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通らない道  作者: asnt2026


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20/30

第20話 記録をつけた人

深見澄江は、瀬戸亮介の顔を見ると、少し驚いたように眉を上げた。

「あら、瀬戸さん。今日はお休みじゃないんですか」

「午前中だけ仕事だったんです」

 土曜日の午前、亮介は道路補修の休日立ち会いを終えて市役所へ戻り、未整理の記録を確認していた。昼前に仕事を終え、その足で澄江の家へ来たのだった。

 門の脇には、切りそろえられた植木の枝が小さな束になって置かれている。

 澄江は園芸用の手袋をはめたまま、門扉を開けた。

「また道路のこと?」

「いえ。仕事としての確認は、もう終わってるんです」

「そうなの」

「今日は、個人的に少しお話を聞きたくて」

 澄江は手袋を外した。

「私に?」

「はい。最初に相談していただいたときのことなんですけど」

 亮介は道路を振り返った。

 土曜日の住宅街は静かだった。

 遠くから子どもたちの声が聞こえ、どこかの家の前では洗車をしているらしく、水が地面へ落ちる音が続いている。秋の陽は雲を通して柔らかく差し、濡れた植木の葉だけが小さく光っていた。澄江の家の庭からは土と菊の匂いが漂い、門の横に置かれたじょうろには、昨夜の雨水が少し残っていた。

「以前、歩行者が妙なところで立ち止まるっておっしゃってましたよね」

「ええ」

「いつ頃から気になり始めたんですか」

 澄江は少し考えた。

「いつだったかしら。夏の前くらいかな」

「夏の前?」

「そう。暑くなるより前だったと思います」

 亮介は上着のポケットから手帳を取り出しかけたが、途中でやめた。

 今日は市役所の調査ではない。

 澄江の話を聞きに来ただけだった。

「何かきっかけがあったんですか」

「きっかけねえ」

 澄江は道路の向こうを見た。

「久世さんが、よくあそこに立ってたんですよ」

「久世さん?」

「ええ。少し先に住んでた方で」

 澄江は丁字路の向こうを指さした。

「あの角を曲がったところに、お宅があるんです」

「近所の方ですか」

「そう。昔、交通誘導のお仕事をしてた方でね」

 亮介は少し首を傾けた。

「道路工事の?」

「そういうのもやってたみたいですよ。車の誘導とか、歩いてる人の案内とか。もう何年か前に辞めてたんですけどね」

 澄江は門扉に手を置いた。

「辞めてからも、人が歩いてるのを見るのが好きだったみたい」

「好きだった?」

「ええ。よく道端で手帳に何か書いてたんです」

 亮介は道路の向こうを見た。

 丁字路の角。

 そこには電柱が一本立っている。

 特に変わった場所ではない。

「何を書いてたんでしょう」

「さあ。通る人の数とか、時間とかじゃないかしら」

 澄江は少し笑った。

「変わった人だったってわけじゃないですよ。町内会の仕事もちゃんとやってくれて、挨拶もするし。むしろ几帳面すぎるくらいで」

 亮介は頷いた。

 それから、先ほどの言葉が気になった。

「さっき、昔のお仕事っておっしゃいましたけど」

 澄江は門扉から手を離した。

「久世さん、先月亡くなったんです」

 亮介は顔を上げた。

「そうだったんですか」

「病気でね。しばらく療養してたみたいですけど」

 澄江は小さく息を吐いた。

「まだ六十一だったんですよ」

 亮介は道路の向こうを見た。

 誰も歩いていない。

 電柱の影が、アスファルトの上へ長く伸びていた。

「その方も、人が立ち止まるのを気にしてたんですか」

「どうでしょうね」

 澄江は少し考えた。

「何か気になることがあるみたいでしたけど、私には詳しく話してくれませんでした」

「そうですか」

「でもね、あの人がよく見てたから、私も気にするようになったところはありますよ」

 亮介は澄江を見た。

「久世さんが見ていたから?」

「ええ。道を歩いてる人って、普段はあまり見ないでしょう。見ても、誰がどこで止まったかなんて覚えてないし」

 澄江は笑った。

「ところが、久世さんがよく道を見てるものだから、私もつられて見るようになっちゃって」

 亮介は頷いた。

 最初から澄江だけが異常に気づいたわけではなかった。

 人の動きを観察していた別の人物がいた。

 そのことが、妙に気になった。

「久世さんの記録って、今も残ってるんでしょうか」

 亮介が尋ねると、澄江は少し驚いたように顔を上げた。

「さあ。どうかしら」

「もし残っているなら、一度見てみたいんです」

 澄江は亮介の顔を見た。

「道路に、何かあったんですか」

「いえ。道路そのものには、問題は見つかっていません」

「じゃあ、どうして?」

 亮介は返事を考えた。

 人が自分の前で足を止める。

 それを確かめたい。

 しかし、そんなことを話して何になるのだろう。

 澄江は不思議そうな顔をしている。

 亮介はしばらく迷ったあと、言った。

「最初に相談を受けたとき、僕も歩いてる人のことばかり見てたんです」

「ええ」

「でも、あとから考えると、止まらなかった人のことをほとんど覚えてなくて」

 澄江は頷いた。

「そういうものよね」

「久世さんは、どんなふうに記録してたのかなと思ったんです」

 澄江は少し考えた。

「奥さんに聞いてみましょうか」

「お願いできますか」

「ええ。知ってる方ですし」

 澄江は家の中へ入り、電話を取りに行った。

 亮介は門の外で待った。

 住宅街には、相変わらず何でもない時間が流れている。

 向こうから高齢の男性が歩いてきた。

 男性は亮介に気づくと軽く頭を下げた。

 亮介も頭を下げる。

 そのまま通り過ぎていった。

 何も起こらなかった。

 亮介は、その背中を見送った。

     *

 久世治の家は、澄江の家から歩いて三分ほどの場所にあった。

 白い壁の平屋で、玄関の脇には小さな花壇がある。

 道路に面した窓の上には、防犯カメラが取り付けられていた。

 亮介はそのカメラを一度だけ見上げた。

 レンズは、玄関前から道路の一部へ向けられている。

 久世が何を撮っていたのかは、まだ分からない。

 澄江が先に訪ねてくれたところ、久世の妻が話を聞いてもいいと言ってくれた。

 亮介は門の前で足を止め、インターホンを押した。

 しばらくして、玄関の扉が開いた。

 六十歳前後の女性が顔を出した。

「瀬戸さんですか」

「はい。市役所の瀬戸です。今日は急にすみません」

「いえ。深見さんから聞きました」

 女性は少しだけ頭を下げた。

「どうぞ」

 亮介は靴を脱ぎ、家の中へ入った。

 玄関には、男物の靴が一足だけ残されていた。

 磨かれた黒い革靴だった。

 ほかには女性用の靴が二足と、庭仕事に使うらしい長靴が置かれている。

 亮介は、黒い革靴を見ないようにして居間へ向かった。

 室内には木の家具が並び、棚の上には家族写真が何枚か飾られていた。

 窓際には古い時計が掛かっている。

 秒針が動くたび、かすかな音がした。

 久世の妻は、お茶を用意してくれた。

「主人の記録を見たいとお聞きしましたけど」

「はい。ただ、急にお願いすることではないと思っています。差し支えなければで構いません」

 亮介は名刺を差し出した。

「市役所の職員ですが、今日は正式な調査ではありません。個人的に少し確かめたいことがあって」

 女性は名刺を受け取り、しばらく見ていた。

「主人も、道路のことばかり気にしてましたからね」

 そう言って、少し笑った。

「仕事を辞めてからも、歩いてる人を見ては何か書いてたんですよ」

「そうなんですか」

「ええ。昔からそういう人でした」

 女性は茶碗を置いた。

「旅行に行っても、駅の出口がいくつあるとか、横断歩道を渡るのに何秒かかるとか。そんなことばっかり気にして」

 亮介は思わず笑った。

「職業柄でしょうか」

「そうでしょうね。私にはよく分かりませんでしたけど」

 女性も少し笑った。

 そのあと、視線を棚のほうへ移した。

「病気になってからは、外へ出ることも減ってたんです」

「はい」

「それでも、窓から道を見てることがあって。何をしてるのか聞いたら、いつもの癖だって」

 亮介は頷いた。

 女性はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。

「ちょっと待っててください」

 そう言って、隣の部屋へ入っていった。

 亮介は茶碗へ手を伸ばした。

 温かいお茶だった。

 口に含むと、少し濃い苦味が広がる。

 窓の外では、道路を歩く人の姿が見えた。

 男が一人。

 買い物袋を提げている。

 その少し後ろから、若い女性が歩いてくる。

 女性はスマートフォンを見ていた。

 男が角を曲がる。

 女性はそのまま直進する。

 亮介は、二人の姿が消えるまで見ていた。

 何も起こらなかった。

 ただ、それぞれの道を歩いていった。

     *

 久世の妻が戻ってきた。

 手には、薄い段ボール箱を抱えている。

「これだと思います」

 箱の中には、数冊の手帳が入っていた。

 黒い表紙のもの。

 茶色い革のもの。

 小さなノートも二冊ある。

 女性はそのうち、黒い表紙の手帳を取り出した。

「夏頃から、これをよく使ってました」

 亮介は手帳を見た。

 角が少し擦り切れている。

 表紙には何も書かれていない。

「中を見ても?」

「ええ。ただ、個人的なものもあるかもしれないので、持ち出したり写したりするのは、今は遠慮してもらえますか」

「もちろんです」

 亮介は頷いた。

 女性は手帳を渡した。

 ずっしりとした重さがあった。

 亮介はゆっくり開いた。

 最初のページには、日付と時刻が並んでいる。

 六月。

 その下には、細かな文字で歩行者の動きが書かれていた。

『七時四十二分 男性一名 北から南へ』

『七時四十三分 女性二名 西から東へ』

『七時四十五分 自転車一台 南へ』

 亮介は一行ずつ読んだ。

 何も変わったことは書かれていない。

 人が通った。

 自転車が通った。

 誰かが立ち止まった。

 それだけだった。

 次のページには、簡単な道路の図が描かれていた。

 丁字路。

 その脇に、短い線がいくつか引かれている。

 亮介は図を見つめた。

 深見澄江の家の近くだった。

 自分が最初に確認した道。

 犬を連れた女性が立ち止まった場所。

 そこに似た位置関係が描かれていた。

「ご主人は、ずっとこの道路を見てたんですか」

 亮介が尋ねた。

「そうみたいです」

 久世の妻は頷いた。

「最初は散歩のついでだったと思うんですけど、途中から家の前でも何か記録してました」

「何か気になることがあったんでしょうか」

「どうでしょう」

 女性は少し首を傾けた。

「主人、気になることがあっても、理由が分からないうちはあまり話さない人だったので」

 亮介は手帳へ目を戻した。

 六月の記録が続く。

 七月。

 八月。

 日付が進むにつれて、文字の量は少しずつ増えていた。

 しかし、書かれているのは相変わらず事実だけだった。

 歩いた方向。

 立ち止まった位置。

 通過した時刻。

 持っていた物。

 何かを直したらしい動き。

 そこには、幽霊も怪異も書かれていない。

 誰かが道を塞いだとも書かれていない。

 ただ、人が歩いている。

 そのことだけが、何度も記録されていた。

     *

 亮介は七月のページで手を止めた。

 丁字路の図があった。

 その横に、数人の歩行者についての記録が書かれている。

 その中に、一行だけ気になる記述があった。

『男性一名 濃紺の作業服 西へ通過』

 亮介は、その文字を見つめた。

 濃紺の作業服。

 市役所で自分が着ているものも、濃紺だった。

 もちろん、同じような服を着ている人はいくらでもいる。

 道路工事の作業員。

 配達員。

 設備の点検に来た人。

 それだけで自分だと分かるはずがなかった。

 それでも、次のページにも似た記述があった。

『濃紺作業服の男性 北から南へ』

 さらに数ページ先。

『作業服の男性一名 通過』

 亮介はページを戻した。

 日付を確かめる。

 自分がこの道路の異常に気づくより、ずっと前だった。

 あの頃も、仕事でこの辺りを通っていた。

 道路の補修箇所を確認し、側溝を見て、必要なら写真を撮っていた。

 そのあいだ、誰かが自分を見ていたのだろうか。

 亮介は手帳の端へ指を置いた。

「この方、通る人の服装まで書いてたんですね」

 久世の妻が言った。

 亮介は顔を上げた。

「ええ」

「主人らしいわ。昔から細かいところを見る人だったので」

 女性は少し笑った。

 亮介も頷いた。

 けれど、手帳から目を離せなかった。

 そこには、何度も同じような文字が並んでいる。

 作業服の男性。

 通過。

 立ち止まらずに歩いた。

 ただ、それだけ。

 亮介は自分の手元を見た。

 手帳を持つ指先が、少し冷えていた。

 あの頃、自分は何も知らずにこの道路を歩いていた。

 誰かが足を止めたことも。

 その横を通り過ぎたことも。

 ほとんど覚えていない。

 けれど、ここには記録が残っている。

 亮介はもう一度、七月のページを開いた。

 久世の文字は、どれも同じ大きさだった。

 特別なところに丸がつけられているわけでもない。

 線が引かれているわけでもない。

 ただ、人が通ったという事実が、そこに残されていた。

 亮介はページをめくろうとして、手を止めた。

 その先に何が書かれているのか、まだ分からない。

 けれど、もしあの頃の自分がここを歩いていたのなら。

 その日、自分の近くにいた人が、何をしていたのか。

 今まで知らなかったことが、少しだけ分かるかもしれない。

 そう思った。

 その一方で、何も知らなかった頃の自分へ、もう戻れないような気もした。

 亮介は手帳を閉じず、静かに次のページをめくった。

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