながっている。
けれど、同じ問題ではない。
亮介は窓の外を見た。
駐車場を歩いていた男性は、もう見えなくなっていた。
*
夕方、恵子から電話があった。
亮介は仕事を終え、帰宅したところだった。
上着を脱ぎかけたまま、スマートフォンを耳へ当てる。
「もしもし」
『亮介? 今、大丈夫?』
「うん。帰ったところ」
『ちょっと聞きたいことがあって』
恵子の声は、いつもと変わらなかった。
電話の向こうでは食器の触れ合う音がしている。
夕食の支度をしているのだろう。
『昨日の迎えのことなんだけど』
「うん」
『仕事の都合って言ってたでしょう』
亮介は上着を椅子の背へ掛けた。
「そうだね」
『今日、綾音がね。パパ、土曜日はちゃんと歩けたのにって言ってたの』
亮介は黙った。
恵子は少し間を置いて続けた。
『何のことか分からなくて。最近、足でも悪いの?』
「いや、そういうわけじゃ」
『じゃあ、どうしたの』
亮介は食卓の椅子へ座った。
部屋の中は薄暗かった。
照明を点けようとして、やめた。
「歩くとき、ちょっと気になることがあって」
『気になること?』
「人が近づいてくると、立ち止まってしまうんだ」
電話の向こうが静かになった。
亮介は続けた。
「前に、道路の確認をしてたときに気づいたんだけど。俺が歩いてると、近くの人が妙なタイミングで止まることがあって」
『うん』
「靴を直したり、鞄を持ち直したり。普通のことなんだけど、それが何度も続いて」
自分で話していても、説明がうまくまとまらなかった。
「それで、歩くのが気になって。人が来るたびに止まるようになった」
恵子はすぐには答えなかった。
やがて、静かな声で尋ねた。
『それって、今も続いてるの?』
「うん」
『仕事に行くときも?』
「そう」
『じゃあ、結構大変なんじゃない』
亮介は少し驚いた。
笑われると思っていたわけではない。
けれど、もっと不思議そうにされると思っていた。
「まあ、少し」
『少しじゃないでしょう』
恵子は言った。
『綾音の迎えまで断るくらいなんだから』
亮介は顔を伏せた。
部屋の中で、冷蔵庫のモーターが動き始めた。
低い音が、しばらく続く。
「ごめん」
亮介は言った。
『謝ってほしいわけじゃないよ』
恵子の声は、少しだけ硬くなった。
『ただ、仕事で無理なのか、体調がよくないのか、そこはちゃんと教えてほしかった』
「そうだね」
『綾音だって、パパが来てくれると思ってたら、急に来られないってなって。理由が分からなかったら、気にするでしょう』
亮介は何も言えなかった。
昨日、恵子から迎えに行くと言われたとき、少しだけ安心していた。
歩かなくて済む。
人の多い道を通らなくて済む。
そのことばかり考えていた。
綾音が何を思うのか、十分に考えていなかった。
「仕事のせいにしたのは、悪かった」
亮介が言った。
『うん』
「本当は、歩くのが怖かったんだと思う」
恵子は黙っていた。
亮介は言葉を続けた。
「変な話だけど」
『変かどうかは分からない。でも、そんなふうに困ってるなら、一人で何とかしようとしなくてもいいんじゃない』
亮介は顔を上げた。
『ちゃんと相談できるところに相談するとか。仕事も無理しないで』
「うん」
『あと、綾音とのことは、ちゃんと綾音に話してね』
「分かった」
電話の向こうで、綾音の声がした。
「ママ、誰?」
『パパだよ』
恵子が答える。
少しして、娘の声が近づいた。
『パパ?』
「綾音?」
『うん。何してるの』
「今、家に帰ったところ」
『そうなんだ』
綾音は少し黙った。
それから言った。
『日曜日、ちゃんと聞いてね』
亮介は小さく笑った。
「もちろん。四時だろ」
『うん』
「楽しみにしてるよ」
『わたしも』
綾音の声が、少し明るくなった。
そのあと、恵子が電話へ戻った。
『じゃあ、またね』
「うん。ありがとう」
電話が切れた。
亮介はスマートフォンを食卓へ置いた。
外はもう暗くなっていた。
窓の向こうを車のライトが通り過ぎ、壁に一瞬だけ白い光が走った。
亮介は照明を点けた。
明るくなった部屋には、いつもと変わらない家具が並んでいる。
食卓。
椅子。
小さな棚。
玄関へ続く廊下。
何も変わっていなかった。
それなのに、今日の電話をかける前とあとでは、少し違う場所にいるような気がした。
歩くことが怖い。
自分でそう言った。
誰かに初めて、はっきりと。
亮介は立ち上がり、玄関へ行った。
靴が揃えてある。
明日も履く靴だった。
亮介はその前にしゃがみ込み、つま先の擦り傷を指で触った。
何もおかしいところはない。
それでも、明日もまた歩かなければならない。
そのことを考えると、指先が少し冷たくなった。
*
翌朝、市役所へ着いたとき、亮介は深見澄江からの相談記録をもう一度開いた。
道路の異常は見つからなかった。
歩行者の不自然な停止についても、行政として対応すべき危険は確認されていない。
その内容で、すでに整理を終えている。
亮介は記録を読み直した。
最初に現地へ行った日のことを思い出す。
犬を連れた女性。
澄江の家の前。
側溝の蓋。
そのどれも、まだはっきり覚えていた。
相談を受けたときには、道路のどこかに問題があるのだと思っていた。
だから現地へ行った。
ところが、今は道路ではなく自分のことを考えている。
亮介は画面を閉じた。
もう一度、あの道を歩いてみようか。
そう思った。
仕事ではなく。
道路の異常を調べるためでもなく。
自分が何を見落としていたのか、確かめるために。
ただ、深見さんには、どんなふうに話せばいいだろう。
道路には問題がありませんでした。
でも、自分が歩くと人が立ち止まるんです。
そんなことを言われても、困るだろう。
亮介はしばらく机の前で考えていた。
そのとき、ふと一つのことを思い出した。
澄江は、最初から道路そのものが悪いと言っていたわけではない。
人が、妙なところで立ち止まる。
そう言っていた。
理由はあるのに、止まる場所が気になる。
あの女性は、どうしてそこまで人の動きを見ていたのだろう。
亮介は記録に残っていた澄江の連絡先を見た。
仕事としての確認は終わっている。
それでも、個人的に話を聞いてみたいと思った。
もう一度、あの住宅街へ行ってみよう。
そう決めた。




