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通らない道  作者: asnt2026


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21/30

第21話 事実しかない

七月二十三日。

 午後四時十八分頃、女性一名が南から北へ歩いた。

 その下に、もう一行あった。

 男性一名。西から東へ。停止なし。

 瀬戸亮介は、そこで指を止めた。

 停止なし。

 久世治の手帳には、何度もその言葉が出てくる。

 歩行者が立ち止まった記録もあるが、何事もなく通り過ぎた人についても、同じように時刻と方向が書かれていた。

 亮介は少し前のページへ戻った。

 七月二十二日。

 午後三時四十分頃。

 女性一名、買い物袋を右手に持つ。丁字路手前で袋を持ち直す。十秒程度停止。

 そのあとに続いていたのは、自転車二台の通過記録だった。

 さらに一行。

 男性二名、会話しながら南へ。停止なし。

 亮介は紙の端を親指で押さえた。

 見慣れた言葉ばかりだった。

 買い物袋。

 自転車。

 歩行者。

 停止。

 それなのに、他人の手帳に並んでいると、普段とは少し違って見えた。

「何か気になることがありました?」

 向かいに座る久世の妻が尋ねた。

 亮介は顔を上げた。

「止まらなかった人のことも、ずいぶん細かく書かれているんですね」

「ああ、そうみたいですね」

 女性は手帳をのぞき込んだ。

「主人、何かを数え始めると、きちんと最後まで数えたい人でしたから」

「そうだったんですか」

「散歩に出るときも、今日は何分歩いたとか、歩数がどうだったとか。雨の日には滑りやすい場所まで教えてくれて」

 女性は少し笑った。

「助かることもあったんですけど、こっちはそこまで気にしてないのにって思うこともありました」

 亮介も口元を緩めた。

 手帳を持つ手から、少しだけ力が抜ける。

 窓の外には、土曜日の住宅街が広がっていた。

 午後の日差しが道路の片側だけを照らし、久世家の低い生垣には、明るい部分と暗い部分がくっきり分かれている。庭の菊から湿った土の匂いが漂い、遠くでは子どもが自転車のベルを鳴らしていた。

 家の中は静かだった。

 壁の時計が進む音だけが、一定の間隔で聞こえている。

「夏になってからは、特に記録が増えてますね」

 亮介が言うと、久世の妻は頷いた。

「体調が悪くなって、外へ出ることが減ったせいかもしれません」

「窓から見ていたんでしょうか」

「そういう日もありました。椅子を窓際へ持っていってね」

 女性は道路に面した窓を見た。

「あそこに座って、通る人を眺めてました」

 亮介も窓へ目を向けた。

 確かに、道路がよく見える位置だった。

 向かいの家の塀。

 丁字路へ続く道。

 電柱のある角。

 ただ、すべてが見えるわけではない。

 塀の向こうは隠れているし、曲がった先の道路もほとんど分からない。

 この場所から見えることには、限界がある。

 亮介は手帳へ目を戻した。

 そこには、久世が見たものだけが書かれていた。

     ◇

 次のページには、丁字路の簡単な図が描かれていた。

 まっすぐ伸びる道路。

 そこへ横からつながる細い道。

 交わる場所には、短い線が何本か引かれている。

 亮介は最初、その線が何を表しているのか分からなかった。

 けれど、欄外に書かれた文字を読むと、おおよその意味が見えてきた。

『A 東から西』

『B 北から南』

『B停止 A通過』

 その下には、小さな文字が続いている。

『B、上着の前を直す』

 亮介は図を指先でなぞらないよう、少し離れたところから見つめた。

 誰かが歩いてきた。

 別の誰かも歩いてきた。

 一人が服を直そうとして足を止め、もう一人が通り過ぎた。

 あの住宅街で、自分も何度か見た光景だった。

 久世はその出来事を、ただ図に残している。

 なぜ止まったのか。

 どうしてそのタイミングだったのか。

 誰のせいで止まったのか。

 そうしたことは書かれていない。

 亮介は次の図を見た。

 こちらには、二人の進路が交わる場所で、両方が少しずつ方向を変えたことが記されている。

『相互によける。停止なし』

 また別の図には、

『先行者、速度低下。後続者追越し』

 とあった。

 どれも普通の道路で起こることだった。

 しかし、こうして並べられると、一人ひとりの動きが、どこかの分岐点のように見えてくる。

 片方が足を止める。

 もう片方が進む。

 誰も止まらず、少しずつ道を譲り合う。

 あるいは、急いでいる人がそのまま追い抜く。

 そこには、何かを選び続ける人間の動きが残されていた。

 亮介は、自分が最初に書いた記録を思い出した。

 犬を連れた女性。

 靴紐を結んだ女性。

 鞄を持ち直した男性。

 自分は、止まった人ばかりを覚えていた。

 気になる行動だけを拾い、それを確かめようとしていた。

 久世の手帳は違った。

 何も起こらずに通り過ぎた人も、同じように一行を与えられている。

 そのことが、妙に羨ましかった。

 これほど丁寧に記録できれば、自分にも何かが分かっただろうか。

 けれど、次の瞬間には考え直した。

 久世もまた、答えを持っていなかったのではないか。

 少なくとも、この手帳の中には見当たらない。

     ◇

 亮介は八月のページを開いた。

 記録の量が少し減っている。

 一日に数行だけの日もあれば、何も書かれていない日もあった。

 久世の妻は、亮介の視線に気づいたらしい。

「八月になってからは、体調がよくない日が増えましたから」

「そうだったんですね」

「暑い日も多かったでしょう。窓際に座ってるだけで疲れるみたいで」

 女性は膝の上で手を重ねた。

「それでも、調子のいい日は手帳を開いてました」

 亮介はゆっくり頷いた。

 手帳の文字は、八月に入ってから少し大きくなっていた。

 以前より行間が広い。

 時刻の書き方も、ところどころ簡単になっている。

 ただし、何を見たのかについては、相変わらず曖昧な言葉が少なかった。

『女性、袋を持ち直す』

『男性、道路中央を通過』

『二名、会話しながら曲がる』

 見たことを、そのまま書いている。

 久世が何を考えていたのかは分からない。

 亮介は一つの記録を見つめた。

『男性一名、角の手前で停止。後続者が通過』

 その場面を思い浮かべた。

 角の手前に立つ男。

 背後から来た別の人。

 追い抜いていく靴音。

 自分が以前、住宅街で体験したことによく似ていた。

 けれど、その場にいたのは誰だったのだろう。

 なぜ止まったのだろう。

 本人は急いでいたのか。

 後ろの人に道を譲るつもりだったのか。

 手帳からは分からない。

 久世はその場面を見ていた。

 しかし、見ていたことと、すべてを知っていたことは違う。

 亮介はページを閉じかけた。

 そのとき、八月の後半に挟まれた小さな紙片が目に入った。

 手帳のものとは違う、少し厚い紙だった。

 亮介は指を止めた。

「これも見てもいいですか」

 久世の妻が身を乗り出した。

「何でしょう」

 紙片には、短い文字が書かれていた。

『六月分 確認済』

『七月分 保存済』

『八月分 一部』

 それだけだった。

「何かの記録でしょうか」

 亮介が尋ねると、女性はしばらく紙片を見ていた。

「ああ、もしかしたら」

 女性は顔を上げた。

「カメラの映像かもしれません」

「映像?」

「玄関の外についてる防犯カメラです。主人が、たまにパソコンで見てたんですよ」

 亮介は窓の外を見た。

 道路に面した軒下に、小さなカメラが取り付けられている。

 家へ入る前に見上げたものだった。

「そこに映っていたものを確認してたんでしょうか」

「そうみたいです。録画してあっても、古いものから消えていくんですってね。主人は気になったところだけ、別に残していたみたいで」

 亮介はもう一度、紙片を見た。

 七月分。

 保存済。

 久世が見ていた光景の一部が、残っているのかもしれない。

「今も、残っているんでしょうか」

「どうでしょうね。機械のことは主人に任せきりでしたから」

 女性は少し考えた。

「古いパソコンはまだありますけど、私にはよく分からなくて」

 亮介は紙片を手帳へ戻した。

「もし残っていても、無理に見せていただく必要はありません」

「ええ。ちょっと確認してみますね」

 女性はそう言ったが、すぐには立ち上がらなかった。

 茶碗へ手を伸ばし、少し冷めたお茶を飲んだ。

「主人ね、何か分かったら話すって、よく言ってたんです」

 亮介は顔を上げた。

「何か、ですか」

「ええ。でも、何を調べてるのかは、結局よく分かりませんでした」

 女性は小さく笑った。

「いつものことだったんですよ。気になったことを調べ始めると、こちらが忘れた頃までずっと続けてて」

 亮介は手帳を見た。

 几帳面に並んだ時刻。

 歩行者の向き。

 止まった人。

 止まらなかった人。

 久世は最後まで、何かを分かったのだろうか。

 そう考えたが、尋ねなかった。

 もう答えられる人はいない。

     ◇

 帰る前、亮介は手帳を元の箱へ戻した。

 久世の妻は、玄関まで見送ってくれた。

「映像のことは、少し調べてみます」

「ありがとうございます。でも、無理はなさらないでください」

「ええ。うちの者にも聞いてみます」

 亮介は頭を下げた。

 外へ出ると、午後の陽はすでに傾いていた。

 道路の向こうを、若い男性が歩いている。

 片手に買い物袋を提げ、もう一方の手でスマートフォンを操作していた。

 亮介はその動きを目で追った。

 男性は何もせず、丁字路を曲がっていった。

 それだけだった。

 亮介は、久世の手帳を思い出した。

 もし今の場面を書き残すなら、どうなるだろう。

 午後二時過ぎ。

 男性一名。

 西から東へ。

 停止なし。

 おそらく、それだけだ。

 あの男性が何を考えていたのか。

 どこへ行こうとしていたのか。

 なぜあの角を曲がったのか。

 そんなことは書けない。

 亮介は歩き出した。

 少し先で向こうから女性が来た。

 女性は鞄の持ち手を直し、道の端へ寄った。

 亮介はその横を通り過ぎた。

 振り返ると、女性はもう歩いている。

 久世なら、あの数秒を記録しただろうか。

 それとも、何も起こらなかった人として数えただろうか。

 亮介は前を向いた。

 見ていたのは、自分だけだった。

 そのことに気づくと、手帳の文字が、さっきまでとは少し違って思い出された。

 久世はあの道に立ち、何度も人の動きを見ていた。

 誰かが止まるたび、時刻を書いた。

 通り過ぎた人も記録した。

 けれど、彼自身が歩かなかった道については、何も書かれていない。

 当然だった。

 あの手帳は、久世が見た道路の記録なのだ。

 世界のすべてが、そこに残っているわけではなかった。

 亮介は丁字路の手前で一度立ち止まった。

 左へ曲がれば駅に近い。

 右へ曲がれば、先日歩いた文具店のある道へつながっている。

 少し考えて、左を選んだ。

 久世の手帳なら、その動きも一行で終わるのだろう。

 男性一名。

 左折。

 停止一回。

 それだけで、その人がなぜ左へ曲がったのかを知ることはできない。

 亮介はそんなことを考えながら、駅へ向かった。

 どこからか、夕食の支度をする匂いが流れてきた。

 道路はいつもと同じだった。

 ただ、その道を見ていた人が、もう一人いたことを知ってしまった。

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