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通らない道  作者: asnt2026


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23/30

第23話 十七時六分

瀬戸亮介は、画面の中の男が持っている鞄を見ていた。

 濃紺の作業服に、黒い肩掛け鞄。

 鞄の外側には、細い灰色の線が入っている。

 亮介は自分の足元へ視線を落とした。

 今日持ってきた鞄にも、同じような線があった。

 市役所へ通うとき、いつも使っているものだった。

 肩紐の長さも、似ている。

 画面の中の男は左肩に鞄を掛け、右手を軽く曲げて歩いていた。

 亮介は、久世の妻へ顔を向けた。

「もう少し再生していただけますか」

「ええ」

 女性が操作する。

 画面の中の男が動き始めた。

 濃紺の作業服の胸元が、ほんの一瞬、カメラのほうへ向く。

 亮介は息を止めた。

 顔が見えた。

 仕事帰りの男だった。

 少し疲れたような表情で、前を向いて歩いている。

 左の頬に、午後の陽が当たっていた。

 亮介は、その顔を知っていた。

 毎朝、洗面台の鏡で見る顔だった。

「これ、僕です」

 言葉が出た。

 久世の妻が画面を止める。

「瀬戸さんが?」

「はい」

 亮介は頷いた。

「三か月くらい前だと思います」

 女性は画面の端に表示された日付を見た。

「七月十六日ですね」

 亮介は、その日付を確かめた。

 七月十六日。

 仕事で何をしていた日だろう。

 思い出そうとしても、すぐには出てこなかった。

 ただ、この近くを歩いていたことは不思議ではない。

 道路維持の仕事で、何度も周辺の住宅街へ来ている。

 あの道を通ったこと自体は、何もおかしくなかった。

 亮介は画面を見つめた。

 そこには、三か月前の自分がいる。

 何も知らずに歩いている男がいる。

 そのことが、妙に落ち着かなかった。

     ◇

 映像の右上には、数字が表示されていた。

 日付。

 時刻。

 秒数。

 十七時六分。

 亮介はその数字を見た。

 午後五時六分。

 夏の夕方だった。

 まだ空は明るく、道路には長い影が伸びている。

 画面の中では、亮介が丁字路へ近づいていた。

 向こうから、別の男性が現れる。

 薄い茶色のシャツを着て、右肩に大きな鞄を掛けていた。

 男性は、丁字路へつながる道を歩いている。

 そのまま進めば、亮介と同じ場所へ差しかかる。

 画面の中の二人は、互いに相手へ近づいていった。

 亮介は椅子の端へ身を寄せた。

 鞄を掛けた男性の足元を見る。

 歩く速度は普通だった。

 急いでいるようにも見えない。

 ただ、肩に掛けた鞄が少し重そうだった。

 男性は何度か右肩を持ち上げている。

 そのたびに、鞄の位置がわずかに変わった。

 亮介は自分の肩を見た。

 仕事の鞄を長く掛けていると、同じように肩を持ち上げることがある。

 持ち手がずれたとき。

 鞄の中身が片側へ寄ったとき。

 肩が痛くなったとき。

 どれも珍しいことではなかった。

 画面の中の男性が、右手を上げた。

 肩紐が、少し滑っている。

 男性はそれを掴もうとした。

 その瞬間、歩幅が小さくなった。

 亮介は画面の時刻を見た。

 十七時六分十四秒。

 男性の右足が地面へ着く。

 次の一歩が、出ない。

 肩紐を握った右手が、少し上へ動く。

 鞄の底が身体へ当たった。

 男性は道の端へ寄った。

 足が止まる。

 亮介は、自分の手が膝の上で強く握られていることに気づいた。

 画面の中の男は、鞄を直しているだけだった。

 それだけなのに、目を離せなかった。

 男性は肩紐を引き上げ、位置を直した。

 鞄が身体の横へ戻る。

 そのあいだに、濃紺の作業服の男が丁字路へ入ってきた。

 亮介だった。

 過去の自分は、何も気にしていない様子で歩いている。

 前から来た男性が足を止めたことに、気づいていたのだろうか。

 気づいていたとしても、ただ道を譲ってもらったと思ったのかもしれない。

 亮介は画面に近づいた。

 濃紺の男は、足を止めなかった。

 歩幅もほとんど変えず、そのまま丁字路を通過した。

 十七時六分十八秒。

 画面の端へ向かって歩いていく。

 男性はまだ鞄を直していた。

 亮介が通り過ぎたあと、ようやく右手を下ろす。

 少し遅れて歩き始めた。

 映像はそこで終わった。

     ◇

 部屋の中が静かになった。

 窓の外から、子どもの笑い声が聞こえてくる。

 遠くで車が走り、砂利を踏むような音がした。

 亮介は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 映像は二十数秒しかなかった。

 それでも、何度も見てきたものが、そこに残っていた。

 鞄を持ち直す男性。

 その横を通る自分。

 男性が再び歩き始める。

 すべて普通の行動だった。

 誰も不自然な姿勢を取っていない。

 誰も、見えない何かに引っ張られているわけではない。

 ただ、二人の歩く時間が少しだけずれていた。

「瀬戸さん?」

 久世の妻が声をかけた。

 亮介は顔を上げた。

「大丈夫ですか」

「あ、はい」

 亮介は椅子の背へ身体を戻した。

「すみません。少し驚いてしまって」

「ご自分が映ってましたものね」

「ええ」

 女性は画面を見た。

「主人、こういう映像を何度も見てたんですよ」

 亮介は頷いた。

 何かを尋ねようとして、やめた。

 久世が何を考えていたのか、今さら確かめることはできない。

 彼がこの映像を保存した理由も、手帳と照らし合わせていた理由も、分からない。

 ただ、保存されていた。

 それだけだった。

「もう一度だけ、見せていただけますか」

「もちろんです」

 女性が再生位置を戻した。

 画面の中の道路が、数秒前へ戻る。

 まだ誰も立ち止まっていない。

 男性が歩いている。

 濃紺の作業服の男も歩いている。

 久世の家の前にある植木が、風で小さく揺れていた。

 亮介は画面を見た。

 肩紐が滑る。

 男性が手を上げる。

 足が止まる。

 自分が通り過ぎる。

 何度見ても、同じ順番だった。

 当たり前のことだった。

 映像なのだから。

 けれど亮介は、その順番を少しだけ変えたくなった。

 男性が足を止めなかったら。

 自分も速度を落としていたかもしれない。

 丁字路で、少し立ち止まったかもしれない。

 そのあいだに、何か別のことが起きていたかもしれない。

 しかし画面の中では、誰も止まらなかったことにはできない。

 男性は必ず鞄を直す。

 自分は必ず通り過ぎる。

 その二つの出来事だけが、何度でも繰り返された。

     ◇

 亮介は画面の時刻をもう一度確かめた。

 十七時六分。

 それから、スマートフォンを取り出した。

 自分の古い仕事の予定を調べる。

 七月十六日。

 その日は午後から、南倉市の西側で道路の確認をしていた。

 手元に残っていた予定表には、道路脇の縁石の破損確認と書かれている。

 確認を終えたのは、午後四時五十分前後だった。

 そのあと、駅へ向かって歩いたはずだった。

 亮介は画面と予定表を見比べた。

 丁字路は、その帰り道にあった。

 通る理由はある。

 時刻も、大きく矛盾しない。

 それ以上のことは分からなかった。

 久世の妻が、亮介の手元を見た。

「何か分かりました?」

「この日、近くで仕事をしてました」

「そうなんですか」

「帰りに通ったみたいです」

 亮介は予定表を閉じた。

「ただ、この男性のことは覚えてなくて」

 女性は画面へ目を向けた。

「そうでしょうね。普通にすれ違っただけですもの」

 亮介は頷いた。

 その言葉が、少しだけ胸に残った。

 普通にすれ違っただけ。

 まったくそのとおりだった。

 七月の自分なら、そう考えただろう。

 鞄を直していた男性のことを、気にする必要などない。

 道を空けてくれたから、そのまま進んだ。

 それで終わりだった。

 しかし今は、同じ映像を何度も見ている。

 男性が止まった理由ではなく、止まった瞬間ばかり気にしている。

 亮介は椅子から立ち上がった。

「今日は、ありがとうございました」

「もういいんですか」

「はい。十分見せていただきました」

 女性は頷いた。

 亮介は深く頭を下げた。

「大切なものを見せていただいて、すみませんでした」

「いえ。主人も、誰かに見てもらえたほうがよかったかもしれません」

 女性は少し笑った。

「何を調べてたのか、私は結局よく分かりませんでしたから」

 亮介は返事を考えた。

 久世が調べていたことを、自分は知っているのだろうか。

 少なくとも、久世自身が何を考えていたのかは分からない。

「本当に、ありがとうございました」

 もう一度頭を下げた。

 女性は玄関まで見送ってくれた。

     ◇

 外へ出ると、日差しが少し強くなっていた。

 雲が切れたらしい。

 道路の向こうでは、買い物袋を提げた女性が歩いている。

 その少し先から、自転車に乗った男性が近づいてきた。

 二人は自然に道の端へ寄り、そのまますれ違った。

 何も起こらなかった。

 亮介は、久世の家の前に立っていた。

 軒下の防犯カメラを見上げる。

 あのレンズは、今も同じ方向へ向いている。

 道路。

 電柱。

 丁字路。

 映るものは、三か月前とそれほど変わらない。

 亮介は道路の先を見た。

 そこには、七月の自分が歩いていたはずだった。

 午後五時六分。

 仕事を終え、駅へ向かう途中の男。

 肩に鞄を掛け、特に急いでいるわけでもなく歩いている。

 その前で、別の男性が足を止めた。

 そして、自分は通り過ぎた。

 亮介は丁字路へ向かって歩き始めた。

 途中、向こうから高齢の女性が来た。

 女性は、亮介の少し手前で足を緩めた。

 片手に持っていた買い物袋を持ち直す。

 亮介は、その動きを見た。

 数か月前の映像が重なった。

 鞄がずれる。

 足が止まる。

 自分が通る。

 女性は、袋の持ち手を握り直した。

 それから顔を上げる。

 亮介は一歩だけ道の端へ寄った。

 女性も少し身体を傾ける。

 二人は何事もなくすれ違った。

 亮介は歩き続けた。

 丁字路が近づいてくる。

 あの映像では、ここを通り過ぎていた。

 何も考えずに。

 誰かが道を譲ってくれたことにも、気づかないまま。

 亮介は丁字路の手前で足を止めた。

 七月の自分は、このあたりで何を見ていたのだろう。

 向こうから来た男性か。

 道路の先か。

 駅へ向かう道か。

 少なくとも、足を止めなかったことだけは分かっている。

 画面の中では、そうだった。

 亮介は振り返った。

 久世の家が見える。

 軒下のカメラは、こちらを向いているようにも見えた。

 しかしレンズは動かなかった。

 ただ、同じ場所を映している。

 亮介はもう一度、丁字路を見た。

 画面では見えなかった横道が、塀の向こうへ続いている。

 あの映像は、途中で終わっていた。

 自分がそこを通り過ぎたあと、何が起きたのかまでは残っていない。

 亮介は、横道の奥をのぞいた。

 住宅の塀が続いている。

 その向こうには、別の道路があるはずだった。

 七月の自分は、あの道を見ただろうか。

 たぶん、見ていない。

 通り過ぎただけだから。

 亮介は一歩前へ出た。

 それから、もう一度足を止めた。

 今度は、誰かが来たからではなかった。

 曲がろうと思ったからでもない。

 ただ、ここで立ち止まってみたかった。

 七月の自分が、立ち止まらなかった場所で。

 風が吹いた。

 塀の上の葉が揺れ、乾いた音を立てる。

 遠くで子どもの声が聞こえた。

 どこにでもある、日曜日の住宅街だった。

 亮介はそこに立ったまま、しばらく動かなかった。

 あの映像には、自分が歩いていく姿が残っている。

 けれど、歩き続けたことで何が変わったのかは映っていない。

 それを確かめる方法がないことだけが、今は妙にはっきり分かっていた。

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