第22話 残っていた映像
映像を保存したのは、久世治自身だった。
そのことを亮介が知ったのは、翌日の日曜日だった。
午前十時過ぎ、久世の妻から電話があった。
『昨日お話しした、カメラの映像なんですけど』
亮介は洗い終えた食器を棚へ戻しているところだった。
「はい」
『主人のパソコンとは別に、小さな記憶装置があって。そこに幾つか残していたみたいなんです』
「そうでしたか」
『家族に中を見てもらったんですけど、道路の映像ばかりでした。主人が自分で保存していたものだそうです』
亮介は食器棚の扉を閉めた。
『ただ、ほかの方も映ってますからね。お見せするのは構いませんけど、外へ持ち出したりはしないでいただきたいんです』
「もちろんです。見るだけで構いません」
『それでしたら、今日のお昼前くらいに来られますか』
亮介は時計を見た。
午前十時十二分。
午後四時には綾音と電話する約束がある。
それまでに十分戻れるだろう。
「十一時頃に伺ってもよろしいですか」
『ええ。お待ちしてます』
電話を切ったあと、亮介はしばらく食卓の前に立っていた。
昨日見た久世の手帳が、頭に浮かんでいた。
人が歩く。
立ち止まる。
また歩き出す。
それだけの記録だった。
映像が残っているとしても、映っているのは同じような光景だろう。
けれど、そこには文字だけでは分からなかったものが残っているかもしれない。
立ち止まる前の歩幅。
手を動かす順番。
何かに気づいたときの、ほんのわずかな身体の傾き。
亮介は自分の右手を見た。
何度も人の動きを見てきた。
それでも、見た直後に忘れてしまうことのほうが多かった。
映像なら、もう一度見ることができる。
同じ瞬間を、何度でも。
そう思ったところで、亮介は食卓の時計へ目を向けた。
あまり早く出る必要はない。
まだ約束まで時間がある。
その事実に、少しだけ救われた気がした。
◇
久世の家へ向かう途中、亮介は何度か足を止めた。
以前のように、向こうから人が来るたびに動けなくなるわけではなかった。
けれど、歩行者が鞄を直したり、道端へ寄ったりすると、どうしても目が向いてしまう。
日曜日の住宅街は、平日より静かだった。
庭仕事をする人が何人かいて、遠くでは子どもたちがボールを蹴る音がしている。空は明るく晴れていたが、風は少し冷たく、塀の上の洗濯物がゆっくり揺れていた。刈り取った草の青い匂いと、どこかの家で焼くパンの匂いが、道の途中で入れ替わった。
久世の家の前まで来ると、亮介は軒下のカメラを見上げた。
小さな黒い機械だった。
道路へ向けられたレンズには、朝の光が反射している。
そこから何が見えるのだろう。
亮介は、カメラの下に立って道路を見た。
向かいの塀。
丁字路へ続く道。
左側の住宅の窓。
確かに、通行人を観察するには悪くない位置だった。
ただ、レンズが向いている範囲は限られている。
丁字路の角から先は、塀に遮られて見えない。
亮介はインターホンを押した。
しばらくして、久世の妻が玄関を開けた。
「どうぞ。ちょうど準備できたところです」
亮介は頭を下げ、家の中へ入った。
居間には、昨日と同じテーブルがあった。
その端に古いノートパソコンが置かれている。
黒い本体の角には小さな傷があり、電源コードが床を這っていた。
画面には、青い背景のフォルダーが幾つか並んでいる。
「家族に見てもらったら、これだろうって」
久世の妻は、パソコンの脇に置かれた小さな記憶装置を示した。
銀色の細長いものだった。
「主人、カメラの映像はそのままだと古いものから消えるから、気になるところだけ別に取っておくって言ってたんです」
「そうだったんですね」
「家の前の道で、自転車が飛ばしてくることもあるでしょう。危ない場所がないか気にしてたみたいで」
亮介は頷いた。
久世が交通誘導の仕事をしていたことを思い出した。
通行人の動きが気になるのは、長年の習慣だったのかもしれない。
そこに何か別の目的があったのかどうかは、分からない。
「これ、全部で六つしかないんです」
女性が言った。
「短い映像ばかりで。主人が何を確認したかったのかは、私には分からなくて」
「十分です」
亮介は椅子へ座った。
女性はパソコンの操作を確かめながら、一つ目のファイルを開いた。
◇
画面に映ったのは、何でもない住宅街だった。
久世の家の前の道路。
向かいのブロック塀。
少し先の電柱。
カメラの端には、生垣の葉が映り込んでいた。
亮介は画面へ顔を近づけた。
日付は六月だった。
時刻は午後三時過ぎ。
道路の向こうから、高齢の男性が歩いてくる。
片手には買い物袋があり、もう一方の手で帽子のつばを押さえていた。
男性はゆっくり歩いた。
途中で一度、足を止める。
帽子を取り、額を拭いた。
それから再び歩き始めた。
映像はそこで終わった。
亮介は画面を見ていた。
「普通ですね」
久世の妻が言った。
「ええ」
「主人、こういうのも保存してたんですよね」
亮介は頷いた。
男性が足を止めたのは、暑かったからかもしれない。
帽子を外し、汗を拭いた。
そこには何の不思議もなかった。
次の映像では、自転車に乗った若い男性が通り過ぎた。
速度はそれほど速くない。
画面の端から現れ、向こうへ消える。
その直後に、歩行者が一人映った。
女性だった。
女性はスマートフォンを見ながら歩いていたが、立ち止まらずに丁字路を曲がっていった。
映像はそこで終わった。
「これも、普通ですね」
亮介が言うと、女性は少し笑った。
「でしょう。私も昨日見て、何で残してたのかなって思いました」
亮介は画面を見たまま頷いた。
何も起こらなかった人。
久世は、その動きも残している。
手帳と同じだった。
特別なものばかりを集めているわけではない。
比較するためだったのか。
ただ気になったからなのか。
本人に聞くことはできなかった。
◇
三つ目の映像は、八月の夕方だった。
画面の色が少し暗い。
西日が建物の壁に当たり、道路の中央には細長い影が伸びている。
向こうから一人の女性が歩いてきた。
白いシャツに紺色のズボン。
片手に布製の鞄を提げていた。
女性は普通の速度で歩いていたが、カメラの近くへ来る少し前に、鞄の持ち手を握り直した。
歩幅が小さくなる。
立ち止まりかける。
そのとき、画面の右端から別の人物が現れた。
濃紺の上着を着た男性だった。
男性は道路の端を歩き、女性の横を通り過ぎる。
女性は鞄を持ち直したあと、再び歩き始めた。
亮介は画面を見つめた。
濃紺の上着。
歩き方。
肩に掛けた鞄。
どこかで見たことがあるような気がした。
「今の人、もう一度見てもいいですか」
「ええ、どうぞ」
女性が再生位置を戻した。
同じ光景が繰り返される。
白いシャツの女性が歩く。
鞄を直す。
濃紺の男性が現れる。
通り過ぎる。
女性が歩き出す。
亮介は男性の顔を確かめようとした。
しかし、画面の端を通る時間は短く、顔は横を向いていた。
濃紺の上着だけでは、誰なのか分からない。
近所の作業員かもしれない。
自分が仕事で通ったときの姿かもしれない。
「この辺り、工事でもしてたんでしょうか」
久世の妻が尋ねた。
「八月ですか」
「ええ。よく作業服の人が通ってるから」
亮介は画面を見た。
「この近くの道路は、何度か確認に来たことがあります」
「そうなんですか」
「はい。ただ、いつだったかまでは」
亮介は途中で言葉を切った。
自分が通った日付なら、仕事の記録に残っているかもしれない。
しかし、今ここで確認するものではない。
そもそも映像に映っていた人物が自分かどうかも、まだ分かっていない。
「次も見せていただけますか」
「ええ」
女性は別のファイルを開いた。
◇
四つ目の映像には、雨上がりの道路が映っていた。
水たまりに空が反射し、向こうの塀が少し濡れている。
高齢の女性が一人、ゆっくり歩いてきた。
女性は途中で足を止め、靴の裏を確かめるように少し持ち上げた。
それから道端へ寄る。
カメラの画面では、その足元までよく見えない。
しばらくして女性は歩き出し、丁字路を曲がっていった。
亮介はその動きを見ていた。
自分は映っていない。
近くにほかの歩行者がいたのかどうかも、画面からは分からない。
ただ、女性が立ち止まったことだけが残っている。
久世は何を確かめたかったのだろう。
亮介は映像が終わっても、しばらく画面を見ていた。
ふと、久世の妻が言った。
「主人、こういう映像を見るとき、何回も同じところを戻してたんですよ」
「そうだったんですか」
「ええ。早送りしたり、止めたり」
女性は少し笑った。
「私には、何が違うのか全然分からなかったんですけど」
亮介は頷いた。
自分も同じことをしていた。
深見澄江の家で、防犯カメラの映像を何度も見直した。
犬を連れた女性。
靴紐を直した女性。
ほんの数秒の動きを、何度も繰り返した。
久世も、そうしていたのだろうか。
ただ違いがあるとすれば、久世は自分がその場にいたわけではない。
歩行者たちを観察していた。
その中の誰かが、少し気になったのだろうか。
亮介は画面の端に表示されたファイル名を見た。
数字が並んでいた。
日付と時刻を組み合わせたものらしい。
久世が整理しやすいようにつけた名前だろう。
残っているのは、あと二つだった。
◇
五つ目の映像は、七月の夕方だった。
画面の中に、西日を受けた道路が映っている。
カメラの前を、二人の歩行者が通り過ぎた。
一人は若い女性。
もう一人は、年配の男性だった。
女性は少し早足で歩き、男性はゆっくり進んでいる。
二人はすれ違った。
どちらも止まらなかった。
映像は短く、すぐに終わった。
亮介は画面を見つめた。
何も起こらなかった。
久世は、こうした普通のすれ違いも保存していた。
それが、少しだけ気になった。
「あと一つですね」
久世の妻が言った。
「はい」
女性は最後のファイルへカーソルを移動させた。
ファイル名には、七月の日付と、夕方の時刻が入っていた。
亮介は数字を見た。
その日付には、覚えがあった。
仕事でこの近くへ来た日だったかもしれない。
ただ、何の確認をしたのかまでは、すぐに思い出せなかった。
女性がファイルを開く。
黒い画面が一瞬表示される。
次に、住宅街の道路が現れた。
今までの映像と同じ場所だった。
同じ電柱。
同じ塀。
同じ丁字路。
しかし、画面の左端に現れた人物を見た瞬間、亮介は少し身を乗り出した。
濃紺の作業服。
肩に掛けた鞄。
見覚えのある歩き方。
男性は、道路の端を歩いていた。
亮介は、自分の喉が少し乾いたのを感じた。
「すみません」
声が出た。
「ここで、一度止めていただけますか」
久世の妻が再生を止めた。
画面の中で、濃紺の作業服の男性が静止した。
亮介はその顔を見た。
横を向いていて、まだはっきりとは分からない。
けれど、自分に似ていると思った。
思ったというより、そう見えることが気になった。
女性は亮介の様子を見ていた。
「お知り合いですか」
亮介は返事をしなかった。
画面の中の男は、何も知らずに歩いている。
その姿を、亮介は見つめていた。
数か月前の自分かもしれない。
そう考えた。
そして、もし本当に自分だったら、あのとき何をしていたのだろうと思った。
映像は、まだ途中で止まっていた。




